5月22日の河北新報のコラム「あすを読む」に、『基本法改正論議に見る日本の教育の特殊性』と題したロンドン大学政治経済学院名誉客員であるロナルド・ドーア氏の論文が載った。その中で興味深いと感じた箇所を抜粋してみたい。まず、のっけから大上段に構えた言葉で始まる。
「教育基本法のような法律は日本以外の国にあるだろうか…英国では読み書き算数の達成度という基本的な意味での学力以上に、教育課程が-例えば歴史教育のあり方が-政治問題になった事はない。
日本が特殊な点は二つある。一つは教員基本法の存在自体。もう一つは、その内容が一句一句、細かく吟味されて政党間の争点になっていることで、外国から見ればより不思議である。
前者の説明は簡単だろう。戦前の教育制度は戦争のための国民の精神総動員の手段であったから、新憲法をもって再出発した日本が、教育制度も完全に方向転換をするという宣言として意味があった…
戦争の歴史的な意味をめぐる日教組と文部省(現在は文部科学省)・自民党の四十年戦争の名残である。明らかに日教組の負け戦になったのは既に久しい。90年代において国旗を立てて国家を歌う事を学校に強制した法律は、自民党の完全勝利の象徴だった…
今、この四十年間の教育正常化・右傾化を進めてきた人たちの敵は、もはや「自虐的な歴史観」を普及する学者ではない。自由主義者である。自由主義者たちは「愛国心の育成」を明記しようとする動きに対して「心の自由を奪う」事だと非難する…
民主党が自民党とナショナリズムのの競争で対決しようとしている場面は滑稽といえば滑稽だが、そのナショナリズムは容易く恐ろしい偏狭なナショナリズムになりうる。その例として最近も、「中国を愛し日本を虐げる亡国政治家・官僚」を弾劾する「日本を虐げる人々」という本が出版された。
基本法改正案の目的が若い世代に「国と郷土を愛すると共に他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」ことならば、政府は行動で模範を示し た方がいい。例えば、尖閣、竹島、北方領土について相手国に「この隣国同士の摩擦の種をとにかく処理しよう。国際司法裁判所に持っていこう」と昔一回した ように提案したらどうか。日本が大人の国であることを行動で示した方が、基本法のどんな美辞麗句よりも効果があるだろう」
ドーア氏の論文を読んで感じた印象は、つくづくイギリス人というのは大英帝国時代から発想に変化がないということだ。「偏狭なナショナリズム」「大人の国であることを示せ」「特殊性」などは散々インドその他の植民地で現地人指導者に呆れるほど繰り返した文句なのだ。ベンガル分割を図ったカーゾン提督の言葉を引用したのかと、一瞬思ったくらいだ。 ドーア氏に関しては3月24日付けの記事でも書いているが、彼は死刑廃止運動にエールを送っていた。そのきっかけは香港人(!)からの支援要請だった。死刑は蛮行との理由もある。
まず「教育基本法のような法律は日本以外の国にあるだろうか」だが、日本以外にあるはずがないではないか。日本の国内法なのだから。大抵のイスラム圏でそ の種はコーランの学習だが、これも非イスラム圏ではありえないように。中国や韓国の教育法は寡聞にして知らぬが、異常なほどのナショナリズム高揚が強調さ れている程度は知っている。日本の歴史教育のあり方が政治問題化したのは、問題化させたがっている輩が国内外に存在するからだ。
ドーア氏は「外 国から見れば」と言うが、日本の教育問題に関心を示す者など隣国と日本通の者を除いて、まず世界は事情に無関心である。イギリスで英国教会設立の学校に国 公立学校と同様な予算をつけるのが如何なものかと、一世紀以上も闘われた問題など、英国通でもなければ知らないように。己の意見イコール全ての外国の見 解、と思い込むようでは度し難い狭量さだ。
さらにドーア氏は「戦前の教育制度は戦争のための国民の精神総動員の手段」と言うが、戦前の 教育制度全てが戦争のための手段と断定するのはあまりにも短絡的思考だ。このような単眼的視野を発揮するのでは、学者としての力量が疑われる。戦前の日本 の教育制度に戦争の手段が色濃いのは、当時のイギリスその他欧米の教育制度を学んだ影響が大だろう。
ドーア氏は自由主義者を取り上げているが、 自由主義者などイギリスの兄弟国家(どちらが兄かは不明だが)アメリカでは、もはや揶揄の対象と成り果てているのだ。アメリカはさて置き日本の“自由主義 者”はイラクでの米英の行動は非難しても、チベットやチェチェンといった中露での弾圧にはとたんに言葉の不自由主義に陥るのが面白い。中露も批判できるな ら正真正銘の自由主義者だが、果たして存在するのだろうか。
「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する」なら、現代イラクで行っている英国の公式見解でもあるが、現地の英国兵がしてる行動は若い世代の模範を示しているのか?特に捕虜の扱いなどは。
