河北新報は毎月1回、辺見庸氏のコラム「水の透視画法」を連載している。昨日の火曜13日は「年初の便り」と題し、氏に寄せられた新聞記者からのEメールが紹介されていた。この記者の心境も興味深いが、同時に新聞記者という人種がいかに庶民と乖離した価値観の存在であるのか、まざまざと浮かび上がる内容となっている。そのコラムを一部紹介したい。
-この正月、印象ぶかい便りがもうひとつあった。こちらは30代の新聞記者からのEメールで、赤さびのような疲労が文面にただよっていた。仕事をやめたいのだがやめられない。「暗やみに吸いこまれていくような孤独と虚無感」に日々おそわれている。つらいこと、疲れること、解決のむずかしいことを考えるのをうまく避け、自分に都合のよい相手とだけほどほどにつきあう毎日をおくっていたら「かつての理想がうそみたいにやせほそってしまった」という。社はこの不景気をしのぐために以前よりさらに権力や大企業、お茶の間になりふりかまわず媚をうり、大事な記事をへらしても広告を入れようとしているけれども、異議をとなえる気力は社内にも自身にもないとなげく。
知的障害があるとみられる容疑者でも写真撮影できるよう便宜をはかれと警察にもとめているのは、読者ではなくじつは記者たちであり、社内でさして議論にならない。自社のウェブサイトへのPV(アクセス量)が毎日、社内メールで流され、まるでPVを上げろと追いたてられているようだともいう。記者たちは社内でも社外でもまず「空気をよむ」のが本分のようになりつつあり、他者の苦しみをおもう「痛覚」が年々にぶっている…と恥じいる。「孤独の感情がつのり、このところ自分の存在を脅かすほどになってしまいました」「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められているのですね。ふと足もとをみると、会社もまた孤独の底なし沼です」―。
青年は年末休みに妻子をおいて夜間列車でひとり旅にでた。雪の北陸路をさまよいあるくうち、孤独からのがれるのではなく、これからはいっそ孤独をもっとふかめてみようとおもいたったという。晦日の夜に帰宅したら、産まれて間もないわが子が暗い寝床でじっと自分の小さな手にみいっていた。彼の心はその情景にふるえ「感覚が静かによみがえるのを感じて泣いた」のだそうだ。雪道、赤ちゃんの手、派遣村…が、私のまなうらでひとつらなりの絵になった。
この記者が何処の新聞社に勤めているのかは明記されていないが、年代を記されていなかったなら甘ったれ学生の慨嘆にしか思えない。独善と自己憐憫が滲み出る吐き気を催すような感傷には、全く不愉快だった。この記者殿、何度「孤独」の表現を使っているのか?孤独の言葉を並べ立てて、共感と同情を得たいのか?孤独を唱えれば、それが解消できるとでも?
