サーサーン朝ペルシアの歴代皇帝の中で、おそらく西欧でもっとも名が知られているのはシャープール1世(在位240-72年)かもしれない。先日見た『ローマ人の物語-スペシャルガイドブック』に「目的のためには手段を選ばず-「宿敵ペルシア王シャープール1世」」とのコラムがあり、冒頭はこう。「ローマには宿命のライバルと言える国家、王が少なくなかったが、その中の極め付きがサーサーン朝ペルシア二代目の王シャープールだ。ローマからメソポタミアを取り上げ、皇帝を策略によって「生け捕り」にしたのである」。
ローマ側からすれば、この見方は正しい。そこで私は『ローマ人の物語』では描かれなかったシャープール1世と、ペルシア側からの見方を記事にしてみたい。
サーサーン朝の開祖はシャープールの父アルダシール1世で、建国は226年とされる。その前に実に4百年以上続いたアルサケス朝(パルティア)を 滅ぼし、イランを支配する。どちらの王朝もイラン民族なので、豊臣政権を倒した徳川家が江戸幕府を築いたのと似てなくもないが、日本と異なりイラン人は王 朝の正統性を非常に重視する。武力で政権を築いたのは確かでも簒奪者呼ばわりされるのは屈辱らしく、サーサーン朝は末期に至るまで己の正統性をことある毎 に強調し続ける。
伝説で王朝の始祖サーサーンは、パールサ(現ファールス)地方のアナーヒター(ゾロアスター教の水の女神)神殿に仕えた神官となっている。彼の孫アルダシール1世の時代にパールサ地方の王となったが、アルダシールはかつてのペルシア帝国の再建の大望を抱いていた。アケメネス朝もサーサーン朝同様パールサ地方君主から王朝を築いた一族だった。
パルティアを滅亡させても、アルダシールの前途は多難連続だった。イラン全土にはまだまだパルティアの残存勢力は侮れないものがあり、王権を確立するまで は多くの敵と戦わなければならなかった。敵は国内ばかりでなく、混乱に乗じ侵攻の機会を伺っているローマの存在もある。
始祖が司祭の説もあるアルダシールらしく、宗教組織の強力な支持を得て王朝成立を果たしている。アケメネス朝の再来を謳っても、王権確立の様相が異なるのはそこに原因があり、敗北した王を許したキュロスの ような寛容さはなかった。さらに前王朝と決定的に違っているのが政治形態。地方分権的で封建国家だったパルティアに対し、中央集権体制だったサーサーン 朝。パルティアは国内に様々な宗教の存在を認める寛容さだったが、宗教でもサーサーン朝は集権化を推進する。国家神道よろしくゾロアスター教を国家原理と なし、皇帝を補佐する者に高位聖職者を起用する。
アルダシールも聖職者の側近がおり、側近の進言が大いにあったと思われるが、全土至る 所にあった火の寺院を破壊、政府の認める火のみを正統とし、新たに火の寺院を建設する。これはイラン人の間に大変な衝撃を与え、混乱を引き起こした。サー サーン朝は前王朝を異端者、異教を拝んでいたと喧伝するが、もちろんこれは悪質なデマである。ただ、アルダシールの強行攻策により、ゾロアスター教の国教 化と政教一体が進むことになる。
最後の5年間、アルダシールは息子シャープールを共同統治者にする。父から国政を受け継いでも、即位当初からシャープールは対外問題に対処を迫られる。ローマは常に脅威だが、東方でもペルシアに政治・経済的な脅威を与えているクシャーナ朝が あった。クシャーナ朝は貿易上の要地を占め、ペルシアにとって東西貿易の大きな障害となっていた。シャープールはまず東方に遠征軍を出し、クシャーナ朝の 冬の都ペシャワール(現パキスタン)を攻略、インダス川流域を占領する。さらに北に進み中央アジアまで進撃した。かくしてクシャーナ朝はサーサーン朝の支 配下に入る。
東方攻略は大成功を収めたが、ペルシア国内はまだ不安定でシャープールの宗主権を認めない王がいた。それに乗じ243年、 ローマ皇帝ゴルディアヌスはペルシアへ侵攻する。この時点でシャープールはカスピ東岸やギーラーン、ホラーサーンの征服に忙殺されていた。反撃のためペル シアはシリアまで侵入するが、ローマに敗れる。シャープールがローマに勝利を収めるのはその15年後のことだった。
