その一の続き
中東オタクでトルコ贔屓の私には、ミッキーマックの書込みはツッコミ満載で格好のネタを提供してくれた。トルコでクルド人が政府から散々圧迫を受けてきたのは事実だし、基本姿勢は中共によるウイグル、チベット弾圧と変わりない。20世紀末まではクルド人は存在すら認めず“山岳トルコ人”と呼ばれ、トルコ人同政策が行われてきた。クルド語での放送・出版が公に解禁されたのは2004年なのだ。
イスラム諸国でウイグル族への迫害に気を揉んでいるのはトルコくらいであり、他の国々には見捨てられている。聖地メッカの守護者サウジも上得意の中国にはこの件で、「見ざる、聞かざる、言わざる」に徹している。ウイグルに言及したアラブ人はビン・ラディンくらいではないか?
そしてクルド人が政府から圧迫されているのはトルコだけでなく、イラク、イランも全く同じなのだ。古来からクルド人の住むクルディスタン(クルド人の地の意)は主にこれら三国に分割され、各国で二級市民扱いとなっている。それも山岳民族ゆえに近代民族主義の形成に遅れ、国民国家が持てなかった民族の悲劇である。
イラク、イランでもクルド人勢力は自治を掲げ武力闘争を展開したが、政府により情け容赦なく潰された。クルド人勢力も一枚岩どころか反目を続け、同胞意識よりも自分たちの利害を優先させることも少なくなく、部族間対立に発展することさえあった。それを見透かしイラン・イラク戦争時、両国は共に相手国のクルド人勢力をゲームの駒のように利用した。この戦争下、イラクでイランに協力したと見なされたクルド人市民に化学兵器が使われたハラブジャ事件など、欧米の関心も引かなかった。
トルコのクルド人も自治を掲げ激しい武力闘争を展開しており、チベット人の様な非暴力主義ではない。特にクルディスタン労働者党(PKK)は知られており、この組織の旧称はクルド人民会議(KONGRA-GEL)。“労働者”“人民”の名称通り「前身のクルド労働者党(PKK)は、マルクス・レーニン主義派のクルド人により1974年に創設された…トルコ国内ではPKK/KONGRA-GELのテロ行為によって2004年までに民間人30,000人以上が死亡したといわれている」(wikiより)。
ウイグル、チベットでの漢族民間人犠牲者は300人もいないはず。これだけでPKKは中東きってのテロ組織でもあり、1990年代初めは市街ゲリラ戦を布告したこともある。トルコ政府の圧迫を批判するミッキーマックだが、テロから自国を自衛するのは当然の処置なのだ。さらにPKKは民族主義だけでなく共産主義も掲げているため、伝統的なイスラム主義のクルド人組織とも衝突、抗争を重ね、クルド人からも多数の犠牲者が出た。当然同胞のクルド人の間にも不支持者を増やすことになった。
それでもトルコでのクルド人への対応はイラク、イランに比べればマシな方だと私は思う。トルコがこの二カ国よりも人道主義を重視しているためでなく、EUの世論を無視できないからだ。何かとトルコのクルド人問題を糾弾する欧州諸国だが、トルコ政府がクルド難民の追放をほのめかし、難民流入を恐れた欧州政府は急にダンマリとなったこともある。
キルクークが有名だが、クルド人の多く住むイラク北部には石油が豊富で、それを狙っていたのはトルコもイギリスも同じなのだ。イギリスも「アラブ反乱」と同じくクルド人を煽動・利用しており、ローザンヌ条約でクルド人の独立を反古にした。
第一次世界大戦の戦後処理でT.E.ロレンス(アラビアのロレンス)は、「クルド人地域のみトルコへの緩衝地帯として、イギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出している。しかし、この提案をロレンスの同僚で先輩にあたるガートルード・ベルは黙殺、彼女の主張で現代のイラク領土が画定された。
この時ロレンスの提案が受け入れられていたら、直轄領にせよクルド人国家が誕生したと思う。ただ、第二次世界大戦後となればイギリスも直接統治を続ける余裕はなく、引き上げたであろう。イギリスの撤退後はイラク、イラン、トルコの周辺諸国はクルドに侵攻、支配した可能性が極めて高い。
クルド人も第二次世界大戦後、初めて国家を持ったことがある。旧ソ連の後押しで出来たイラン北部のマハバード共和国がそれだが、ソ連軍の撤退後、1年もせぬうちにイランの侵攻により消滅した。
その三に続く
◆関連記事:「クルド問題-複雑化の背景」
「ガートルード・ベル-イラク建国に携わった女」
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シリアにもクルド人が存在しますね。そのシリア系クルド人(キリスト教系)で、ブルの混乱期に活躍した人物として、Fatik Shabanが有名です。以下に、このFatikと言う人物に関し、02--05年、小生がブルガリアに滞在していた頃の、ブル紙の報道をとりまとめたデータ・ファイルがあるので、ご紹介します。
