トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

アーナンディー その②

2008-06-17 21:25:56 | 読書/小説
その①の続き
墓標」は役所の二等事務官シャリーフ・フサインの物語。ある時フサインは様々なガラクタを並べている骨董屋で、白い大理石の石板を見かける。ムガル朝の王の墓標からでも剥がされてきたものなのか、大理石の石板が気に入った彼は早速買い、用途をあれこれ考える。二等書記官から出世し、管理職に昇進、小さくとも一軒家を買い、この大理石の石板に自分の名を彫らせ門に飾る…などと空想にふける。そして次の給料日、ついに有名な石屋に行き、件の石板に己の名を彫らせる。

 だが、彼の質素な家に大理石の石板はそぐわず、やむなく戸なし棚にそれを安置する他なかった。暫らくは石板を眺めては夢想の世界に浸れたが、現実は空想のようにならなかった。歳月は流れ、フサインは自分の将来について想像することを止め、石板の置き場所は転々と変わっていき、煙や煤で白から黄色に変色する。子供たちの教育もあり、フサインには他のことを思う余裕など失せてしまう。
 フサインは55歳で年金を受け取ることになり、その頃まで子供たちは成長、長男や娘は結婚し、暮らし向きは楽になる。ムスリムらしくハッジ(巡礼)に行こうと決意するも、年金暮らしから3年後、肺炎で息を引き取る。彼の死後、家財整理をしていた長男が例の石板を見つけ、父が大切にしていた品物だったので、それを父の墓に飾ることにする。アッバース短編集で、私はこの作品がもっとも好きだ。

 インド、パキスタンの小説でパターン人(パシュトゥーン人、一般にアフガン人を指す)はとかく粗暴な荒くれ者という描き方をされるが、「鼻削ぎ三人衆」は町の娼館に来たパターン人3人組が登場する。パターン人たちはナイフを見せては暴力を振るい、やりたい放題。何故か台詞は関西弁で訳されているため、ユーモラスな印象を受ける。パターン人はこれまで多くの娼婦の鼻を削いできたと自慢、ここに来たのもそれが目的だと凄む。幸いにしてこの館のたった一人の娼婦は外出中で難を逃れるが、タリバーン政権崩壊後のアフガンで実際に女の鼻を削ぐ事件も起きているので、小説特有の誇張ばかりではなさそうだ。

アーナンディー」とは平穏を意味する町名であり、アッバースの代表作とされる。ある町の市議会で、町一番の繁華街に娼館があるのは公序良俗に反し、町の名誉に関るという議論が出る。最終的に満場一致で当局が娼婦たちの所有する家屋敷を買い上げ、彼女たちには住まいとして市街からかなり離れた地区を提供するとの案が採択される。つまり、当局による娼婦追放運動なのだ。
 しかし、僻地に追放された娼婦たちはそこで新たに客商売を始める。これまで人家もまばらな地だったのに、彼女らが来るや急速に発展、新開地の評判は四方に広がり、さらに移住者が続出。かくして20年が過ぎ、この地区は既に一大都市として栄えるに至る。娼婦たちが最も繁栄している一等地に住んでいるのは言うまでもない。町の有識者が古文書を調べたら、この地は何百年前はアーナンディーと呼ばれていたことが分る。まもなくアーナンディー市議会では、娼婦を町から追放することを議題とする。著者はデリー(インド)で実際に起きた娼婦追放運動の方策に着想を得たと述懐している。

 アッバース自身、自分の作品をこう語っている。
私は眼前のものをそのまま描くことにしている。登場人物を創り出したりはせず、日常生活にいる人を描くのだ。私は自分の主張を代弁させるつもりなどなく、ただある人の話を聞き、観察して、それを描くのである。私は短編作家とは換言すれば、人間を描く作家であると考える。
 多くの作家は哲学、文化、経済、政治、心理といった諸問題を取り上げ、資本家と労働者の確執を描いている。だが、こういったことは作家が本などを読んで得たまた聞きの話であり、作家自身の見た現実を作品に取り込むことにはなっていないのである。こういった作家の作品は読者に何の感銘も与えない。


 アッバースの作品は完結性を求めないことに特徴があり、彼自身己の作品が「味気ないかもしれない」と認めた後で、こう言う。
だが、読者に作品の結末をいちいち詳細に述べることがあるだろうか。私の読者は、余韻を自身の想像力で書きたててくれると願っている。わざわざ結末を書くのは子供の本だ。

 またアッバースは生前、こうも述べていた。ヨコ文字の溢れかえる我国の現状は考えさせられる。
簡易な文体こそが必要であり、アラビア語、サンスクリット語などの語彙を駆使することは国を滅ぼすことになる。
■参考:『アーナンディー』アジアの現代文芸シリーズ、パキスタン⑤、財団法人大同生命国際文化基金

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