その①の続き
この騒動を取り上げている男性ブロガーもおり、日本ブログ村世界史部門の注目記事「「あたしおかあさんだから」の炎上騒動ってなんなの?」がそうである。記事の一文を紹介したい。
「ファンキー・モンキ・ベイビーズが2009年に発表した「ヒーロー」は、働くお父さんへの応援歌でした。この歌は家族のために辛いことも笑顔で耐えるお父さんを歌っています」「「あたしおかあさんだから」は、この「ヒーロー」のお母さんバージョンと言っても良いくらい」。
そしてブログ主は個人的な感想として、「私はとても良い歌詞だと思いましたし、謝罪する必要も感じませんでした」と述べている。
ブログ主は「ヒーロー」が叩かれず、「あたしおかあさんだから」が炎上したのが解せないようだが、理由は難しくはない。男が父親のことを謳った前者に対し、後者は男が女の第一人称で歌詞を書いたためだ。男の理想の女をヒロインにしたかつての演歌と同じく、男が理想のおかあさん像を強調すれば、「押し付け」と反発を招くのは当り前なのだ。
「あたしおかあさんだから」というよりホンネでは、「あなた おかあさんだから」と言いたかったのか、と勘ぐりたくなる。演歌が廃れたのも、男のエゴに尽くす歌詞の内容が時代に合わなくなったから。
「あたしおかあさんだから」の書き手が、実際に子育て中の母親または子育て経験のある女性だったならば、全く騒動にはならなかったと思う。日本の多くのお母さんは、歌詞にあるような子育てを実践しているだろうし、母親になれば子供優先の暮らしになるのは何時の時代も当たり前。当たり前すぎて女にこの種の歌詞は、発想自体が難しくて書けないのかもしれない。
私的に歌詞は牧歌的にも感じた。明るく子育てを謳い上げて好感度に努めているが、同じおかあさんでもシングルマザーならば、ここまで余裕があるだろうか?たとえ高収入だったとしても、女1人で子供を養育せねばならないシングルマザーの重圧は想像に難くない。
この炎上騒動で、ふと作家・池波正太郎のエッセイ『食卓の情景』を思い出した。池波が幼い頃に両親は離婚、彼の母は働きながら一家の家計を支えていた。池波は1923(大正12年)生まれなので、母の苦労はひとしおだったことだろう。彼は後に母が勤めが終わると、よく1人で寿司を食べに行っていたことを知らされ、ひどいとなじった。それに対する母の答えが振るっている。
「女ひとりで一家を背負っていたんだ。たまに、好きなおすしでも食べなくちゃあ、はたらけるもんじゃないよ。そのころの私は、蛇の目(御徒町の鮨屋名)でおすしをつまむのが、ただひとつのたのしみだったんだからね」(新潮文庫版22頁)
実際には数はさほど多くないかもしれないが、「あたしおかあさんだから」に過剰反応した女と、それを騒ぎ過ぎと見る男という傾向になっている。女たちの反応が男には解せないのは無理もないが、私も女だから彼女たちの反発は理解できる。歌詞は滅私奉公ならぬ滅私奉子を感じさせるものだったし、まして作詞者は男なのだ。内容から封建制への回帰志向や憧憬を感じとった女もいるだろう。
これをオーバーすぎると男は思うかもしれないが、女はこの種の反動や蔑視には敏感である。のぶみ氏による「ママおつかれさまの応援歌」など、白々しい釈明にしか聞こえず、子育てに幸福を見出す母親の想いを代弁をする形で、己の理想とするお母さん像を作り上げているのは姑息極まる。
大抵の歴女ならば、江戸時代中期以降広く普及した女子教訓書「女大学」を知っているだろう。「あたしおかあさんだから」は、現代風にアレンジした「女大学」か、と皮肉りたくなる。18世紀前半に書かれた教訓書らしく儒教思想の濃い封建的隷属が説かれていて、子供ではなく夫が絶対というものだった。
福澤諭吉はこれを批判、男が女に己の我儘を通すために押し付けたもの、と一蹴したが、子供をダシにするのが当世風らしい。
もちろん「あたしおかあさんだから」の歌詞のように、仕事を辞めて家事育児に専念するのは自由だし、それに幸せを感じているのであれば大変喜ばしい。但し、その暮らしが成り立つのは、専業主婦に理解ある夫の存在があってこそ。最近の夫婦は共働きが多いし、専業主婦をやりたくとも経済的に難しい家庭も少なくない。
そしてネグレストの母親は困り者だが、子供に構い過ぎる過保護・過干渉のおかあさんはもっと子供に悪影響を与えるはず。「あたしよりあなたの事ばかり」「あたしおかあさんだから こんなに怒れるの」では、過保護ママ一直線になりそうな。子供のことばかり思っていても、親の思いとおりにならないのが子供なのだ。
その③に続く
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