1.名前、出生
Fatik Shaban=ブル語名はFilip Pavlov Naydenov (シリア名Fatik Tyurkmen Shaban、ファティック)、1963/07/07イスタンブール生まれ、03/08/19殺害された。
Fatikは78年(15歳)、車で少女を轢き殺し4年間服役し、82年出獄時にブル語名を取得した。Iliya Pavlovと子供の頃から友人として、義兄弟のように育ち、レスリングを共に学んでいたことから、Iliya Pavlov(MG財閥創始者、例の極妻Darina Pavlovaの夫)の父親の名前を貰ったという。
2.父親、及び父親の武器、麻薬密輸出業者としての活動
父親=Ismet Rashid Tyurkmen Shabanは、1941/04/01シリアのHomos町生まれクルド人、キリスト教徒だった。あだ名ではGolemiya Fatik、或いはStariya Shaban、と呼ばれた人物。 60年代初頭トルコに移住、この頃63年IstanbulでFatikが誕生。
その後60年代半ば、「ブ」に亡命。
ジフコフ時代にブル秘密警察(DS)が中東への武器、合成麻薬密輸に利用した人物。 父親は元来「ブ」共産党シンパとして、DSの中東諜報機関網設立に協力していたので、トルコの秘密機関に逮捕されないようにDSが身柄を引き取った(政治亡命、「ブ」市民権付与)と言われる。
その後「ブ」国内で父親はDS系のKinteks社(武器、麻薬を扱ったDS傘下の商社)に協力して中東への密輸網を樹立した。父親は、ジフコフ家に直接外貨を献金していたと言われる。
3.自由化直後の父親の活動
「変革」後、父親は、「ブ」銀行から特別に5千万ドル相当の融資(4.8億Lv)を得て、Sunimeksというガチョウ養鳥農場(フォア・グラ製造のため)を設立した。Yambol商業銀行、Bobovdol銀行は、ディミータル・ポポフ(Dimitqr Popov)首相の命令で同社に融資したが、返済が無く倒産の憂き目を見た。94年Sunimeks社も倒産。なお、同社の債権は、露・ユダヤ・マフィアのマイケル・チョールニ(Maykql Chorni)が買い取ったという。
4.自由化後のFatikの活動、人脈
Fatik Shabanは、「ブ」社会の多くのマフィア(VIS組、SIK組を含む)、麻薬商人らの全てと交流があり、麻薬取引にも関与(トルコからヘロインを密輸入)していたが、特に自らは「窃盗車密輸業者(ナポリのマフィアと提携)」として、自由化直後からこれらのマフィア組織の親分達に、西欧から窃盗してきた高級車を供給して儲けた。
民営化で落札して、Park hotel Moskvaのオーナーにもなった。このホテル内に、現在のブル首相、ボイコ・ボリーソフが、90年代初頭事務所を保有していたこと、この頃ボは、SIK組系の親分の一人と見られていたこと、も知られている。
DSのタバコ密輸組織を継承した、タバコ密輸王のDoktora*も、初期にはFatik家の援助を得て、ビジネスを開始できた由(その後はShaban家と競合関係となったが)。
注*:Ivan Todorov -Doktora:1964年Dimitrovgrad町生まれ。タバコ密輸業を旧DSから、ノウハウと共に引き継ぎ、政治献金で政界とも癒着したSIK組系の親分。
FatikはMG財閥のIliya Pavlov(03/03殺害され、故人)と少年時代からの友達。「変革」後二人は、同じように窃盗車の販売業を開始。FatikはBoris公園内に高級車販売店を所有。また、Emil Dimitrov -Makaronaとともに海賊版CD販売業(Unison records)も開始。95年がMakaronaのビジネス最盛期。96年には、FatikはPoli Pantev(ソフィアの麻薬王、SIK組長)ともつるみ始めた。
仰る通りシリアにもクルド人がおり、多くはアラブ人よりも貧しい暮らしをしているそうです。冷戦時代のPKKの主な支援国は旧ソ連でしたが、他にギリシアやシリア、イランもあり、サダム・フセイン時代のイラクも資金援助していたそうです。現代はイラク北部のクルド人地域の他、アルメニア、シリアと見られているとか。さらに資金源の大半は麻薬取引のようです。
中東も隣国は不仲ですが、シリアとトルコは以前から険悪な関係です。チグリス・ユーフラテス川の水源は全てトルコにあり、共にトルコ東部、つまりクルド人が多い地帯なのです。上流を押さえられると、下流の国は立場は弱い。ダム建設をめぐっても、トルコとシリアは対立したことがありました。
さて紹介されたシリア系クルド人、相当なワルですね。ムスリムではなくキリスト教徒というのも異色ですが、名前に Tyurkmen があっても、クルド人だったとは。シリアにはキリスト教徒も結構多いそうですが、Fatikの父がトルコに移住したのも、何か悪事を働いていた?
