好みもあるだろうが、故・黒澤明監督の最高傑作は「七人の侍」とされる。私もリバイバルでこの映画を見たが、見た黒澤映画で一番好きな作品だ。この映画の公開は昭和29(1954)年だが、公開当時、憲法違反の自衛隊を正当化するための宣伝映画との解釈をした評論家もいたのを、『「言霊の国」解体新書』(井沢元彦著)で知った。
その映画評論家は佐藤忠男氏。佐藤氏は著書『黒澤明の世界』で、以下のように発言されている。
「私 は戦争は真っ平だった…これに対して、外国から攻撃を受けた場合の自衛の権利はあるという議論が行なわれ、やがて警察予備隊は自衛隊と名を改め、本格的な 軍事へと増強していった。この警察予備隊が自衛隊と名を改めたのが『七人の侍』の封切られた1954年だった…私にはこのストーリーが、当時重大な政治問 題となっていた自衛隊の存在を肯定し、その必要性を宣伝するもののように感じられた。そして私は、この映画に反感を持った」
映画の感想など十人十色だし、日本は思想の自由があるので、佐藤氏のように反感を持つのも構わない。映画は時代を反映するものだから、公開当時佐藤氏のよ うな感想を持つ者は他にもいただろう。公開から既に半世紀を経ているので、現代佐藤氏の心境が変化したかは不明だ。ただ、先週河北新報に佐藤氏のコラムが 載っており、最近流行の資金にモノを言わせる攻撃型ハリウッド大作映画を批判、日本の平和憲法の墨守を訴える内容だった。
作家・井沢元 彦氏は日本の評論家とはどうしようもないと感想を書いている。井沢氏も友人から「七人の侍」を自衛隊宣伝映画と批判する評論家がいたと聞き、あまりの馬鹿 馬鹿しさに耳を疑ったそうだ。そんな発言があったのか実際調べてみたら、本当にあったと本で記している。「七人の侍」のラストは侍たちが村から去るので、 いつまた野武士が襲撃するかわからないのに、“軍隊”解散をするのが私には不思議だった。
何も井沢氏だけでなく、他の作家・小林信彦氏もこのような感想を述べていた。
「“訳の分からない時代だった。私が好きでたまらなかった黒澤明の映画は、否定的な意味で保守的・権威的・家父長的と決め付けられ、黒澤明を好きだと表明することはかなりの勇気が必要であった”西村雄一郎の告白である。そう、1960年後半、'70年代初めはそういう狂った時代だった」(「私の読書日記」週刊文春1991年10月24日号)
作家・塩野七生氏も「城下町と城中町」という題のエッセイで、「七人の侍」を引き合いに出して、日本と欧州の戦争の違いを指摘されていた。日本の戦争の結 果が支配者の交代だけを意味したのに反して、欧州の戦争は住民ぐるみの戦いであったという。町ぐるみ城塞で囲い、籠城して外敵と戦うのは欧州だけでなく中 東や中国、インドも同じだ。城塞内には非戦闘員も避難してきており、住民皆殺し型の戦いも少なくなかった。戦国時代に例外はあっても、基本的に日本で城塞 と籠城戦、住民皆殺しというパターンがなかったのはむしろ特異だ。
日本は戦闘要員と彼らに関係する婦女子だけでなく、町全体が籠城するということがなかったので城下町ということだ。何故日本は諸外国と様相が違ったのか。私はこれを同一性の極めて高い民族の島国国家に原因があると思う。国内に治安を脅かす異民族や異教徒も存在せず、地理的条件から外敵からも守られているゆえ、町ぐるみ城塞で囲う必要もなかった。
日本人の平和ボケは戦後ばかりでなく、ひょっとして地政学から形成されたのかもしれない。佐藤忠男氏のような評論家が幅を利かせていたのも、日本特有の現象だろう。
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その映画評論家は佐藤忠男氏。佐藤氏は著書『黒澤明の世界』で、以下のように発言されている。
「私 は戦争は真っ平だった…これに対して、外国から攻撃を受けた場合の自衛の権利はあるという議論が行なわれ、やがて警察予備隊は自衛隊と名を改め、本格的な 軍事へと増強していった。この警察予備隊が自衛隊と名を改めたのが『七人の侍』の封切られた1954年だった…私にはこのストーリーが、当時重大な政治問 題となっていた自衛隊の存在を肯定し、その必要性を宣伝するもののように感じられた。そして私は、この映画に反感を持った」
映画の感想など十人十色だし、日本は思想の自由があるので、佐藤氏のように反感を持つのも構わない。映画は時代を反映するものだから、公開当時佐藤氏のよ うな感想を持つ者は他にもいただろう。公開から既に半世紀を経ているので、現代佐藤氏の心境が変化したかは不明だ。ただ、先週河北新報に佐藤氏のコラムが 載っており、最近流行の資金にモノを言わせる攻撃型ハリウッド大作映画を批判、日本の平和憲法の墨守を訴える内容だった。