そもそも、人間は双子や心中、被災のような例外を除き生まれる時も死ぬ時も孤独な生き物なのだ。「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められている」など、30代とは思えぬナイーブぶった一文。特に書くという作業は孤独なものである。新人記者でもあるまいし、「会社もまた孤独の底なし沼」とは噴飯させられた。
元から新聞記者を高尚な職業とでも思っていたのだろうか。件の記者がかつてどのような理想を抱いてこの職業に就いたのかは不明だが、新聞社もまた資本主義社会の巨大企業であるという認識が抜け落ちていたのではないか。広告がない限り成り立たぬ組織であり、権力や大企業、お茶の間に媚を売っていたのは昔から。企業ならば売上高に敏感になるのは当り前であり、「まるでPVを上げろと追いたてられているよう」と泣き言など言っていられない。これまで新聞社は社会の「空気をよむ」ことに鈍感でも構わず、新聞社の御威光で思うまま読者に訓示を垂れることが出来たが、時代の変化でそのツケが一気に来て、悲鳴を上げているのが伺えた。
「仕事をやめたいのだがやめられない」など、職を失った者からすれば贅沢極まる悩みだろう。この記者は元から辞める気などない、と私は憶測している。年収がいくらなのか不明にせよ、赤ん坊がいるのならとりあえず安定した収入のある職を捨てられるはずはない。むしろ、こんなやる気のない記者が新聞社に勤めていること自体、問題だと感じる。これほど恵まれた条件にある記者に、他者の苦しみを想う「痛覚」は端から薄いのではないか。いかに個人的なEメールでも、新年早々気の滅入る内容の己の愚痴ばかり。食べられるだけで有難いとの考えは頭にないのだろう。
辺見氏にメールした記者が悲嘆にくれているのは、新聞社を取り巻く社会環境の変化に対する怯えがあると、私は見ている。孤独など口実で、勤め先が潰れる不安に苛まされているのかもしれない。氏がこのメールを紹介したのも同業者のよしみもあり、記者とは痛感と理想を持つ気高い職業という、もはや色あせた虚像を何としてでも維持したい意図もあるのだろうか。孤独を深めたいと「孤独ゴッコ」に興じる者に、派遣村の人々など遠い世界の話なのだ。
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-この正月、印象ぶかい便りがもうひとつあった。こちらは30代の新聞記者からのEメールで、赤さびのような疲労が文面にただよっていた。仕事をやめたいのだがやめられない。「暗やみに吸いこまれていくような孤独と虚無感」に日々おそわれている。つらいこと、疲れること、解決のむずかしいことを考えるのをうまく避け、自分に都合のよい相手とだけほどほどにつきあう毎日をおくっていたら「かつての理想がうそみたいにやせほそってしまった」という。社はこの不景気をしのぐために以前よりさらに権力や大企業、お茶の間になりふりかまわず媚をうり、大事な記事をへらしても広告を入れようとしているけれども、異議をとなえる気力は社内にも自身にもないとなげく。
知的障害があるとみられる容疑者でも写真撮影できるよう便宜をはかれと警察にもとめているのは、読者ではなくじつは記者たちであり、社内でさして議論にならない。自社のウェブサイトへのPV(アクセス量)が毎日、社内メールで流され、まるでPVを上げろと追いたてられているようだともいう。記者たちは社内でも社外でもまず「空気をよむ」のが本分のようになりつつあり、他者の苦しみをおもう「痛覚」が年々にぶっている…と恥じいる。「孤独の感情がつのり、このところ自分の存在を脅かすほどになってしまいました」「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められているのですね。ふと足もとをみると、会社もまた孤独の底なし沼です」―。
青年は年末休みに妻子をおいて夜間列車でひとり旅にでた。雪の北陸路をさまよいあるくうち、孤独からのがれるのではなく、これからはいっそ孤独をもっとふかめてみようとおもいたったという。晦日の夜に帰宅したら、産まれて間もないわが子が暗い寝床でじっと自分の小さな手にみいっていた。彼の心はその情景にふるえ「感覚が静かによみがえるのを感じて泣いた」のだそうだ。雪道、赤ちゃんの手、派遣村…が、私のまなうらでひとつらなりの絵になった。
この記者が何処の新聞社に勤めているのかは明記されていないが、年代を記されていなかったなら甘ったれ学生の慨嘆にしか思えない。独善と自己憐憫が滲み出る吐き気を催すような感傷には、全く不愉快だった。この記者殿、何度「孤独」の表現を使っているのか?孤独の言葉を並べ立てて、共感と同情を得たいのか?孤独を唱えれば、それが解消できるとでも?
