ジャラールッディーンと言っても、一般に日本ではなじみが薄い人物だろう。しかし、チンギス・ハーンに関心を持つ方なら、“蒼き狼”と戦ったホラズム・シャー朝の第8代スルタンにして、最後の君主ということはご存知と思う。国は敗れ非業の死を遂げるが、なかなかの快傑でもある。イスラム社会でチンギスに立ち向かったのは彼くらいだった。
1210年、第7代スルタン、アラーウッディーン・ムハンマドは中央アジアを支配する西遼(せいりょう)ことカラ・キタイをタラス河畔で破り、勢力を拡大する。カラ・キタイは仏教国だったので、偶像崇拝者を討伐した偉大なスルタンとして、アラーウッディーンの名はイスラム世界にとどろいた。この時がホラズム・シャー朝の絶頂期だったが、内政はアラーウッディーンと母ならびその実家の部族との確執もあり、旨くはいってなかった。カラ・キタイ討伐から9年後、モンゴル軍の大規模な侵攻が始まる。
テュルク(トルコ)とモンゴルは元は同根の民族とされ、言語や神話もかなり酷似している。だが、祖先は草原の勇猛な遊牧民にせよ、ホラズム・シャー朝開祖はセルジューク朝に仕えたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)の出、既に素朴な遊牧民というよりイスラム文明の洗礼を受けていた。
アラーウッディーンは相当な軍事能力があると同時に、イスラム圏のスルタンに相応しく学問や芸術を好んだ君主だったが、それゆえ遊惰な快楽を好み、虚栄心も強かった。彼のこのような性格が本人のみならず王朝を破滅に導く。
モンゴル侵攻後のホラズム帝国の諸都市は屠城の連続であり、繁栄を極めていた首都サマルカンド(現ウズベキスタン)も1220年、徹底的に破壊、住民の3/4が虐殺された。アラーウッディーンはその前に首都を去り、ホラーサーン(現イラン)に逃亡していた。ここも到底モンゴルの進撃に対し保持することも不可能と見た彼は、さらにインド方面に退却を図る。だが途中で方針を変え、イラクに退き、その豊かな資源と多数の人口を利用し、モンゴル軍を撃退することにした。
これに対し、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンは、「人民は平時は重い租税で苦しめられた上、敵が攻めて来れば人民を捨てて逃げ、狂暴な野蛮人に運命を委ねる、と言って我らを恨みに違いない」と、あくまで踏み止まって交戦することを主張した。しかし父はこの案を青年の向こう見ずな考えとして退ける。
父帝の守勢主義に異を唱え、それが受け入れられなかった息子はついにアラーウッディーンと別れ、積極的攻勢に転じる。本格的なモンゴルの侵攻が始まる前、既にジャラールッディーンはモンゴル軍と戦い、奮闘の結果撃退させた軍功もあった。彼がこれまで前面に出られなかったのは父に加えその母、つまり祖母に疎んじられていたこともある。有力部族出のこの母后は女帝を僭称、当然息子とも不和であり、ホラムズ帝国内の対立をチンギスはとうに知っていた。権勢欲につかれた母后も実子アラーウッディーン同様、チンギスの攻撃を受け、非業の死を遂げる。
ジャラールッディーンはまずヒンドゥークシュ地方の中心地のひとつガズニー(現アフガン)に走り、この地で諸地方から兵を集める。その数は7万に達し、ついに1221年の春ガズニーを出発、カーブル近郊のパルヴァーン盆地に兵を進めた。
この報を受けたチンギスの武将シギ・クトクは3万人を率い邀撃するも、2日間の激闘の後モンゴル軍は敗れた。この敗因はシギ・クトクが戦場の選択を誤ったことにある。彼は山岳に囲まれ起伏の多い、騎馬戦に不利な地にジャラールッディーンにより誘致され、不利な条件の下で先頭を強いられたのだった。
チンギスはこの敗戦をヒンドゥークシュ北部で受け取った。敗将シギ・クトクはタタール部族の出だったが、幼少時からチンギスに養われて実子同然に扱われていた人物だった。チンギスはパルヴァーンの敗戦を聞いた時、「シギ・クトクは勝利に馴れすぎていたから、この敗北はよい教訓となるだろう」と側近に語ったと言われる。シギ・クトクが処罰を受けなかったのは書くまでもない。そしてチンギスはジャラールッディーン討伐に出発、自ら本隊を率いガズニーに向かう。