作家・井沢元 彦氏は日本の評論家とはどうしようもないと感想を書いている。井沢氏も友人から「七人の侍」を自衛隊宣伝映画と批判する評論家がいたと聞き、あまりの馬鹿 馬鹿しさに耳を疑ったそうだ。そんな発言があったのか実際調べてみたら、本当にあったと本で記している。「七人の侍」のラストは侍たちが村から去るので、 いつまた野武士が襲撃するかわからないのに、“軍隊”解散をするのが私には不思議だった。
何も井沢氏だけでなく、他の作家・小林信彦氏もこのような感想を述べていた。
「“訳の分からない時代だった。私が好きでたまらなかった黒澤明の映画は、否定的な意味で保守的・権威的・家父長的と決め付けられ、黒澤明を好きだと表明することはかなりの勇気が必要であった”西村雄一郎の告白である。そう、1960年後半、'70年代初めはそういう狂った時代だった」(「私の読書日記」週刊文春1991年10月24日号)
作家・塩野七生氏も「城下町と城中町」という題のエッセイで、「七人の侍」を引き合いに出して、日本と欧州の戦争の違いを指摘されていた。日本の戦争の結 果が支配者の交代だけを意味したのに反して、欧州の戦争は住民ぐるみの戦いであったという。町ぐるみ城塞で囲い、籠城して外敵と戦うのは欧州だけでなく中 東や中国、インドも同じだ。城塞内には非戦闘員も避難してきており、住民皆殺し型の戦いも少なくなかった。戦国時代に例外はあっても、基本的に日本で城塞 と籠城戦、住民皆殺しというパターンがなかったのはむしろ特異だ。
日本は戦闘要員と彼らに関係する婦女子だけでなく、町全体が籠城するということがなかったので城下町ということだ。何故日本は諸外国と様相が違ったのか。私はこれを同一性の極めて高い民族の島国国家に原因があると思う。国内に治安を脅かす異民族や異教徒も存在せず、地理的条件から外敵からも守られているゆえ、町ぐるみ城塞で囲う必要もなかった。
日本人の平和ボケは戦後ばかりでなく、ひょっとして地政学から形成されたのかもしれない。佐藤忠男氏のような評論家が幅を利かせていたのも、日本特有の現象だろう。
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アメリカ人が一番死んだ戦争は南北戦争ですが、ここで最初の無条件降伏が出てきました。
皆殺し型の戦争で無条件降伏なんてしたら皆殺しにされます。そう思わないボケは日本とアメリカだけです。
ただ、社会はある程度みんながボケている(根拠無く他人を信用している)ことを前提としているので、ボケている方が発展するんですよね。
南北戦争で最初の無条件降伏が出たとは、初めて知りました。
この戦争は内戦ですが、同じ“民族”、同じキリスト教徒という事情もあるので、無条件降伏が可能だったのかもしれません。これが旧大陸なら、敵側は異民族の異教徒なので、条件付降伏でも無視されて皆殺しというのも珍しくありません。
日本とアメリカがボケという共通点があったのは、面白いですね。
>>「日本人の平和ボケは今まで平和過ぎたから」
まさにそのとおりですね。永遠に続く戦争もありませんが、平和もまた同じ。戦争反対、平和を繰り返せば、平和になると思い込んでいるボケもいますが。
一時期、黒沢作品を集中して鑑賞した時期がありました。
繊細でもありながら、日本人離れしたスケールの大きなパワーに圧倒されたのを覚えています。完璧主義者の持つエネルギーなのでしょうか。
特に印象に残っているのは、「隠し砦の三悪人」、「蜘蛛の巣城」、そして「どん底」です。
「七人の侍」は、DVDを購入してあるのですが、なかなか時間が取れず、VHSで鑑賞した時のふる~い記憶しかありません。
未見の「椿三十郎」とともに、お盆にでも鑑賞しようかと、考えているところです。
冒頭部分に関してのみのコメントになってしまいました^^;
エントリーの「七人の侍」はリバイバルで見ましたが、「影武者」以降はほとんど封切りで見た記憶があります。
「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」はTVで見ましたが、映画館で鑑賞すれば迫力が違ったでしょうね。
生前の黒沢は国内での評価は芳しいものではありませんでしたね。国内と反対に国際的評価が高いのはイランの監督アッバス・キアロスタミも同じで、そのギャップをどう感じているか、出来ることなら黒沢に訊ねたかったと話していました。
記事にも書いたとおり、地政学的に日本は実質的な“鎖国”状態だったので、無理もない面がある。
日本も島国でなかったら、或いは11世紀の英国のノルマン征服王朝のような例があれば、その後の歴史は変わっていたと思う。
仰るとおり、戦国時代、戊辰戦争など世界史では普通で、線香花火のような内戦。
陸続きでも、どの位置で繋がるかにより状況は変化するが(東南アジアや中国北部を参考)、朝鮮半島の先ならば、その可能性大。
ただ、シュミレーションとしては面白くとも、既に島国という運命にあるのでこれ以上空想しても意味がない。歴史に「イフ」は禁句と言われるのは、条件が違えばその後の展開も大きく変わるゆえ。