(写真は、船岡城跡にある小説の”樅ノ木”)
( NHK大河「樅ノ木は残った」の 平幹二朗 と
吉永小百合 :NHK公式ホームページから)
”奥の細道:お城シリーズ”の第3回は、山本
周五郎の「樅の木は残った」の舞台となった
「船岡城」です。
「樅の木は残った」は、山本周五郎の中で一番
好きな小説です。
山本周五郎の歴史小説「樅(もみ)ノ木は残った」
は、江戸時代前期に、仙台藩・伊達家で実際に
起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にして
います。
1970年のNHK大河「樅ノ木は残った」は、地元
と観光タイアップした舞台地での本格ロケが
行われ、現在に続くご当地ブームの先駆け
となりました。
樅ノ木は残った (上) (新潮文庫) | |
山本 周五郎 | |
新潮社 |
歴史上では、「原田甲斐」は、「伊達騒動」の
首謀者「伊達兵部」に寝返った卑怯な男とされて
きました。
しかし、山本周五郎は、当時の伊達家の資料を
検証し、原田甲斐を、”伊達藩を守るために兵部
に近づき、お家乗っ取りを防ぐために命を掛けた
名臣”として描いています。
《『樅ノ木は残った』のストーリー》
主人公の「原田甲斐」(NHK大河では平幹二朗)
は、伊達藩の原田家の当主として、奥羽山脈の麓
の「船岡城」で、穏やかな日々を過ごして
いました。
仙台藩3代藩主・伊達綱宗は、江戸の吉原での
放蕩三昧を理由に、若くして幕府から隠居を
申し渡されます。
このため、僅か2歳の嫡男の亀千代が藩主となり、
綱宗の叔父の「伊達兵部」(佐藤慶)が後見役
として実権を握ります。
「伊達兵部」の専横を警戒する「伊達安芸」
(森雅之)派と「伊達兵部」派が激しく対立し、
歴史的に有名な「伊達騒動」が起きます。
幕府大老の「酒井忠清」(北大路欣也)は、以前
から、大きすぎて幕府にとって危険な仙台の
伊達家を警戒していました。
勃発した「伊達騒動」を好機とばかりに、後見役
の「伊達兵部」を利用して、伊達家を取り潰そう
と画策します。
酒井忠清は、取り潰し成功の暁には、伊達藩
60万石を分割して30万石を分与する旨の
密約書を伊達兵部に渡します。
それを受けて、伊達兵部は、藩主・綱宗の過度の
遊興をでっちあげるため、綱宗の吉原行きに同行
した畑与右衛門を妻もろとも暗殺しました。
この暗殺の際、かろうじて逃げ延びた畑与右衛門
の娘・宇乃(吉永小百合)は、原田甲斐に
かくまわれます。
伊達安芸派と伊達兵部派の激しい抗争の中で、
原田甲斐は、伊達兵部から国老の地位を与えられ、
伊達兵部派に取り込まれてしまったかの様に
みえました。
伊達安芸派の人々は、甲斐に冷たい視線を浴びせ、
友人達も彼の元から去っていきました。
そして、伊達兵部の暗殺を図った伊達安芸派の
伊東七十郎(伊吹吾郎)は、密告によって暗殺
未遂に終わり、処刑されました。
原田甲斐は、かくまっている宇乃に、船岡城の
庭にある樅(もみ)木を見せながら、「この木は
何も語らない。だから私はこの木が好きだ」と
言います。
宇乃には、原田甲斐が、樅の木に、己の生き様を
重ね合わせているように思えました。
だんだんと藩内の権力を欲しいままにする様に
なってゆく伊達兵部に対し、反対派の伊達安芸は、
このままでは伊達家はおかしくなると、仙台藩の
現状を幕府に上訴します。
これは、仙台藩にとって、幕府に取り潰しの名目
を与えかねない危険な行為でした。
この告発を受けて、幕府は江戸での詮議を決定
します。
史実によると、詮議の結果、伊達安芸の主張内容
がほぼ認められ、彼らと食い違う原田甲斐の弁明
は退けられ、伊達兵部の施政が咎められることと
なりました。
不利な立場に立たされた原田甲斐は、詮議中の
大老・酒井忠清邸控えの間で、背後から突然、
伊達安芸に斬りつけ殺害しました。
この騒ぎを聞いて駆けつけた伊達安芸の家来が、
原田甲斐を斬ったので、原田甲斐も死亡しました。
これが所謂、歴史上「伊達騒動」と呼ばれる事件
です。
この伊達騒動で、原田家の男子は全員が死罪
となり、原田甲斐の代で原田家は断絶しました。
また、伊達兵部も処罰され、土佐に流罪となり
ました。
この「伊達騒動」の江戸での幕府の詮議の様子を、
山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」は以下の
様に書いています。
伊達兵部は、万一の場合を考え、かつて大老・
酒井忠清から貰った30万石分与の密約書を
甲斐に託した。
甲斐は、この密約書を手に、密かに、老中・
久世広之に、事態の仲介を求める。
仲介を依頼された久世からこの密約書
を見せられた大老・酒井忠清は、上訴
の場でこの密約書が公になれば自分も
無事ですまないと考え、甲斐に
下記の様に囁く。
「上訴した伊達安芸を斬れ。そうすれば、
伊達家の騒動は無かったことにして、
伊達家を存続させてやる。」
甲斐は、伊達兵部の一派で、安芸と対立して
いると見做されていたため、伊達兵部の
指示で甲斐が伊達安芸を刃傷したと周囲は
思った。
伊達安芸の家来に斬られた甲斐は、「この
刃傷は、私の乱心の末の仕業だということを
お忘れなきよう。」と、評定に出席していた
老中・久世に言い残し息絶えた。
老中・久世は甲斐の本心を汲み取り、仙台藩
・伊達家は守られた。
そして宇乃は、甲斐を思い、樅の木を抱き
しめるのであった。
我々のバス旅行は、「原田甲斐」の居城だった
「船岡城」へ向かいます。
原田家は、原田甲斐の代でお家断絶となり、
「船岡城」は、伊達氏の家臣の「柴田氏」の
新たな居城として、明治維新まで続きました。
船岡城は、仙台市の南方にあり、別名「芝田城」
とも呼ばれ、柴田郡柴田町という地名が芝田城の
名残りを留めています。
船岡城は、阿武隈川に白石川が合流する船岡盆地
の西の端の標高120メートルの小高い山に
築かれた山城です。
城自体は、明治初年に焼失してしまいました。
現在は「船岡城址公園」として整備されており、
白石川の堤防沿いの”一目千本桜”と共に、
「日本さくら名所100選の地」に選ばれています。
写真の様に、白石川の桜並木に沿って、JR東北
本線が走っているのが見える素敵な場所です!
上の写真は、NHK大河「樅ノ木は残った」の
記念碑です。
うゎ~っ”、小説の樅の木だ~!、本物が
見られるなんて感激!
藩存続のために、伊達兵部を暗殺しようと試みて
失敗し処刑された、前頁の写真の伊藤七十郎の
辞世の句碑もありました。
原田家はお家断絶となったため、原田家の建造物
は、幕府の指示で全て破壊され、原田家に関する
遺構は現在は何も残っていません。
我々のバス旅行は、船岡城沿いの白石川の上流に
ある「大高山(おおたかやま)神社」に向かい
ます。
赤い欄干の小橋を渡り、赤い鳥居をくぐると、
階段があり、階段の上には南蛮鉄の鳥居が
あります。
鳥居は、室町時代末期から日本へ渡来した精鋳鉄
や洋式鉄鋳などの鋼鉄を用いたという珍しい
ものです。(国重文)