そもそも、人間は双子や心中、被災のような例外を除き生まれる時も死ぬ時も孤独な生き物なのだ。「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められている」など、30代とは思えぬナイーブぶった一文。特に書くという作業は孤独なものである。新人記者でもあるまいし、「会社もまた孤独の底なし沼」とは噴飯させられた。
元から新聞記者を高尚な職業とでも思っていたのだろうか。件の記者がかつてどのような理想を抱いてこの職業に就いたのかは不明だが、新聞社もまた資本主義社会の巨大企業であるという認識が抜け落ちていたのではないか。広告がない限り成り立たぬ組織であり、権力や大企業、お茶の間に媚を売っていたのは昔から。企業ならば売上高に敏感になるのは当り前であり、「まるでPVを上げろと追いたてられているよう」と泣き言など言っていられない。これまで新聞社は社会の「空気をよむ」ことに鈍感でも構わず、新聞社の御威光で思うまま読者に訓示を垂れることが出来たが、時代の変化でそのツケが一気に来て、悲鳴を上げているのが伺えた。
「仕事をやめたいのだがやめられない」など、職を失った者からすれば贅沢極まる悩みだろう。この記者は元から辞める気などない、と私は憶測している。年収がいくらなのか不明にせよ、赤ん坊がいるのならとりあえず安定した収入のある職を捨てられるはずはない。むしろ、こんなやる気のない記者が新聞社に勤めていること自体、問題だと感じる。これほど恵まれた条件にある記者に、他者の苦しみを想う「痛覚」は端から薄いのではないか。いかに個人的なEメールでも、新年早々気の滅入る内容の己の愚痴ばかり。食べられるだけで有難いとの考えは頭にないのだろう。
辺見氏にメールした記者が悲嘆にくれているのは、新聞社を取り巻く社会環境の変化に対する怯えがあると、私は見ている。孤独など口実で、勤め先が潰れる不安に苛まされているのかもしれない。氏がこのメールを紹介したのも同業者のよしみもあり、記者とは痛感と理想を持つ気高い職業という、もはや色あせた虚像を何としてでも維持したい意図もあるのだろうか。孤独を深めたいと「孤独ゴッコ」に興じる者に、派遣村の人々など遠い世界の話なのだ。
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日本の自称クオリティペーパー、朝日新聞も昨年は赤字を計上、その他全国紙も軒並み赤字。不況による企業の広告削減もあるにせよ、ネットの台頭で新聞を買わない若者も増え、それまでの信頼を失ったことも少なからず影響しているのかもしれませんね。それまではかなり楽してきたから、今更転職する技能もなく、将来、職を失うのに脅えているのやら。
第三者からすれば甘ったれた「愚痴」を紙面に載せるのも、「理想」を抱いていた記者を追い込んだ社会を暗に責めているようにも取れますね。「僕、孤独なの」を繰り返し、読者の共感と同情を得たいのでしょうが、それに応じるのは生活にかなりゆとりのある人だけ。
同感です。これまでは自分達は高い目線から「弱者の味方」として社会正義を訴えてきて、権力と闘い、それなりの評価を得てきたのに、なにやら社会の評価もニーズも変わってきてしまった…、立場が脅かされているような不安感があるのかもしれません。
それと、新聞社の給与はなかなかのものらしく(地方はどうかはわかりませんが)、理想とのギャップを悲嘆するのも結構ですが、今のご時勢、妻子を養っていけるのですから、有難いというものです。新聞記者同士だけで交わされるべき「愚痴」を紙面に載せるそのメンタリティはなんなんでしょうね。
仰るように、私も最近の国際状況では特に防衛に対する法改正は急務だと思います。
日本国内の憲法九条凶徒の殆どは反日近隣諸国の手先だと思いますが、この類が政府やマスコミに食い込んでいるので厄介です。そして、所謂“親米派”にも、憲法九条凶徒がいる可能性がある。武器を売りつけ、ATM状態にさせておくために。
バカの一つ覚えよろしく、「ドイツは過去を反省している」を唱える憲法九条凶徒ども、ネオナチのことはともかく、この国が兵器を量産、輸出していることは絶対言わない。ネットでも「護憲派アマゾネス」と気勢を上げている者がいますが、いざとなればこの女たち、どうなるのか分っているのやら。戦うアマゾネスどころか、「おかあさーん」とめそめそ泣き出すタイプだと私は見ています。男でも同じですが、ヘタレほど強がりを言いたがる。
軍事に全くのトーシローの私さえ、海上自衛隊の任務は合衆国の艦隊を守るためが第一だと見ています。自衛隊にそのような任務を与えるのが、利権にはダボハゼのように飛びつく政治屋。その点ではブンヤも同じです。
再び軍事について、面白いお話と見事な自論を提示されて頂き、大変有難うございました!
