古代ローマを代表する歴史家タキトゥスは、岳父についての伝記を遺している。『アグリコラ』と題する著で、題名どおり属州ブリタンニア(現イギリス)総督だった岳父アグリコラの業績について記しており、舅の統治を述べた箇所は近代から現代にも通じる帝国・覇権主義、南北問題を思わせ、興味深いものがある。その部分を紹介したい。
-休戦期である冬の間を、アグリコラは有効な政策の実施に当てた。それは個々に別れた集落で野蛮な生活を営むがゆえに戦闘性を失わないブリタニア人を、平和で穏やかで文明的な生活に馴じませるために成された施策であった。神殿やフォルム(集会広場)や石造の家屋を建てるのを、私的にも公的にも奨励した。進んでそれをやる人々には褒章を与え、怠けている者は叱責したので、彼らの間でも競争となり、総督が強制する必要もなくなった。
さらにアグリコラは、部族長の息子達には「アルテス・リベラーレス/教養を高めるための必要学科」(英語ではリベラル・アーツ)を学ばせた。そして親達には、ガリア人の熱意よりもブリタニア人の資質のほうが上だ、と言っておだてたりした。その結果、それまではラテン語を拒否していた者までが、ラテン語の洗練された言い回しを使って話すことを熱望するようになったのである。そのうえアグリコラはブリタニア人に、トーガを着用するとより立派に見えるとまで言って、ローマ人の服装を彼らにも勧めた。
こうして少しずつブリタニア人は、本来の彼らの生活様式を忘れ、ローマ式の回廊や浴場や、ローマ式の食事の仕方のほうに魅了されていったのである。無知な彼らはそれを文明化と呼んで嬉しがったが、彼ら自身の奴隷化の証明に過ぎなかったのである…
近代帝国主義の先進的国家こそ大英帝国だが、彼ら自身は古代ローマに支配された歴史から、そのノウハウを学んだのであろうか。その統治方は同じアングロ・サクソン国家である現代の超大国にも引き継がれたとしか思えない。ただ、ローマの属州だった頃のブリタニア原住民はケルト系のブリトン人であり、409年、ローマ帝国のブリタニア放棄後、大陸から侵攻したアングロ・サクソンがこの島の支配民族となった。ローマ文明に組み込まれたブリトン人に対し、侵攻時のアングロ・サクソンは蛮族そのものだったが、現代のイギリス知識人は大陸のドイツ人をローマ文明されなかったという理由で、侮蔑しているそうだ。
『ローマ人の物語』(新潮社)の著者・塩野七生氏は、タキトゥスの意見をローマの立場に立って反論されている。ローマ人のやることだから、神殿や列柱回廊、会堂(バシリカ)、劇場、浴場のみならず、現代のイギリスにある数多くの遺跡が示すとおり、街道も上下水道も敷設した。しかも、庭園好きのイギリス人が栽培する花の多くも、元はローマ人の持ち込んだものであり、英語の40%はラテン語に起源を持つ。チャーチルに至っては、大英帝国の歴史はカエサルがドーヴァー海峡を渡った時から始まる、と書いている。
このような英国人をタキトゥスが知ったら、何と言うであろう。ローマによるブリタニアの奴隷化政策もずいぶん成功したものだと、皮肉な感想でも述べるだろうか、と。
そして、塩野氏はローマ人がブリタニアに及ぼした「文明の恩恵」について説明する。ローマ式の平坦で直線に続く街道を見れば、ブリタニア人は以前より多くの荷を少ない労働力で運べることを知っただろう。広い屋根付きの会堂の中ならば、イギリスに多い雨の日でも人々も会い離す楽しみも覚えたはず。入浴の習慣は防疫にも役立ち、水道のお陰で遠方の泉水まで水汲みに行かずとも済むようになり、論理的に話し合えば、殴り合いに発展することも少なくなると知ったであろう。タキトゥスも言うように、天も地も水気の多いブリタニアだが、気温はさして厳しくはない。ローマ式の短衣でも長衣(トーガ)でも、寒さに震える日は少なかったに違いない。
キリスト教徒ということもあり、とかく欧米人史家はローマ帝国に辛口になりがちだが、塩野氏の意見には成る程と感心させられた。ローマの属領となって以降、ブリタニアの生活水準が向上したのは確かだろう。ローマ式の衣装をまとうことにしても、西欧のファッションが似合う似合わないはともかく、日本も含め第三世界を席巻している現代からも、風俗さえもその時代の強国の影響を受けるのは古代から変わりないのを痛感させられる。
私はローマ属領時代のイギリスの歴史について、教科書と塩野氏の著書以上の知識はないが、英国全土に亘りローマ文明が普及したのではなく、それは都市部中心であり、その範囲も極めて限定されていたとする研究者もいることをネットで見たことがある。
