(写真は、姉川の古戦場)
芭蕉と路通は、木之本宿を出ると、伊吹山を左側に仰ぎ
ながら、北国脇往還を南下して行きます。
途中、姉川の古戦場に立ち寄り、小谷城のあった「小谷
(おだに)山」を経て 関ケ原に着きました。
関ケ原から、中山道を通り、垂井宿を経て、遂に、ゴールの
大垣に入りました。
さあ、我々の「奥の細道」バス旅行も、ゴールの大垣まで
あと一息です!
バスは、芭蕉が宿泊したという「木之本宿」を出て、「姉川の
古戦場」へ向かいました。
「姉川の戦い」では、織田信長・徳川家康の連合軍(2万8千)
と、浅井長政・朝倉影健の連合軍(1万8千)が激闘を繰り
広げました。
先ず、信長が、朝倉氏追討の軍を起しますが、これに対して、
朝倉氏の呼び掛けに呼応して、浅井氏が援軍に向かいます。
この援軍に対抗するために、信長は、徳川家康に援軍を
求めます。
姉川の戦いでは、初めのうちは、浅井・朝倉連合軍が優勢
でしたが、途中から、徳川軍が大いに奮戦して、結局は、
織田・徳川連合軍の勝利に終りました。
この姉川の戦いの勝利によって、信長の畿内に於ける覇権が
ほぼ確定しました。
浅井、朝倉の両氏はこの敗戦により、次第に勢力を失い、
最終的には、信長によって攻め滅ぼされてしまうことに
なります。
バスを降りると、駐車場の脇に、上の写真の「姉川戦没者」と
刻まれた慰霊碑が建っていました。
説明板によると、上の写真の姉川の野村橋の付近一帯が、激戦
だった「姉川の古戦場」で、この姉川一帯が血に染まった
そうです。
説明板には、上の合戦絵図や、下の両軍の配置図などが
書かれていました。
「姉川の戦い」は、信長の勝利に終わりましたが、この戦い
だけで、直ぐに雌雄を決するまでには至らず、我々が次に
訪れた「浅井長政の居城」がある「小谷城」の陥落はその
3年後でした。
次頁の写真の姉川戦没者の供養塔の前に建つ石碑は、
彦根藩士で芭蕉の門人だった「木導」(もくどう)
の句碑です。
”春風や 麦の中行く 水の音”
芭蕉は、この木導の句を「後代手本たるべし」と絶賛
しました。
芭蕉は、この木導の句に、
”かげろういさむ 花の糸口”
という脇句(わきく)(注)を付けたそうです。
(注)脇句:連歌で、五・七・五の発句 (ほっく) の次に、
七・七と付ける第2句のこと。
(春風にそよぐ麦畑に、水の流れる音が聞こえる
長閑な農村風景に、かげろう(陽炎)が立ち、
桜が咲くのももう直ぐだ。
ちなみに、この姉川の河原は、麦の名産地だった
そうです。)
我々の「奥の細道」バス旅行は、姉川の古戦場を出て、ゴール
の大垣へ向かいますが、途中、次頁の写真の「小谷城戦国歴史
資料館」(300円)に立ち寄りました。
小谷城戦国歴史資料館は、「小谷城跡」の敷地内にあり、
「戦国大名・浅井氏と小谷城」をテーマにした資料館です。
(写真撮影禁止)
この資料館の裏山が、「小谷城跡」で、浅井氏・三代が居城
としていた、戦国時代屈指の城郭です。
資料館では、「浅井長政」と「お市の方」、「茶々・初・江の
三姉妹」が暮らし、兄の「織田信長」によって攻め滅ぼされた
悲話の資料を展示しています。
(小谷城戦国歴史資料館の入場券)
また、小谷城の模型や絵図、小谷城から出土した遺物などの
資料も展示しています。