領土問題くらい複雑なのは今も昔も変わらない。国際司法裁判所如きに持っていこうが、実質占領した方が勝ちなのだ。フォークランド諸島問題は未だに火種は消えないし、この島々の名前を冠した戦争まで起きている。昨年11月、当時の仏大統領ミッテランの心理分析医を勤めた者が興味深い秘話を明らかにしていた。サッチャーが電話でアルゼンチン保有のフランス製ミサイルの弱点を教えるようミッテランに迫り、応じなければ核使用をほのめかしたと言う。さすが鉄の女で、どんな外交辞令よりも効果がある。リーダーたる模範。
ドーア氏に限ったことではないが、欧米人の日本並びに第三世界批判には大抵といってよいほど強調するのが「特殊性」であり、普遍性を見出そうとする者はま れなのが、欧米人学者の「特殊性」だ。欧米の基準こそが普遍性ならば、逸脱する国々が「特殊性」となるのは当然の結論だろう。
ドーア氏は一応論文への意見を受け付けているので、アドレスを紹介したい。rdore@alinet.it
「イギリス人は帝国の人種であり、我々を支配し、従属下に置く神が与えた権利があるのだ、と我々は言い聞かされてきた。もしも我々が抗議すれば、所謂“帝国の人種の虎のような資質”を思い知らされたのだった」―J.ネルー
◆関連記事:「一部の偏狭なナショナリスト」「逆立ちした歴史」「イラクと空爆の力」
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「教育基本法のような法律は日本以外の国にあるだろうか…英国では読み書き算数の達成度という基本的な意味での学力以上に、教育課程が-例えば歴史教育のあり方が-政治問題になった事はない。
日本が特殊な点は二つある。一つは教員基本法の存在自体。もう一つは、その内容が一句一句、細かく吟味されて政党間の争点になっていることで、外国から見ればより不思議である。
前者の説明は簡単だろう。戦前の教育制度は戦争のための国民の精神総動員の手段であったから、新憲法をもって再出発した日本が、教育制度も完全に方向転換をするという宣言として意味があった…
戦争の歴史的な意味をめぐる日教組と文部省(現在は文部科学省)・自民党の四十年戦争の名残である。明らかに日教組の負け戦になったのは既に久しい。90年代において国旗を立てて国家を歌う事を学校に強制した法律は、自民党の完全勝利の象徴だった…
今、この四十年間の教育正常化・右傾化を進めてきた人たちの敵は、もはや「自虐的な歴史観」を普及する学者ではない。自由主義者である。自由主義者たちは「愛国心の育成」を明記しようとする動きに対して「心の自由を奪う」事だと非難する…
民主党が自民党とナショナリズムのの競争で対決しようとしている場面は滑稽といえば滑稽だが、そのナショナリズムは容易く恐ろしい偏狭なナショナリズムになりうる。その例として最近も、「中国を愛し日本を虐げる亡国政治家・官僚」を弾劾する「日本を虐げる人々」という本が出版された。
基本法改正案の目的が若い世代に「国と郷土を愛すると共に他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」ことならば、政府は行動で模範を示し た方がいい。例えば、尖閣、竹島、北方領土について相手国に「この隣国同士の摩擦の種をとにかく処理しよう。国際司法裁判所に持っていこう」と昔一回した ように提案したらどうか。日本が大人の国であることを行動で示した方が、基本法のどんな美辞麗句よりも効果があるだろう」
ドーア氏の論文を読んで感じた印象は、つくづくイギリス人というのは大英帝国時代から発想に変化がないということだ。「偏狭なナショナリズム」「大人の国であることを示せ」「特殊性」などは散々インドその他の植民地で現地人指導者に呆れるほど繰り返した文句なのだ。ベンガル分割を図ったカーゾン提督の言葉を引用したのかと、一瞬思ったくらいだ。 ドーア氏に関しては3月24日付けの記事でも書いているが、彼は死刑廃止運動にエールを送っていた。そのきっかけは香港人(!)からの支援要請だった。死刑は蛮行との理由もある。
まず「教育基本法のような法律は日本以外の国にあるだろうか」だが、日本以外にあるはずがないではないか。日本の国内法なのだから。大抵のイスラム圏でそ の種はコーランの学習だが、これも非イスラム圏ではありえないように。中国や韓国の教育法は寡聞にして知らぬが、異常なほどのナショナリズム高揚が強調さ れている程度は知っている。日本の歴史教育のあり方が政治問題化したのは、問題化させたがっている輩が国内外に存在するからだ。
ドーア氏は「外 国から見れば」と言うが、日本の教育問題に関心を示す者など隣国と日本通の者を除いて、まず世界は事情に無関心である。イギリスで英国教会設立の学校に国 公立学校と同様な予算をつけるのが如何なものかと、一世紀以上も闘われた問題など、英国通でもなければ知らないように。己の意見イコール全ての外国の見 解、と思い込むようでは度し難い狭量さだ。
