先日、パキスタンの作家グラーム・アッバースの短編集『アーナンディー』を読了。図書館で発見するまで、この作家名は知らなかったが、昨年同じくパキスタンの作家サアーダット・ハサン・マントーの短編『グルムク・スィングの遺言』『殉教者製造人』『テートワールの犬』などを読み、その素晴らしさに圧倒されたので、アッバースの本も見た。アッバースの短編も味わいのある作品ばかりだった。
アッバースもマントーと同じく、現代ウルドゥー文学界を代表する作家であり、1909年パンジャーブのアムリトサル(現インド)に生まれた。母方はペルシア、アフガン系の出身、アッバースの家庭では会話はペルシア語だったそうだ。ラホール(現パキスタン)での大学時代、既に短編小説を書き始め、同時に英文学に関心を持ち、英語小説の翻訳も手がけるようになる。アッバースは青年期、外国文学にも親しみトルストイ、モーパッサン、サルトル、チェーホフなどを愛読したという。また若かりし頃、日本やロシアの童話の翻訳もしたそうだ。
作風からアッバースの小説は本国でもマントーとしばしば比較されるそうだが、マントーの作品に見られるような性を感じさせる描写や予期せぬ結末はない。酒に溺れ享年43歳で夭折したマントーと異なり、アッバースは73年の生涯だった。マントーもアッバースの作品を絶賛、知人への手紙には「彼の短編の前には僕の“黒いシャルワール”なんて下らない」とまで書いていた。
アッバースとマントー、どちらの小説の質が高いかなど、文芸評論家でもない私には結論を下すことは不可能だが、乾いてドラマティックな展開を見せる後者の方が私好みだった。アッバースの小説はマントーに比べやや地味な印象を受ける。ただ、アッバースの作品に登場する人物は市井の人々ばかりであり、ごくありふれた人間社会の出来事を鋭く描く特徴がある。
冒頭を飾る「オーバーコート」、日本でもあり得る物語だし、似た者はいると感じさせられる。粋なオーバーコートを着た青年が、町の大通りを散歩していた。若者の髪型、帽子、首に巻いた白絹のマフラーなどから、流行に敏感な様子が伺えた。通行人は何処かの御曹司の散歩と、この青年を見た。颯爽と通りを歩いていた青年は、ふと前にいたカップルの会話を立ち聞き、その内容に惹き付けられた彼は2人の跡を追うことにする。
だが、カップルの追跡に夢中になっていた若者は、通りを暴走してきたトラックに轢かれてしまう。すぐに彼は町の病院に運び込まれ、当直していた看護婦も良家の子息の不幸に同情、彼のオーバーコートを脱がせる。すると、マフラーの下にはネクタイはおろかシャツさえ着ておらず、古くよれよれであちこちに大きな穴の開いたセーターが見えた。セーターの穴からはさらに汚れた下着がのぞき、彼の体には少なくとも2ヵ月は水を浴びてないことが明らかな汚れ垢の染みが沢山浮いている始末。要するに彼は御曹司などではなく、オーバーで身元を隠した貧しい青年だったのだ。服を脱がせられている際、彼は体ばかりか心も丸裸にされたのを恥じるかのように、顔を壁の方に向ける。間もなく若者は絶命するが、オーバーのポケットに所持品は僅かしかなかった。
アッバースは友人たちと夜間外出しようと、よれよれのパジャマにオーバーを羽織り、マフラーを巻いた姿で出たが、危うく交通事故に遭いかけた体験をヒントに、この作品を書いたという。
「猿まわし」はパキスタンにもいる教育熱心な親が登場する。近所に住む裕福なシャー氏の家に招かれた“私”は、その家のひとり息子への両親の躾を目にすることになる。3~4歳位の男の子は両親の教えに従い、“私”の前で英語の詩や山の名前を披露する。シャー氏夫妻の話題は殆ど子供のことが中心、夫妻は息子の体の訓練に日本のジュードーやカラテまで習わせているという。氏の家を出た“私”は、猿まわしを目にし、ついシャー氏の教育と重ね合わせて思う。「猿まわしは大声で喚き散らして見物人を集めなきゃいかんが、はてさて、シャー氏はその目的のためにいつも接待という方法に頼らなきゃいかんのかな?」。
翻訳の山根聡氏もこの作品への解説で、“教育”“躾”という仮面の下の実態は、自分本位に子供を手なずける猿まわしなのだ、と書いている。パキスタンの著名な批評家はアッバースの作品をこう指摘している。
-彼は同時代の作家のように作品中に大きな衝撃を盛り込まず、淡々とした文体によって独自の地位を築き上げた…彼は人間の様々な側面に関心を寄せ、次第にその“人格という仮面”を剥がしていく。そして本性が現れた時、読者は愕然とする。だが、アッバースはたえと本性を剥き出しにさせても、それを改善しようとか、いたずらに人間の弱さを嘲笑しようとはしない…
「隣人」は 少年が主人公の作品。隣人一家のとても可愛い少女が好きな少年は、ある時彼女の機嫌を損ね、それを気に病む心理描写がよい。少女を想う少年も無垢だが、少女の無垢は微妙に異なる。少年に持っている玩具をすぐ見せてと要求するも、急き切って持参した少年を平気で外に待たせておく気紛れさ。惚れた弱みといえ、完全に少女のペースにはまり、女の子に鼻面を引き回される少年がいじらしい。まだ十歳にならぬ前からオシャレに関心を持ち、異性を振り回す女の性が既に出ているのは興味深い。
