(写真は、玉電が描かれたマンホール:玉電砧線の廃線跡にて)
自宅の新横浜から、市営地下鉄のあざみ野駅で東急田園都市線
に乗り換え「二子玉川駅」で下ります。
先ず、食事をするために写真の「玉川 やなぎや」に入ります。
「玉川 やなぎや」は、多摩川沿いに一軒だけ残る、天保2年
(1831年)創業の老舗の料亭です。
この店の元女将のご主人は、娘が通学していたときの二子玉川
小学校のPTA会長で、妻もPTA役員をしていた関係で
ご一緒したことがあります。
この元女将は、現役のときに「ブラタモリ」に出演されて、
料亭が堤防の外に残ることを許された経緯について、詳しく
タモリに説明されていましたので、記憶に残っておられる方も
あるかも知れません。
(料亭が堤防の外に残ることを許された経緯については、
「多摩川を歩く・玉川陸閘」を見てね。)
前回は、二子玉川駅の西側の商店街を散策しました。
今回は、商店街から更に西へ伸びる「玉電砧線の廃線跡」を
散策します。
食事を終えて、「玉電砧線の廃線跡」の散策に出掛けます。
明治40年に開通した「玉川電気鉄道」(通称”玉電”)は、
渋谷と二子玉川を結ぶ路面電車でした。
「玉電」のうちの「砧線」は、関東大震災の復興のために、
多摩川の砂利を都心方面へ運搬する目的で敷設され、現在の
二子玉川駅と砧本村の間の2.2キロを走っていました。
また、近隣住民の通勤通学手段としても利用されていました。
しかし、その後、車社会の到来とともに路面電車は姿を消す
こととなり、昭和44年、玉電は世田谷線を除き全線廃止と
なりました。
現在の二子玉川駅の辺りに始発駅があり、駅前の玉川通りを
横切って、世田谷信金の脇の細い道を走っていました。
そのまま進むと、左側に並行してレンガ敷き遊歩道が出現
しますが、これが砧線の軌道の跡です。
遊歩道には次頁の写真の様に、「吉澤駅←砧線中耕地駅
→二子玉川駅」のタイルが埋め込まれていて、その脇には
「砧線 中耕地駅跡」の石碑が立っています。
ここから先は、砧線の軌道の跡が遊歩道になっています。
(遊歩道のマンホールの蓋に描かれた玉電砧線。)
(車道との境界にも砧線の玉電の電車の絵が)
(砧線の軌道の跡に建つオブジェ)
左へ急カーブして多摩堤通りへ出てきました。
(吉澤橋交差点)
多摩堤通りを横断し、野川に架かる「吉澤橋」までやって
来ました。
玉電砧線の電車はここを鉄橋で渡っていました。
(吉澤橋の電車のレリーフ)
説明版によると、この橋は、大正13年の玉電砧線の開通に
合わせて架けられた鉄道橋だそうです。
(玉電が吉澤鉄橋で野川を渡る風景:昭和36年)
吉澤橋を渡って更にう砧線の軌道跡を進みます。
(三角公園付近の玉電砧線軌道跡)
三角公園の先で、道路は二股に分かれますが、左は砧下浄水所
外周道で、右が玉電砧線軌道跡の道です。
右側の道に入り更に進むと、鎌田二丁目南公園に突き当たり
ました。
この辺りに、玉電砧線の終点の砧本村駅(きぬたほんむら
えき)があったみたいなのですが、駅跡を思わせるものは
何も残っていません・・・
来た道を戻ります。
吉澤橋交差点まで戻って来ました。
そう言えばこの直ぐ近くに「静嘉堂(せいかどう)文庫」が
あるのを思い出しました。
右折すればスタート地点の二子玉川駅ですが、直進して
「静嘉堂文庫」へ向かいます。