ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

日光街道を歩く(07:栗橋) 埼玉県久喜市  2km 2016.10.16


(写真は、「静御前の墓」の説明板に描かれた「静御前」の絵)

栗橋宿は、度重なる水害や利根川の改修工事により、
何度も宿場町の移転を余儀なくされたため、残念ながら
宿場町の雰囲気は何も残っていません。

取り敢えず、栗橋宿に残る唯一の遺構「静御前の墓」へ向かう
ため、街道を左折して、JR・東武の栗橋駅を目指します。
栗橋駅までは、かなり距離があったので、途中で、道を
間違えたのではないかと不安になりました。

ようやく栗橋駅が見えて来て、駅の左手に上の写真の小公園が
ありました。


その小公園に、「静女之墳(しずじょのはか)」と刻まれた
下の写真の静御前の墓碑が建っています。



その墓塔の左脇に、「義経招魂碑」、「静女所生御曹子
供養塔」と刻まれた大小2つの石塔がありました。
「静女所生御曹子供養塔」とは、誰の供養塔なのでしょうか?

案内板によると、京の白拍子(舞女)だった静御前は、源義経
の寵愛を受けて、義経の妾(しょう)になります。

義経が頼朝によって京を追われた時、静御前は捕らえられて
鎌倉へ送られました。

静御前は、頼朝の前で舞を舞う様に命ぜられますが、義経を
恋い慕った歌を唄い舞います。

 ”静やしづ しづのおだまき くり返し 昔をいまに 
なすよしもがな”

 (「おだまき」は、布を織る糸を巻く器具ですが、
「おだまき」の様に、昔を今に戻すことができたら
いいのに、と義経への慕情を詠んだもの。)

これに激怒した頼朝が、刀に手をかけますが、奥方の北条政子
が、静の心情を哀れんでとりなしたそうです。


静御前は、頼朝に捕われた時義経の子を身ごもっていました。

頼朝は「産まれた子が女なら助けるが、男児なら殺す」と
決めていたそうです。

誕生したのは男の子だったので、その子は、頼朝の命により、
鎌倉の由比ガ浜に流されて殺されました。

そうか!、静御前の左にあった前頁の写真の「静女所生
御曹子 供養塔」の石碑は、その男の子の供養塔なんだ!

その後、義経追討令が出て、義経が奥州平泉へ落ち延びると、
静御前も後を追って平泉へ向います。

しかし途中で、義経の死を知り、ここ栗橋の高柳寺に入って
義経の菩提を弔い、高柳寺で22歳の生涯を閉じたそうです。

その後、江戸時代になってから、関東郡代・中川飛騨守忠英
が、静御前を哀れんで、1803年、この「静女之墳」を建て
ました。


また、境内にある上の写真の「舞う蝶の 果てや夢みる 
塚の蔭」とある歌碑は、江戸の歌人・坐泉が、墓の前で
詠ったのを、村人が1806年に歌碑にして建てたそうです。

なお、静御前が亡くなった高柳寺は、その後衰え、後に、次の
中田宿に「光了寺」として再興されたそうです。

静御前の墓を出て、旧日光街道まで、来た道を戻ります。

旧日光街道は、これといった栗橋宿の遺構もなく、やがて
利根川の土手に突き当たります。



その左手に上の写真の八坂神社がありますが、その手前を右折
して草道を土手へ向かうと、下の写真の「栗橋関所跡」の碑と
説明板が建っています。




その説明板によると、この土手の下から、利根川を渡って対岸
の中田宿へ向かう「乗船場」が関所になっていたそうです。

そして、将軍の日光参詣のときには、70艘の船を並べて、
その上に板を渡した「船橋」を3ヶ月かけて造りましたが、
日光参詣が終わるとすぐに取り壊されたそうです。

勿体ない!、続けて使用すれば、一般庶民は大助かりだった
でしょうにね・・・


そして、この栗橋関所跡辺り一帯は、現在、発掘調査の
真っ最中で、いたるところで地面が掘られています。

説明板によると、この発掘調査の対象は、「栗橋関所・番士
屋敷」跡で、1624年から明治2年までの240年間、栗橋関所
に勤務していた番士4人の住居跡だそうです。

この地域は利根川に面しており、何度も洪水の被害を受けた
ので、番士屋敷も、洪水のたびに盛土を高くして建て直した
跡があるそうです。
江戸時代には、利根川を「房川渡し」(ぼうせんわたし)の
舟で渡って、栗橋宿から次の中田宿に入りました。


現在は、利根川に架かる写真の「利根川大橋」の歩道を快適に
歩いて渡ります。

それにしても、長~い橋です!



橋の中央が、埼玉県と茨城県の県境です。
ん?、日光は内陸の栃木県にあるから、埼玉県の次は、海沿い
の茨城県ではなくて栃木県では?

慌てて、手元の地図を見てみると、確かに、大きな地図では、
日光街道は埼玉県から栃木県に入ります。

しかし、細かな地図では、日光街道は、埼玉県から茨城県の
西南の端をかすってから、栃木県に入っています。
なるほど、そういうことか!