その②に続く
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ローマ側からすれば、この見方は正しい。そこで私は『ローマ人の物語』では描かれなかったシャープール1世と、ペルシア側からの見方を記事にしてみたい。
サーサーン朝の開祖はシャープールの父アルダシール1世で、建国は226年とされる。その前に実に4百年以上続いたアルサケス朝(パルティア)を 滅ぼし、イランを支配する。どちらの王朝もイラン民族なので、豊臣政権を倒した徳川家が江戸幕府を築いたのと似てなくもないが、日本と異なりイラン人は王 朝の正統性を非常に重視する。武力で政権を築いたのは確かでも簒奪者呼ばわりされるのは屈辱らしく、サーサーン朝は末期に至るまで己の正統性をことある毎 に強調し続ける。
伝説で王朝の始祖サーサーンは、パールサ(現ファールス)地方のアナーヒター(ゾロアスター教の水の女神)神殿に仕えた神官となっている。彼の孫アルダシール1世の時代にパールサ地方の王となったが、アルダシールはかつてのペルシア帝国の再建の大望を抱いていた。アケメネス朝もサーサーン朝同様パールサ地方君主から王朝を築いた一族だった。
パルティアを滅亡させても、アルダシールの前途は多難連続だった。イラン全土にはまだまだパルティアの残存勢力は侮れないものがあり、王権を確立するまで は多くの敵と戦わなければならなかった。敵は国内ばかりでなく、混乱に乗じ侵攻の機会を伺っているローマの存在もある。
始祖が司祭の説もあるアルダシールらしく、宗教組織の強力な支持を得て王朝成立を果たしている。アケメネス朝の再来を謳っても、王権確立の様相が異なるのはそこに原因があり、敗北した王を許したキュロスの ような寛容さはなかった。さらに前王朝と決定的に違っているのが政治形態。地方分権的で封建国家だったパルティアに対し、中央集権体制だったサーサーン 朝。パルティアは国内に様々な宗教の存在を認める寛容さだったが、宗教でもサーサーン朝は集権化を推進する。国家神道よろしくゾロアスター教を国家原理と なし、皇帝を補佐する者に高位聖職者を起用する。
アルダシールも聖職者の側近がおり、側近の進言が大いにあったと思われるが、全土至る 所にあった火の寺院を破壊、政府の認める火のみを正統とし、新たに火の寺院を建設する。これはイラン人の間に大変な衝撃を与え、混乱を引き起こした。サー サーン朝は前王朝を異端者、異教を拝んでいたと喧伝するが、もちろんこれは悪質なデマである。ただ、アルダシールの強行攻策により、ゾロアスター教の国教 化と政教一体が進むことになる。
最後の5年間、アルダシールは息子シャープールを共同統治者にする。父から国政を受け継いでも、即位当初からシャープールは対外問題に対処を迫られる。ローマは常に脅威だが、東方でもペルシアに政治・経済的な脅威を与えているクシャーナ朝が あった。クシャーナ朝は貿易上の要地を占め、ペルシアにとって東西貿易の大きな障害となっていた。シャープールはまず東方に遠征軍を出し、クシャーナ朝の 冬の都ペシャワール(現パキスタン)を攻略、インダス川流域を占領する。さらに北に進み中央アジアまで進撃した。かくしてクシャーナ朝はサーサーン朝の支 配下に入る。
東方攻略は大成功を収めたが、ペルシア国内はまだ不安定でシャープールの宗主権を認めない王がいた。それに乗じ243年、 ローマ皇帝ゴルディアヌスはペルシアへ侵攻する。この時点でシャープールはカスピ東岸やギーラーン、ホラーサーンの征服に忙殺されていた。反撃のためペル シアはシリアまで侵入するが、ローマに敗れる。シャープールがローマに勝利を収めるのはその15年後のことだった。
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