その②に続く
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-休戦期である冬の間を、アグリコラは有効な政策の実施に当てた。それは個々に別れた集落で野蛮な生活を営むがゆえに戦闘性を失わないブリタニア人を、平和で穏やかで文明的な生活に馴じませるために成された施策であった。神殿やフォルム(集会広場)や石造の家屋を建てるのを、私的にも公的にも奨励した。進んでそれをやる人々には褒章を与え、怠けている者は叱責したので、彼らの間でも競争となり、総督が強制する必要もなくなった。
さらにアグリコラは、部族長の息子達には「アルテス・リベラーレス/教養を高めるための必要学科」(英語ではリベラル・アーツ)を学ばせた。そして親達には、ガリア人の熱意よりもブリタニア人の資質のほうが上だ、と言っておだてたりした。その結果、それまではラテン語を拒否していた者までが、ラテン語の洗練された言い回しを使って話すことを熱望するようになったのである。そのうえアグリコラはブリタニア人に、トーガを着用するとより立派に見えるとまで言って、ローマ人の服装を彼らにも勧めた。
こうして少しずつブリタニア人は、本来の彼らの生活様式を忘れ、ローマ式の回廊や浴場や、ローマ式の食事の仕方のほうに魅了されていったのである。無知な彼らはそれを文明化と呼んで嬉しがったが、彼ら自身の奴隷化の証明に過ぎなかったのである…
近代帝国主義の先進的国家こそ大英帝国だが、彼ら自身は古代ローマに支配された歴史から、そのノウハウを学んだのであろうか。その統治方は同じアングロ・サクソン国家である現代の超大国にも引き継がれたとしか思えない。ただ、ローマの属州だった頃のブリタニア原住民はケルト系のブリトン人であり、409年、ローマ帝国のブリタニア放棄後、大陸から侵攻したアングロ・サクソンがこの島の支配民族となった。ローマ文明に組み込まれたブリトン人に対し、侵攻時のアングロ・サクソンは蛮族そのものだったが、現代のイギリス知識人は大陸のドイツ人をローマ文明されなかったという理由で、侮蔑しているそうだ。
『ローマ人の物語』(新潮社)の著者・塩野七生氏は、タキトゥスの意見をローマの立場に立って反論されている。ローマ人のやることだから、神殿や列柱回廊、会堂(バシリカ)、劇場、浴場のみならず、現代のイギリスにある数多くの遺跡が示すとおり、街道も上下水道も敷設した。しかも、庭園好きのイギリス人が栽培する花の多くも、元はローマ人の持ち込んだものであり、英語の40%はラテン語に起源を持つ。チャーチルに至っては、大英帝国の歴史はカエサルがドーヴァー海峡を渡った時から始まる、と書いている。
このような英国人をタキトゥスが知ったら、何と言うであろう。ローマによるブリタニアの奴隷化政策もずいぶん成功したものだと、皮肉な感想でも述べるだろうか、と。
そして、塩野氏はローマ人がブリタニアに及ぼした「文明の恩恵」について説明する。ローマ式の平坦で直線に続く街道を見れば、ブリタニア人は以前より多くの荷を少ない労働力で運べることを知っただろう。広い屋根付きの会堂の中ならば、イギリスに多い雨の日でも人々も会い離す楽しみも覚えたはず。入浴の習慣は防疫にも役立ち、水道のお陰で遠方の泉水まで水汲みに行かずとも済むようになり、論理的に話し合えば、殴り合いに発展することも少なくなると知ったであろう。タキトゥスも言うように、天も地も水気の多いブリタニアだが、気温はさして厳しくはない。ローマ式の短衣でも長衣(トーガ)でも、寒さに震える日は少なかったに違いない。
キリスト教徒ということもあり、とかく欧米人史家はローマ帝国に辛口になりがちだが、塩野氏の意見には成る程と感心させられた。ローマの属領となって以降、ブリタニアの生活水準が向上したのは確かだろう。ローマ式の衣装をまとうことにしても、西欧のファッションが似合う似合わないはともかく、日本も含め第三世界を席巻している現代からも、風俗さえもその時代の強国の影響を受けるのは古代から変わりないのを痛感させられる。
私はローマ属領時代のイギリスの歴史について、教科書と塩野氏の著書以上の知識はないが、英国全土に亘りローマ文明が普及したのではなく、それは都市部中心であり、その範囲も極めて限定されていたとする研究者もいることをネットで見たことがある。
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