その②に続く
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1210年、第7代スルタン、アラーウッディーン・ムハンマドは中央アジアを支配する西遼(せいりょう)ことカラ・キタイをタラス河畔で破り、勢力を拡大する。カラ・キタイは仏教国だったので、偶像崇拝者を討伐した偉大なスルタンとして、アラーウッディーンの名はイスラム世界にとどろいた。この時がホラズム・シャー朝の絶頂期だったが、内政はアラーウッディーンと母ならびその実家の部族との確執もあり、旨くはいってなかった。カラ・キタイ討伐から9年後、モンゴル軍の大規模な侵攻が始まる。
テュルク(トルコ)とモンゴルは元は同根の民族とされ、言語や神話もかなり酷似している。だが、祖先は草原の勇猛な遊牧民にせよ、ホラズム・シャー朝開祖はセルジューク朝に仕えたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)の出、既に素朴な遊牧民というよりイスラム文明の洗礼を受けていた。
アラーウッディーンは相当な軍事能力があると同時に、イスラム圏のスルタンに相応しく学問や芸術を好んだ君主だったが、それゆえ遊惰な快楽を好み、虚栄心も強かった。彼のこのような性格が本人のみならず王朝を破滅に導く。
モンゴル侵攻後のホラズム帝国の諸都市は屠城の連続であり、繁栄を極めていた首都サマルカンド(現ウズベキスタン)も1220年、徹底的に破壊、住民の3/4が虐殺された。アラーウッディーンはその前に首都を去り、ホラーサーン(現イラン)に逃亡していた。ここも到底モンゴルの進撃に対し保持することも不可能と見た彼は、さらにインド方面に退却を図る。だが途中で方針を変え、イラクに退き、その豊かな資源と多数の人口を利用し、モンゴル軍を撃退することにした。
これに対し、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンは、「人民は平時は重い租税で苦しめられた上、敵が攻めて来れば人民を捨てて逃げ、狂暴な野蛮人に運命を委ねる、と言って我らを恨みに違いない」と、あくまで踏み止まって交戦することを主張した。しかし父はこの案を青年の向こう見ずな考えとして退ける。
父帝の守勢主義に異を唱え、それが受け入れられなかった息子はついにアラーウッディーンと別れ、積極的攻勢に転じる。本格的なモンゴルの侵攻が始まる前、既にジャラールッディーンはモンゴル軍と戦い、奮闘の結果撃退させた軍功もあった。彼がこれまで前面に出られなかったのは父に加えその母、つまり祖母に疎んじられていたこともある。有力部族出のこの母后は女帝を僭称、当然息子とも不和であり、ホラムズ帝国内の対立をチンギスはとうに知っていた。権勢欲につかれた母后も実子アラーウッディーン同様、チンギスの攻撃を受け、非業の死を遂げる。
ジャラールッディーンはまずヒンドゥークシュ地方の中心地のひとつガズニー(現アフガン)に走り、この地で諸地方から兵を集める。その数は7万に達し、ついに1221年の春ガズニーを出発、カーブル近郊のパルヴァーン盆地に兵を進めた。
この報を受けたチンギスの武将シギ・クトクは3万人を率い邀撃するも、2日間の激闘の後モンゴル軍は敗れた。この敗因はシギ・クトクが戦場の選択を誤ったことにある。彼は山岳に囲まれ起伏の多い、騎馬戦に不利な地にジャラールッディーンにより誘致され、不利な条件の下で先頭を強いられたのだった。
チンギスはこの敗戦をヒンドゥークシュ北部で受け取った。敗将シギ・クトクはタタール部族の出だったが、幼少時からチンギスに養われて実子同然に扱われていた人物だった。チンギスはパルヴァーンの敗戦を聞いた時、「シギ・クトクは勝利に馴れすぎていたから、この敗北はよい教訓となるだろう」と側近に語ったと言われる。シギ・クトクが処罰を受けなかったのは書くまでもない。そしてチンギスはジャラールッディーン討伐に出発、自ら本隊を率いガズニーに向かう。
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