「軍人は国際政治が理解出来ない職業」などと書いていた某ブロガー氏がいます。この方、数年のアメリカ在住の他、欧州や中国にも住んだことがあり、国立大で教鞭を取っていたにも係らず、世間知らずの見本のような人物でしたね。いくら長く海外に住んでも、その国の実態が見えない人物がいますが、書いている内容を見れば皮相的な観察力しかないことなど分る。「論理より感じ方を」と言っているところに、日本の学者の度し難いレベルの低さを感じさせられました。
欧州の武器は米国より安いそうですが、イスラエルはどうなのでしょう?あの国の武器も優れていると伺っています(※ただ私が知っているのはウージー程度)。あとインドの兵器も悪くはないでしょうが、中国の目があるので日本政府は動けないかも。
陸自の無人飛行機開発は私も大いに納得させられました。人海戦をやれない日本としては、この兵器が望まれますが、未だ武器を造らず輸出(入)せずのような寝言を言っている平和団体には、心底腹が立ちます。
私も、我が国の防衛に対する法改正は、急務だと思います。
そして、「平和」の為ではなく、「奴隷・隷属」の為の憲法九条も、検討する余地があり過ぎるように思えます。
(戦後、60年以上経った現在ですが、未だに戦後の亡霊を引きずっている、自縄自縛の状態だと思います)
また、私もmugiさんの仰るように、自国を守る武器を、自分自身で作る事は重要だと思います。
そして、それはコストの問題だけでなく、兵器を作る技術という、目には見えないものこそ、重要だと思います。
(我が国の戦闘機は早急に更新すべきだと思います。
しかし、米国や欧州の戦闘機を購入するのが手近ですが、我が国の技術を持ってすれば、決して、作れないことはないと思います。
しかし、それは、反日近隣諸国だけでなく、米国自身も、「日米安保」で奴隷・隷属化の中、兵器を売り込めなくなるので、困るのでしょう)
特に、海上自衛隊の装備を見ると、自国を守る事よりも、合衆国の艦隊を守るための装備に、見えなくもないですが、、、。
合衆国の兵器体系に組み込まれている現実、また、万が一、合衆国から兵器が購入できない・実戦で見える事も念頭に入れた、ハト派、タカ派、といった単純なレッテルではない政治家が望まれるのですが、、、。
(ま、ある意味、現在の政治家は、自分の利益に敏い、フクロウなのかもしれませんが、、、。
また、我が国はいつしか、政治屋はいても、政治家というものはトキ以上に希少価値でしょうね)
小生も、本来ブルガリア専門家であって、軍事の専門家とは言えません。しかし、長年の経験から、国防とか、軍事の重要性は深く認識しているし、国際政治の裏側も見てきました。
軍事に関しては、80年代初頭ハワイで米国軍人ら(なかには、空軍の士官達が多く、対ソ連防衛の最前線で活躍している緊張感とか、ベトナム戦争時の空爆に参加した経験とかも聞けました)と仲良かったので、国防感覚ができあがりました。
高価な兵器としては、小生はやはり防空の視点から、自衛隊の戦闘機は更新していくべきと思うが、おそらくそのためには、欧州のユーロファイターあたりを買い付けるのが安上がりでよいと思う。何でも国産するのはかえって高価につくし、米国の最新戦闘機は、高価すぎてもったいないとおもう(しかも米国は技術移転をしない方針)。
他には、地上戦を想定して、陸自は無人飛行機を開発すべき。地上戦なら、プロペラ式の無人機で、ビデオの眼と機関銃を備えておけば十分で、歩兵は無人飛行機の操縦で戦えばよい。
ソマリア沖でも、そういう無人機で海賊達を威嚇し、撃退すべきでしょう。威嚇発砲ぐらいは、容認するように法整備もすべきですが。
こららこそ、コメントを有難うございます。