ジフコフ時代、ブルでは秘密警察(DS)が中東への武器、合成麻薬密輸まで行っていたというのも驚きました。これも外貨稼ぎでしょうけど、シリア系クルド人を使うという所はさすがです。
Fatikは03/08/19殺害されたそうですね。少年時代からの親友Iliya Pavlovの死からわずか五か月後。享年40歳までに、どれだけブルの裏社会で暗躍したのやら。時にナポリのマフィアと提携したり、バルカンのマフィアも凄まじい。
Fatik父親が、トルコ滞在中にしていたことは、上記記述にあるように、ブルDSに協力して、中東地域におけるクルド人の人脈を駆使した、DS諜報網を築き上げることらしい。
やがて、トルコの諜報機関に活動がばれ始め、DSがShaban家の安全保障のために、身柄を引き取り、ブル国籍を与えた、ということ。
Shaban家は、クルド人諜報網を、合成麻薬、武器を中東地域に密輸出する経路としても使用して、ブル国に外貨収入をもたらすと同時に、自分たちも外貨収入を得て、これら収入の一部をベイルートの銀行口座などに隠匿していたと思う。
また、Fatikの妹は、グルジア・マフィアの大物と結婚して、窃盗車のロシアなどへの転売をさせていた模様。Dmitriy Yurievich Tshondiya Gamsahuriyaは、Fatik妹のMeltem Tyurkmenと結婚して、ブル語名としてDeniz Tyurkmenを名乗り、セルビア・マフィアとも提携したらしい。Denizは、グルジアのシェヴァルナッゼ大統領とも組んでいたらしい。
ともかく、混乱期において、迅速に商売を展開できるだけの、ある程度の外貨蓄積と、人脈を持っていたのは、ロシアのKGBとか、ブルのDS、元警官などの「旧支配組織の下級将校達」で、自由化とは、結局旧警察、秘密警察などの下級将校達が、共産党のお偉いさん達という「命令する階級」から解放され、今度は自分たちが主役として、非合法な商売を牛耳って、新たにマフィア系支配者として、社会の上層部にのし上がった、ということ。
しかし、ある程度社会が落ち着き始めた03年頃になると、誰が後ろで糸を引いたのか、Iliya Pavlov、Fatik Shabanという、混乱期の主役達が、相次いで闇からのスナイパーによって、暗殺されてしまいました。
これで、混乱期の汚すぎる「大儲け」の証拠を握り、将来も強請る可能性のある、裏世界の大物が排除され、表世界で大手をふるえるようになったのが・・・・もしかすると、ボリーソフ現首相??いや、他にも、この両名に消えて欲しかった対抗馬のマフィア達は多かったはずですから、誰が犯人かは、永遠に分からないでしょう。
そもそも、Pavlov、Fatikともに、裏社会の中では敵が少ない、好かれる人柄であったようなので、誰から恨まれたのか不思議です。
成る程、クルド人でもFatik父親はキリスト教系なので、トルコと敵対するブルに協力してDS諜報網を築こうとしたのでしょうか。ムスリム系クルド人ならば、イラク、イラン、シリア等の諜報機関と協力していたかもしれません。中東やバルカンの諜報網も複雑な背景があるようです。
そしてFatikの妹は、グルジア・マフィアの大物と結婚したのですか!夫は妻の姓を名乗り、セルビア・マフィアとも提携したとは…
グルジアのシェヴァルナッゼ大統領といえば、ゴルバチョフの外相をしていたこともありましたよね?シェヴァルナッゼは欧米のメディアに評判がよく、数か月前だったか、河北新報にもチェルノブイリ原発事件のことでコラムが載っていました。コラムの意見は全くの正論でしたが、マファアの大物とも繋がりがありましたか。
何度か室長さんの記事やコメントにも、ブルの元秘密警察がマフィア起業家に転身したお話がありました。腕っぷしの強い体育会系の下級将校達が混乱期の社会を牛耳り、ビジネスマンとして成功したというケースを。海外在住体験のない私には、ブルの裏社会のことはやはり理解が難しいです。
裏社会で敵が少ない、好かれたボスたちも、社会が落ち着き始めたら暗殺されたというのも、闇が深そうですね。犯罪小説顔負けの裏社会の事情は、やはり一般市民には謎ばかりです。