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ギリシアの女、ペルシアの女

2007-07-06 21:27:58 | 歴史諸随想
 映画『300』には主人公の妻としてスパルタ王妃が登場する。その美しさと気丈な振舞いに目を見張られた観客も少なくなかっただろう。歴史好きの私としては、つい古代ギリシアとペルシアの女性の記事を書きたくなってしまう。「民主主義」と「専制主義」の国で、女たちの社会的地位はどうだったのか。

 紀元前だから当然にせよ、ギリシアは完全な男社会だった。特に地位が低かったのは意外にもアテネ。未婚の頃はもちろん結婚後も他の男と顔を合わせるのを好まれず、特に上流では祭礼の時以外の外出はあまり歓迎されなかった。つまり、現代のイスラム圏のような女性隔離だった。宴への同席もヘタイラと呼ばれた高級娼婦にしか許されなかったほど。
 桜井万里子氏の『古代ギリシアの女たち』(中公新書)では、特に民主主義の時代になって女の地位が低下したそうだ。王制時代はもっと自由を謳歌して政治に参加も出来たが、男たちは民主主義により女の意見を封じ込めるようになったとか。

 『アナバシス』(内陸行の意)で有名なクセノフォンが伝えた当時の理想的な婦人とは、「なるべく少なく見て、なるべく少なく聞いて、なるべく少なく問う」だった。男の身勝手極まれり。ただ、下層の家庭では女たちも家に閉じこもっている訳にはいかず、自ら外出して買い物や水汲みを行っていた。
 アテネに比べれば、他のポリスで は女の地位はずっと高かったらしい。特に高かったのがスパルタで、相続の権利を持っていただけでなく、男子と同じように運動競技に参加した。この体の鍛錬 はもちろん丈夫な子供を生むためであり、訓練は変な気持を起こさないように男子同様裸で行われていた。思春期の少年少女を裸体で訓練させていたとは、現代 なら虐待に当たる。

 ちなみにローマの女たちは立場が強かった。宴会にも夫婦同伴で現れ、政治に口ばしを入れる。ローマがまだ都市国家に 過ぎなかった頃、先進的なアテネを見たローマ人が、ギリシアの女が家に閉じこもっているのを不思議がったという。アテネの習慣を真似しなかったローマ人も 面白いが、現代でも女が頑張るイタリアと女の影が薄いギリシアを見れば、民族精神は変わらないのか。

 一方ペルシアの女はさすがにローマほど出しゃばらなかったようだ。一夫多妻で特に王侯貴族は男の永遠の夢ハレムを持っていた。ギリシアのように上流では外出は歓迎されない。ヴェールをまとう習慣は既にあったが、これは宗教的戒律より風土も関係している。
 アケメネス朝建 国の頃、ペルシア人は遊牧民から定住民となって歴史が浅かった。後のモンゴルもそうだが、遊牧民国家というのは他民族の習慣に寛容で、合理的な考えを持つ ことが多い。そして、農耕定住民族より女の発言権が強い傾向もある。政略結婚も普通だが、ペルシア皇帝の后は基本的に一族から選ばれた。

 サーサーン朝時代には女子のための学校もあり、女も離婚請求権を持っていた。イスラム化した現代は女から離婚請求は出来ないから、イスラムは女にとって「長い目で見れば失ったものが大きかった」(メアリー・ボイス)。
  一夫多妻制でも庶民は妻を一人持つのがやっと。イスラム以前は兄妹婚が主流だった。現代の日本人なら近親婚と聞けば仰天するが、古代オリエント世界で近親 婚は普通なのだ。血筋ではギリシア系なのに、クレオパトラも弟と結婚しているし、処刑されたサダム・フセインの第一夫人も従姉妹である。

 ゾロアスター教の聖典アヴェスターの ヤシュト(諸神への賛歌)に「かかる男性や女性を、我々は祭る」の結びが繰り返されている。もちろん男女平等など説いてないが、男尊女卑の強い聖書より女 性尊重精神が見られる。イラスム以前のペルシアの物語などを見れば、ペルシアの女はかなり男にモノを言っている。「性格もハッキリせず、温和なタイプ」ど ころか、男を叱咤激励し、派手な口喧嘩もする。物語特有の誇張もあるだろうが、反ってギリシアの女の方が従順な印象を受ける。これはどういうことだろう?

  現代は女の地位が高い西欧、低い東洋(または第三世界)という観念に疑問を持つ人は滅多にいないだろう。だが、西欧も女性虐待の極みたる魔女狩りを盛んに 行っていたのは遠い時代ではない。これだけの大量迫害と虐殺を繰り広げたのは西欧圏のみだ。東洋の女は従順で地位が低いというのは、実態を見ない西欧人の 思い込みばかりでなく、そうでなくてはならないとの前提もあるのではないか。自分たちの優位性が崩れるから。

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