さらにドーア氏は「戦前の教育制度は戦争のための国民の精神総動員の手段」と言うが、戦前の 教育制度全てが戦争のための手段と断定するのはあまりにも短絡的思考だ。このような単眼的視野を発揮するのでは、学者としての力量が疑われる。戦前の日本 の教育制度に戦争の手段が色濃いのは、当時のイギリスその他欧米の教育制度を学んだ影響が大だろう。
ドーア氏は自由主義者を取り上げているが、 自由主義者などイギリスの兄弟国家(どちらが兄かは不明だが)アメリカでは、もはや揶揄の対象と成り果てているのだ。アメリカはさて置き日本の“自由主義 者”はイラクでの米英の行動は非難しても、チベットやチェチェンといった中露での弾圧にはとたんに言葉の不自由主義に陥るのが面白い。中露も批判できるな ら正真正銘の自由主義者だが、果たして存在するのだろうか。
「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する」なら、現代イラクで行っている英国の公式見解でもあるが、現地の英国兵がしてる行動は若い世代の模範を示しているのか?特に捕虜の扱いなどは。
領土問題くらい複雑なのは今も昔も変わらない。国際司法裁判所如きに持っていこうが、実質占領した方が勝ちなのだ。フォークランド諸島問題は未だに火種は消えないし、この島々の名前を冠した戦争まで起きている。昨年11月、当時の仏大統領ミッテランの心理分析医を勤めた者が興味深い秘話を明らかにしていた。サッチャーが電話でアルゼンチン保有のフランス製ミサイルの弱点を教えるようミッテランに迫り、応じなければ核使用をほのめかしたと言う。さすが鉄の女で、どんな外交辞令よりも効果がある。リーダーたる模範。
ドーア氏に限ったことではないが、欧米人の日本並びに第三世界批判には大抵といってよいほど強調するのが「特殊性」であり、普遍性を見出そうとする者はま れなのが、欧米人学者の「特殊性」だ。欧米の基準こそが普遍性ならば、逸脱する国々が「特殊性」となるのは当然の結論だろう。
ドーア氏は一応論文への意見を受け付けているので、アドレスを紹介したい。rdore@alinet.it
「イギリス人は帝国の人種であり、我々を支配し、従属下に置く神が与えた権利があるのだ、と我々は言い聞かされてきた。もしも我々が抗議すれば、所謂“帝国の人種の虎のような資質”を思い知らされたのだった」―J.ネルー
◆関連記事:「一部の偏狭なナショナリスト」「逆立ちした歴史」「イラクと空爆の力」
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イギリス人のドーア氏に限らず、アングロサクソン文化圏の国々には共通した国民性があります。独善的な押し付けがましさと、自分のことを棚に上げて他者の批判を好む狭量さです。特亜人の気質ほど許容できない代物ではないにしろ、やはり辟易させられる。
反日報道で名高い米のCNN、英のBBCにもアングロサクソン的価値観が底流にある。自身を良識を弁えた冷静な観察者に位置づけた高みより、他国の後進性をあげつらっては悦に入る。そして、聊かも己の欺瞞性を疑うことがない。彼らの論を耳にする度、胸焼けのような嫌悪感を覚えますが、ある意味微笑ましくもあります。彼らを見ていると、所詮は図体がデカイだけの子供のような気がしてしまうのです。“自惚れ”は誰しもが多かれ少なかれ具えた資質ですが、フランス人や韓国人に限らず、アングロサクソン文化圏でも顕著に表れる。ただ余りに日常化しているので目立たぬだけですね。
日本では未だに西欧人のご託宣を有難がる風潮が強いですが、最も頻繁に引き合いに出すのが学者や文化人といった手合いですから、皮肉めいたものを感じてしまいます。しかし、mugiさんがそういった輩と一線を画し、具にもつかぬ英国人の妄言に、キチンと反駁しているのには感服しました。
ドーア氏に限りませんが、アングロサクソン学者がことある毎に訴える「世界」など、己の「世界」に奉仕するさせる御題目の欺瞞そのものでしょう。かつての植民地だったインドその他の第三世界でも、彼らは「世界では~」を言ってましたから。欧州大陸から見れば、英国の方が特異性のある国にも係らず。
英国人の誇りを維持するやり方は、自国の問題点を改善、向上するよりも、他国、特に第三世界の諸問題を俎上にのせて優越感を満足させることに熱心ですね。「人のフリ見て、わが身見直せ」と最も無縁な鉄面皮性は、東の漢族と張れると思います。
困ったことにわが国の文化人こそ、出羽の神ぞろいなのが問題です。めったやたら欧米人学者の意見にひれ伏して、ありがたがる。奴隷根性の標本みたいな輩が学会の重鎮に納まっている。欧州が厳然たる階級社会なのは改めて書くまでもないし、これぞ欧州の封建制が色濃く残っている現実に目をつぶり、文明国と崇める始末。
ドーア氏は意見を受け付けると言ってますが、私が送った異論メールは黙殺されました。反論も返せない学者ですか(笑)。