その①の続き
チンギスはガズニーに向かう途中、パルヴァーンの戦場を過ぎたので、シギ・クトクその他将軍に対し、作戦の誤りを現場で示し訓戒したという。その後行進を続け、ガズニーに到着した。この時ジャラールッディーンは先の合戦では勝利したものの、配下の兵はテュルク系諸部族の寄せ集めゆえ統制を失っており、到底チンギスの本隊に勝ち目はないと判断、インドに向け後退しつつあった。チンギスはこれを追い北インドに入り、インダス河畔のアトック(現パキスタン)付近でジャラールッディーンに追いつく。
アトック付近のインダス川は河流が狭まり、とうとうたる激流となり、両岸は数十メートルの懸崖となっている。チンギスは敵がインダスを渡る前に撃破しようと急追、夜間にジャラールッディーンの殿軍を一蹴し、半円形の陣を敷いて包囲していった。
夜明けと共にモンゴル兵は一斉に突進、まず両翼を破り、ついで本陣を圧迫する。ジャラールッディーンは僅か7百の兵をまとめ、しばしばモンゴル軍の突破を試みるも、重囲に陥り如何ともしがたかった。数時間の奮闘の後、再び猛烈な突撃を行ったので、モンゴル軍は少し後退した。彼はこの機を捕らえ馬首をめぐらして河岸に到り、鎧を捨てて乗馬のまま崖の上から激流中に身を投じ、背中に盾を背負い、手に旗を持ち対岸目指し泳いだ。
チンギスはこれを見て、矢を射ようとする部下を制し、諸王子に対し、ジャラールッディーンの武勇を模範にせよ、と諭したという逸話がある。
単身モンゴル軍の追撃を逃れたジャラールッディーンは、行く行く敗兵を集めて総勢4千人に達した。一方、チンギスは2人の武将を分遣、インダスを越えジャラールッディーンをさらに追跡させたが、その頃夏に入りようやく暑さも加わったため、暑さに弱いモンゴル兵はやむなく高原にあるガズニーに引き返す。チンギスの本隊もインダスの右岸に沿ってその年(1221年)を過ごし、また三男オゴデイを派遣しガズニーを破壊せしめ、同時にイルチギタイ将軍にはヘラート(現アフガン)攻撃を命じた。モンゴル兵はこの地で160万の住民を虐殺、ただ数千の少年のみを捕虜としてモンゴル高原に連行したといわれる。
モンゴル軍が引き上げた後、ジャラールッディーンは北インドで武勇を振るい、デリーの領主の姫を娶ったりもしたが、間もなくホラムズ帝国の回復を目指しインダスを越え、長躯しケルマーン(現イラン)に向かった。目的地に着いた時、長途の強行軍で4千の兵を率いるのみだったが、当時この地を支配していた西遼人ボラークは彼を歓迎し、その娘を与える。
ジャラールッディーンが次に狙ったのはアゼルバイジャン。この地方の首都タブリーズ(現イラン)を降した後、さらに北進しグルジアを攻め、7万人のキリスト教徒軍を破り、またテュルク系の諸部族も下した。1226年にはティフリスを占領、イスラムに改宗しないグルジア人を殺戮し、イスファハーン(現イラン)に戻る。
翌1227年、チンギスが死亡するも、ジャラールッディーンは依然としてペルシアに侵入してくるモンゴル人と戦わねばならなかった。これらのモンゴル兵はチンギスの西征と違い、組織的な侵入を行った訳ではなく、中央アジアに駐屯していた部族が略奪のため時々攻め込んできたのであった。モンゴルの侵入者はチンギスが死んだため引き揚げたが、彼は再びグルジアのキリスト教徒相手に戦った。
この時、ジャラールッディーンはグルジア人に対し、両軍から戦士を出して決闘により勝負を決することを提案、彼自らその役を買って出た。両軍が対峙する陣地の中間に立つジャラールッディーンの前に、巨大なグルジア人戦士が進み出て、両勇士は槍を合わせるも、グルジア人は彼の一撃で倒された。グルジア人戦士の息子3人がさらに戦いを挑んで来たが、彼はこれも易々と打ち倒してしまう。ジャラールッディーンの比類なき武勇を物語る逸話だが、その好戦性が彼を窮地に追い込んでいくことになる。
その③に続く
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