記事名から嫌煙運動を訴えた内容と思われた方もいるかもしれない。しかし、これは19世紀後半のイランでの出来事なのだ。タバコ・ボイコット運動(1891-92年)を強烈に呼びかけたのはウラマー(法学者)たちだが、某国のタバコパッケージに印刷されているように、「健康のため、吸い過ぎに注意しましょう」と禁煙を奨励したのではない。欧米列強への反帝国主義運動の先駆けだった。
原則としてアルコールをたしなまぬムスリムには(※イランやトルコでは酒飲みの君主は珍しくなかったが)、タバコは生活に欠かせない嗜好品だった。イランでは「トゥートゥーン」という紙巻きやキセル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル用の刻みタバコの2種類が栽培されていたが、イラン人は前者を特に好んだ。タバコ売りの商人たちは、様々な大きさのパイプや雁首入れの浅い木箱、鉄の火桶、鉄火箸、銅の水差し、タバコの葉を入れる長袋を持ち歩き、人々にタバコをすすめたらしい。雁首入れを腰に皮ひもで縛り付け、火桶を手に携え、水差しを背中に留め具でぶら下げた姿は、イランの何処でも見慣れた光景だったと思われる。
イランの「タンバークー」は国内消費に加え、エジプトやオスマン帝国にも輸出されていた。また、近代になると「トゥートゥーン」の方もよく栽培されるようになり、もっぱら輸出用として珍重された。これはオスマン帝国のマケドニア、サムスンなどの黒海沿岸地方の葉タバコと並び、欧州市場でも人気が高かった。
1890年3月、当時財政難に苦しんでいたガージャール朝第4代君主、ナーセロッディーン・シャーはイギリス人投機家タルボット少佐に期限50年間に亘りイランにおけるタバコの原料買い付け、加工、販売、輸出を許可する専売利権を譲渡する。シャーは独占供与の見返りとして、年額1万5千英ポンドと純益の四分の一を受け取る定めになっていた。シャーは、これがイラン全土を揺るがすタバコ・ボイコット運動の始まりになるとは夢想だにしなかっただろう。
タバコは国民生活に欠かせぬ嗜好品になっていたこともあり、鉄道や鉱山の利権と異なり、イラン国民の疑惑を深めることになる。それはイラン国内のタバコ栽培農民の買い付け、加工、輸送、国内販売、国外輸出などを一手に扱うイラン・タバコ専売会社の設立への反発に発展していく。
タバコ利権の譲渡につきイラン国民を覚醒したのは、イスタンブルで出されていたペルシア語紙「アフタル」(幸運の星の意)だった。この新聞はイラン国外で出された初のペルシア語新聞だったが、1875年から20年以上に亘り発行され続けた。この新聞の名を不朽にしたのは、タバコ利権の供与を同じ月にすぐ報道し、ボイコット運動の口火を切ったゆえである。記者たちはオスマン帝国で既にフランス系の企業にタバコ利権が譲渡され、外国人が専売制度を握ったことを教訓にしていた。
オスマン帝国ではフランス語で公社を意味する「レジ」が、そのままタバコ専売公社の意味に使われた程である。「レジ」の専売は流通経路から外れたトルコのタバコ商人の怒りを招き、各地に不満を鬱積させ密輸・密売などの社会問題を深刻化させた。「アフタル」の警告はすぐに反応を呼んだ。シャーの利権供与から1年後、1891年2月にタブリーズで専売公社の支店開設が阻止されたのを皮切りに、イラン全土にタバコ利権の阻止を求める運動が広がり、2年間に亘り繰り広げられることになる。
国内の幅広い人々を巻き込んだ運動は、公社の従業員が参加した1891年5月から目立ってくる。運動は都市のバーザール(市)の一斉罷業、公社へのタバコ葉の引渡し拒否、タバコの作付け放棄などの思い切った手法で発展した。
その中心となったのはタバコの生産と出荷に関るシーラーズ、タブリーズ、エスファハーン、マシュハド、テヘランといった都市部だった。特に反対運動に熱心だったのは、タバコを栽培農民から買い付け加工・販売に携わる商人、大規模栽培に当たる地主であった。反対がタバコ関連業者(タバコ産業に約20万人が従事していた)だけでなく、別の商工業者や喫煙者でもある民衆に広がったのは、地域社会の実情に通じ、金曜礼拝で人々の動静に敏感だったウラマーたちが結束して反対したからである。