「いとまさ」さんへのコメントにも書いたとおり、軍事に私は全くの素人。マスコミに登場するのはやけに脅威を煽る者か、「戦争はダメ」と軍事議論を封殺しようとするタイプばかり目に付きますね。貴方の仰るように、「普通の理性に立脚した国防、軍事体制を構築していく」論議がなされていないのは、かなり問題です。
軍事素人の私でも理解できた貴方の記事はとても参考になりました。だからネットはいいですね。
私は高価な米国の武器を買うより、自前の武器を造れないのが不思議でなりません。脅威を煽る連中は米国の軍事産業の手下、「戦争はダメ」の平和主義者は反日国家の提灯持ちなのでしょうね。
軍事に関しては、やたらに脅威を煽る人、または逆に「戦争はダメ」と見当違いな発言で片付ける馬鹿者とに二分されるのが良くないと思う。そういう思いで、普通の理性に立脚した国防、軍事体制を構築していくべきと思う。
やたらに高価な兵器(ちっともあたらない防御ミサイルへの投資が一番馬鹿げている)にばかり投資するのは、真の国防につながらないし、米国の軍事産業に利益をもたらすだけと思う。
辺見氏が典型ですが、新聞に寄稿するジャーナリストを見ると大衆的目線から完全に離れ、別世界の住民との印象が濃いです。そのくせ、大衆の側に立つポーズだけは絶対に崩さない。若い記者はこれまで、「つらいこと、疲れること、解決のむずかしいことを考えるのをうまく避け、自分に都合のよい相手とだけほどほどにつきあう毎日をおくって」おり、それで食っていたのがブンヤなのです。
例の老女ボランティアを、辺見氏は以下のように論評していますが、醒めた視線は隠せない。
-世代、経歴、思想、立場をはねかえす個人の凛として<こころばえ>が、老いた彼女を派遣村に通わせているのだ、と。時に単純にもみえるこころばえのまえには、どんなに華麗で精緻な理想もしぼんでしまう…そう自分にいいきかせたことだ。
氏のような人物は活動家を記事で肴にし、持ち上げることはしても、自らは動かないタイプでしょう。人を煽り、操ることにこの上ない快感を覚えているのかもしれませんね。
ジャーナリストは大衆的目線を保たなければならないにもかかわらず、やはり取材相手が一般人ではなかなか知り合う機会のない高名な人々であると、自分もその一員であるかのごとき錯覚を覚えるのでしょう。
件の女性活動家も、結局アメリカなどから流れてきた、一過性のファッションでしかなかった学生運動というものの中に自分がいた過去のファッショナブルな栄光の余韻に浸っているだけでしょうね。
もちろん、座して年金を貰い、隠居を始めた輩よりは、いまも活動しているだけマシですがね。(笑)
まぁ、記者の書いたコラムなど、社会に貢献している活動家や、社会に抗いたいという気持ちがある同僚を肴にした、いわゆる知的インテリゲンツァのマスターベーションでしょうな。
どいつもこいつも、甘ったれておるとしか思えません。(笑)
もし、あなたが私のブログを見ていたのなら、これまでのエントリーで小泉の名など、全く出てなかったことを知っているはず。
小泉って、新聞をぶっ壊すと言ったのですか? 逆にメディアをあれだけ利用した日本の首相も珍しいのに、新聞批判イコール小泉支持者と見なされるようですね。
こちらからも正直に言わせていただきます。
あなたはハンドル名もない匿名の上、「それ以上は申せません」など、これまで権威の拠り所だった新聞を貶されたサヨクが憤慨、一言言わずにいられなさそうなコメントですね。もちろんあなたが新聞を信頼し、“孤独”な記者に同情するのはご自由です。
私は軍事は全くのオンチで、若いブロガーさんから度々教えられています(笑)。
地元の河北新報は、軍事記事はまず見かけないですね。「いつか来た道」に戻るため、読者には軍事を知らしめないようにしているのやら。「声の交差点」という読者コーナーには、「憲法9条を守れ」の類の投書がよく載ります。