その②に続く
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アッバースもマントーと同じく、現代ウルドゥー文学界を代表する作家であり、1909年パンジャーブのアムリトサル(現インド)に生まれた。母方はペルシア、アフガン系の出身、アッバースの家庭では会話はペルシア語だったそうだ。ラホール(現パキスタン)での大学時代、既に短編小説を書き始め、同時に英文学に関心を持ち、英語小説の翻訳も手がけるようになる。アッバースは青年期、外国文学にも親しみトルストイ、モーパッサン、サルトル、チェーホフなどを愛読したという。また若かりし頃、日本やロシアの童話の翻訳もしたそうだ。
作風からアッバースの小説は本国でもマントーとしばしば比較されるそうだが、マントーの作品に見られるような性を感じさせる描写や予期せぬ結末はない。酒に溺れ享年43歳で夭折したマントーと異なり、アッバースは73年の生涯だった。マントーもアッバースの作品を絶賛、知人への手紙には「彼の短編の前には僕の“黒いシャルワール”なんて下らない」とまで書いていた。
アッバースとマントー、どちらの小説の質が高いかなど、文芸評論家でもない私には結論を下すことは不可能だが、乾いてドラマティックな展開を見せる後者の方が私好みだった。アッバースの小説はマントーに比べやや地味な印象を受ける。ただ、アッバースの作品に登場する人物は市井の人々ばかりであり、ごくありふれた人間社会の出来事を鋭く描く特徴がある。
冒頭を飾る「オーバーコート」、日本でもあり得る物語だし、似た者はいると感じさせられる。粋なオーバーコートを着た青年が、町の大通りを散歩していた。若者の髪型、帽子、首に巻いた白絹のマフラーなどから、流行に敏感な様子が伺えた。通行人は何処かの御曹司の散歩と、この青年を見た。颯爽と通りを歩いていた青年は、ふと前にいたカップルの会話を立ち聞き、その内容に惹き付けられた彼は2人の跡を追うことにする。
だが、カップルの追跡に夢中になっていた若者は、通りを暴走してきたトラックに轢かれてしまう。すぐに彼は町の病院に運び込まれ、当直していた看護婦も良家の子息の不幸に同情、彼のオーバーコートを脱がせる。すると、マフラーの下にはネクタイはおろかシャツさえ着ておらず、古くよれよれであちこちに大きな穴の開いたセーターが見えた。セーターの穴からはさらに汚れた下着がのぞき、彼の体には少なくとも2ヵ月は水を浴びてないことが明らかな汚れ垢の染みが沢山浮いている始末。要するに彼は御曹司などではなく、オーバーで身元を隠した貧しい青年だったのだ。服を脱がせられている際、彼は体ばかりか心も丸裸にされたのを恥じるかのように、顔を壁の方に向ける。間もなく若者は絶命するが、オーバーのポケットに所持品は僅かしかなかった。
アッバースは友人たちと夜間外出しようと、よれよれのパジャマにオーバーを羽織り、マフラーを巻いた姿で出たが、危うく交通事故に遭いかけた体験をヒントに、この作品を書いたという。
「猿まわし」はパキスタンにもいる教育熱心な親が登場する。近所に住む裕福なシャー氏の家に招かれた“私”は、その家のひとり息子への両親の躾を目にすることになる。3~4歳位の男の子は両親の教えに従い、“私”の前で英語の詩や山の名前を披露する。シャー氏夫妻の話題は殆ど子供のことが中心、夫妻は息子の体の訓練に日本のジュードーやカラテまで習わせているという。氏の家を出た“私”は、猿まわしを目にし、ついシャー氏の教育と重ね合わせて思う。「猿まわしは大声で喚き散らして見物人を集めなきゃいかんが、はてさて、シャー氏はその目的のためにいつも接待という方法に頼らなきゃいかんのかな?」。
翻訳の山根聡氏もこの作品への解説で、“教育”“躾”という仮面の下の実態は、自分本位に子供を手なずける猿まわしなのだ、と書いている。パキスタンの著名な批評家はアッバースの作品をこう指摘している。
-彼は同時代の作家のように作品中に大きな衝撃を盛り込まず、淡々とした文体によって独自の地位を築き上げた…彼は人間の様々な側面に関心を寄せ、次第にその“人格という仮面”を剥がしていく。そして本性が現れた時、読者は愕然とする。だが、アッバースはたえと本性を剥き出しにさせても、それを改善しようとか、いたずらに人間の弱さを嘲笑しようとはしない…
「隣人」は 少年が主人公の作品。隣人一家のとても可愛い少女が好きな少年は、ある時彼女の機嫌を損ね、それを気に病む心理描写がよい。少女を想う少年も無垢だが、少女の無垢は微妙に異なる。少年に持っている玩具をすぐ見せてと要求するも、急き切って持参した少年を平気で外に待たせておく気紛れさ。惚れた弱みといえ、完全に少女のペースにはまり、女の子に鼻面を引き回される少年がいじらしい。まだ十歳にならぬ前からオシャレに関心を持ち、異性を振り回す女の性が既に出ているのは興味深い。
その②に続く
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