(上の写真は、田原坂の戦いを描いた絵)
電車で行く「薩摩街道」は、前回の「熊本宿」に続いて 、
今回は「田原坂」です。
明治維新になると、失業した武士達の新政府に対する不満
から、佐賀の乱(首謀者:江藤新平)、福岡の秋月の乱(宮崎
車之助)、山口の萩の乱(前原一誠)、熊本の神風連の乱
(太田黒伴雄)などの不平士族の乱が全国各地で起きました。
その一連の戦いの最後の戦いが、明治10年に起きた「西南
戦争」です。
西郷隆盛率いる旧薩摩藩士が熊本城を目指し、”国内最大で
最後の内戦”になりました。
「西南戦争」の戦場は、鹿児島、熊本、宮崎、大分と広範に
わたりました。
政府軍6万に対し、薩摩軍は3万、そして戦死者は両軍
合わせて1万4千にものぼる激しい戦いでした。
戦死者1万4千のうちの1/4が「西南戦争最大の激戦地・
田原坂」でした。
では、「西南戦争」最大の激戦地「田原坂」を散策する前に、
先ず、田原坂にある次頁の写真の「西南戦争資料館」に
入って、その展示資料を見ながら、当時の激戦の様子を
振り返ってみましょう。
平成27年に新装オープンした次頁の写真の「西南戦争
資料館」には、実際に使われた銃や弾、古文書等が展示
され、西南戦争の時代背景や裏話など、分かりやすく
展示してあります。
また、映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現
した「体感展示」では、陣地の中にいる様な凄い迫力の臨場感
が味わえます。(写真撮影可:300円)
以下の4枚の写真が、放映中の「体感展示」です。
明治10年、西南戦争における緒戦「熊本城での戦い」が
始まり、薩摩軍は、熊本城を包囲し、総攻撃をかけます。
これに対して、官軍側は、熊本城へ援軍を送ろうとします。
薩摩軍は、熊本城周辺に兵士3千だけを残し、残りの部隊は、
官軍の援軍を迎え打つために北上します。
これに対し、援軍側は、唯一、大きな大砲が通れる「田原坂」
を目指してへ南下します。
両軍は、田原坂で衝突、田原坂は激戦地となりました。
田原坂は、熊本市の北部の植木町にある標高差60メートル、
距離1.5キロの緩やかな坂道です。
実は、この田原坂は、加藤清正が築いた熊本城の北の守りの
拠点でした。
田原坂は、簡単に進めない様に、坂の先の見通しが利かず、
丘陵を蛇行しながら進む様に、清正が手を加えた坂でした。
西南戦争では、先込め銃(エンフィールド銃)、元込め銃
(スナイドル銃)、連発銃(スペンサー騎銃)、火縄銃など、
さまざまな性能の小銃が使用されました。
(西南戦争に使用された新旧の小銃)
(政府軍の装備)
(薩摩軍の装備)
(薩摩軍兵士と政府軍兵士)
(政府軍の兵士の写真)
当時では近代的な武器だった大砲や小銃などを使用した戦い
となりましたが、この田原坂で発砲された弾丸は、政府軍側
だけで、何と!、”1日に60万発”にも達したそうです!
撃ち合った弾同士が空中で激突するほどの激しさで、その激突
した弾を「かちあい弾(たま)」といいますが、田原坂から
は、互いに激突して変形したかちあい弾が、今でも出土する
そうです。
この田原坂での戦いによって、西南戦争の実質的な勝敗が
決定し、以降、薩摩軍の敗走が始まります。
(田原坂の戦いを描いた絵)
地元の人が父から生前に聞いた話として、
「我が家が政府軍の本部となり、大山巌、山形有朋などの将校
が床几に腰かけて作戦を練っていた。
家族は納屋に住まわされた。
大山巌は、毎日、戦闘の指揮に出ていた。
砲術長は、手を振り下ろして、我が家の庭で大砲の撃ての
合図をしていた。
大砲は、夜間に薩摩軍に分捕られるのを恐れ、毎晩、七本の
本営に運んでいた。」
(西南戦争資料館に展示されていた「西南戦争裏話」から抜粋)
次回は、「西南戦争」で最大の激戦地である「田原坂」を散策
します。