軍事のことなら、むしろ新聞を見ない方がよいのかも。以前、私のブログにコメントされた「ブルガリア研究室」さんが、軍事について見事な記事を書かれています。
http://79909040.at.webry.info/200812/article_2.html
「派遣村」の胡散臭さはネットでよく見かけますね。↑のコメントにも書いたように村でボランティアをしている辺見氏の知人の女性は、安保運動をした人ですから。
私は『京都迷宮案内』を見たのはかなり前、しかも1、2回ほど見ただけです。いかにドラマといえ、「社会正義に殉ずる」を座右の銘にする記者が登場していたのですか!普通の神経なら気恥ずかしくなる台詞ですね。
辺見氏はコラムの前半でも、70代の女性の賀状も紹介、というより肴にしています。この女性は派遣村でボランティア活動を行っており、氏にも活動に参加せよ、と呼びかけてきたのです。女性の賀状を一部紹介しますが、これまた自己陶酔の極致でしょう。
-立ちっぱなしで1日目はヨロヨロ。けれど、だんだんつよくなりました。陽が落ちるととても寒いのですが、私は“お母さん”と呼ばれながら、まわりに教えられて仕事をしています…
件の女性は「殺された樺美智子さんらと60年安保を戦ったこと」があり、氏は彼女を讃えながら、明らかに揶揄も含まれている。昨年も辺見氏のコラムの一部を取り上げたことがありますが、彼は社会正義を振りかざし死刑制反対論をぶっていました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/dc6763864031d025171fb21fd7a45a9a
どこぞの超大国は新聞の売上が激減、記者が大量にリストラされたそうです。再販売制度に守られた日本の業界はまだ恵まれている。ただ、それもいつまで続くことやら。
今回は・・・
それ以上は申せません。
「派遣村」ですが、なんか私には胡散臭く感じられてしまうのです。
デモ行進の映像に「憲法9条」とか写ってました。
関係ないだろ!
私はすこし軍事に興味があるのですが、全国紙の軍事記事のレベルの低さには目を覆いたくものがありますね。
とくに読売と産経が酷い。
嘘、誇張、明確な間違いを平気で書いていたりします。
共産党機関紙の赤旗のほうがマシという体たらくです。
新聞記者にも軍事が好きな人はいると思うけど、そんな人は記事を書かせてもらえないのでしょうか。
現実には諸国民の公正と信義を信頼できないわけで、軍事はとても大事だと思うのですが。
好きなテレビ番組に『京都迷宮案内』というのがあり、タイトルの「社会…」とはあるエピソードで中村敦夫がゲスト出演した新聞記者の座右の銘でした。それを、主人公の橋爪功はひねくれ者なために煙たがる役だったんですが…
なんというか、mugiさんと同じように、この記事の記者は甘ったれた理想主義者の戯言にしか思えなかったのですが、そもそも「社会正義」というものを少なからず、新聞記者は信じているのだと思います。じとじと湿っぽくて、自己憐憫に浸りきり、友人に対して同情的な記事を書いている記者は、しかし、彼を上から見下しておるのでしょう。何より彼をネタに自分の記事を書いているのだから。友人をネタに使って、読者の同情を煽り、社会正義を新聞記者は、全うしたいだなどと陰で不満を漏らす。被害者気取りの詐欺師もいいとこです。(笑)
社会正義なんて、本当は欺瞞と真実の混合物でしかないのに。
あくまで、フィクションと実話との間には、大きな開きがあるのですが、現実がかくもフィクションめいた妄想に浸りきっているようでは、新聞はもう何も伝えられないと思えてなりません。
正義漢気取りの被害者意識はどこぞの超大国の姿に似てますなぁ。(笑)