ともかく、単調で長かった埼玉県をようやく抜けたゾ!
やった~!



橋を渡り終わると、旧日光街道は直ぐに左折して、堤防を
下りながら右側にカーブして行きます。





栗橋宿から中田宿までは、約2キロしかありません。

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コメント一覧

更家
義経伝説は東北や北海道にも
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
引退後の楽しみとして、日光街道・奥州街道は素敵ですよね。

ホントに、義経や静御前の伝説、あちこちで見ますね。

江戸時代にも、義経や静御前は、庶民に人気があったんでしょうね。

私も、小学生のときに、弁慶の立往生を漫画で読んで感動しました。

東北や北海道にも、黒石、三厩、判官神社、義経寺など、義経の史跡や地名が残ってるのは知りませんでした。
コスモタイガー
義経伝説
http://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
こちらの方は全く土地勘もなく、訪問した経験もありません。
本屋でアトラスの地図なんかを立ち読みしながら、「これが日光街道や奥州街道なんだな~」と思ってたりします。
子育てや会社勤めを引退した後の楽しみになりそうです。

東北・北海道は静御前をはじめ、義経伝説が多いエリアですよね。
屈ブログ(旧東海道編)でも書きましたが、史跡だけでなく、地名も多く残っているそうで。

学校で習う史実としては、平泉で頼朝軍に攻められ、奥州藤原氏とともに滅んだことになってますが…。
(弁慶の立往生も有名な逸話ですし…)

不思議なことに、平泉以北にも多くの伝説や史跡・地名が残り、平泉で死んだにしては、多くの矛盾もあるわけで、この辺り、多くの書籍やTVなどでも取り上げられたりしてますから、「義経北行伝説」として、結構有名なんでしょうけど。

なかには、海を渡って大陸に渡り、ジンギスカンになった!なんてのもありますが、それはさすがに横に置いとくとしても、北海道辺りまでは、本当に1本の筋ができるぐらい、史跡や地名が残ってるようですから、「平泉で死んだ!と断定するなら、ここをちゃんと説明してもらわないと困ります(笑)!」なんて思ってしまいます。

屈ブログに紹介したものとして…(もちろんほんの一部です)
例:①青森県黒石市…「九郎石」のなまったもの。②東津軽郡三厩地区…かつての奥州街道(松前街道)三厩宿。義経一行が3つの厩(馬屋)を設置したことによる。③風呂一族…義経一行を風呂に入れた地元の邸宅。今も子孫が残る。④その他、判官神社・義経寺なんてのもいくつか存在するようですし、関連史跡は北海道にも広がっているようです。

うーん、ロマンのある話で、興味がそそられます。
もっとも、義経北行伝説でネット検索すれば、多数のサイトがヒットしますから、詳細はそちらの皆様にお任せしますけどね(笑)。
更家
県境がこの辺りに集中
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
静御前の子供の話、救いが無くて、厳しいですよね。

九州育ちの私は、栃木、茨城、群馬、埼玉、この辺り地理が最も苦手なんです。

その苦手な北関東の4県の県境が、運悪く、この栗橋宿の辺りに集中しているんですね。

栗橋宿(埼玉)→古河宿(茨城)→小山宿(栃木)と、一つ宿を進む毎に県が変わっていくので、何回地図を見直しても、直ぐに混乱してしまいます・・・
Komoyo Mikomoti
こんばんは。
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
静御前の話、悲しいですね。

土地勘がなく、よくわからないのですが、
このあたりは3県の県境が接近しているということでしょうか。
更家
静御前伝説
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ホントだ!、淡路島にも静御前終焉の地があるんですね!驚き!

やはり、義経伝説が日本中にある様に、静御前伝説も日本中にあるということなのでしょうかね。
iina
静御前の墓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/f4aae775d0d6290d64bb99b6914e09c9
静御前終焉の地は、諸説あるようです。栗橋宿にもあるのですね。 φ(..)メモメモ

淡路島にあると取材したテレビ番組が、強く印象に残っていましたから、調べてみました。↓
http://blog.goo.ne.jp/jnk024/e/65f0f20bd910f87d9329130788e25bf3


>54年ぶりの「初雪」で、明治8年以降初めての「積雪」、とニュースでやっていたので、成程と納得しました。
アナウンサーの説明や活字にすると、さらっと見過ごすところを、何を訳のわからないことを言っているのかと思いましたょ。
 (更家)さんは、読解力が優れています。^^

更家
番士屋敷跡の発掘作業
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、この様に大規模な番士屋敷跡の発掘作業が行われてたのには驚きました。

そうですよね、下総国は、両国の辺りからこのあたりまでだから、かなり大きな国ですよね。
hide-san
番士屋敷
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
番士屋敷跡の発掘中に出会って幸いでしたね。

栃木県からすぐ茨城県へ入ります。
この辺りは下総の国だったのでしょうね。
両国の辺りからだとかなり長いお国だったようですね。
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