その②に続く
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原則としてアルコールをたしなまぬムスリムには(※イランやトルコでは酒飲みの君主は珍しくなかったが)、タバコは生活に欠かせない嗜好品だった。イランでは「トゥートゥーン」という紙巻きやキセル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル用の刻みタバコの2種類が栽培されていたが、イラン人は前者を特に好んだ。タバコ売りの商人たちは、様々な大きさのパイプや雁首入れの浅い木箱、鉄の火桶、鉄火箸、銅の水差し、タバコの葉を入れる長袋を持ち歩き、人々にタバコをすすめたらしい。雁首入れを腰に皮ひもで縛り付け、火桶を手に携え、水差しを背中に留め具でぶら下げた姿は、イランの何処でも見慣れた光景だったと思われる。
イランの「タンバークー」は国内消費に加え、エジプトやオスマン帝国にも輸出されていた。また、近代になると「トゥートゥーン」の方もよく栽培されるようになり、もっぱら輸出用として珍重された。これはオスマン帝国のマケドニア、サムスンなどの黒海沿岸地方の葉タバコと並び、欧州市場でも人気が高かった。
1890年3月、当時財政難に苦しんでいたガージャール朝第4代君主、ナーセロッディーン・シャーはイギリス人投機家タルボット少佐に期限50年間に亘りイランにおけるタバコの原料買い付け、加工、販売、輸出を許可する専売利権を譲渡する。シャーは独占供与の見返りとして、年額1万5千英ポンドと純益の四分の一を受け取る定めになっていた。シャーは、これがイラン全土を揺るがすタバコ・ボイコット運動の始まりになるとは夢想だにしなかっただろう。
タバコは国民生活に欠かせぬ嗜好品になっていたこともあり、鉄道や鉱山の利権と異なり、イラン国民の疑惑を深めることになる。それはイラン国内のタバコ栽培農民の買い付け、加工、輸送、国内販売、国外輸出などを一手に扱うイラン・タバコ専売会社の設立への反発に発展していく。
タバコ利権の譲渡につきイラン国民を覚醒したのは、イスタンブルで出されていたペルシア語紙「アフタル」(幸運の星の意)だった。この新聞はイラン国外で出された初のペルシア語新聞だったが、1875年から20年以上に亘り発行され続けた。この新聞の名を不朽にしたのは、タバコ利権の供与を同じ月にすぐ報道し、ボイコット運動の口火を切ったゆえである。記者たちはオスマン帝国で既にフランス系の企業にタバコ利権が譲渡され、外国人が専売制度を握ったことを教訓にしていた。
オスマン帝国ではフランス語で公社を意味する「レジ」が、そのままタバコ専売公社の意味に使われた程である。「レジ」の専売は流通経路から外れたトルコのタバコ商人の怒りを招き、各地に不満を鬱積させ密輸・密売などの社会問題を深刻化させた。「アフタル」の警告はすぐに反応を呼んだ。シャーの利権供与から1年後、1891年2月にタブリーズで専売公社の支店開設が阻止されたのを皮切りに、イラン全土にタバコ利権の阻止を求める運動が広がり、2年間に亘り繰り広げられることになる。
国内の幅広い人々を巻き込んだ運動は、公社の従業員が参加した1891年5月から目立ってくる。運動は都市のバーザール(市)の一斉罷業、公社へのタバコ葉の引渡し拒否、タバコの作付け放棄などの思い切った手法で発展した。
その中心となったのはタバコの生産と出荷に関るシーラーズ、タブリーズ、エスファハーン、マシュハド、テヘランといった都市部だった。特に反対運動に熱心だったのは、タバコを栽培農民から買い付け加工・販売に携わる商人、大規模栽培に当たる地主であった。反対がタバコ関連業者(タバコ産業に約20万人が従事していた)だけでなく、別の商工業者や喫煙者でもある民衆に広がったのは、地域社会の実情に通じ、金曜礼拝で人々の動静に敏感だったウラマーたちが結束して反対したからである。
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