西欧人の海賊に比べれば日本で馴染みは薄いが、イスラム圏にも有名な海賊がいる。海賊や海戦史に疎い私でもオスマン・トルコの海賊ウルグ・アリの名を知ったのは塩野七生氏の本を読んだからだ。ただ、彼はトルコ人でもアラブ人でもなく、元はキリスト教徒のイタリア人だった。
ウルグ・アリの元の名はジョヴァン・ディオジニ・ガレーニ、1520年、南イタリアのカラーブリア地方の小さな漁村カステッラに漁師の子として生まれた。だが、父の手伝いをしながら彼が16歳になった年、故郷の村がトルコ海賊に襲われる。父はその時殺され、彼は他の若い男女たち同様囚われ、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)に連行される。奴隷市場に売り出されたジョヴァンを買ったのが、海賊船の船長ジャファだった。ジャファは自分の所有するガレー船の1隻の漕ぎ手にするために彼を買ったのだ。
海賊船の漕ぎ手の奴隷は両足首に重い鎖を付けられ、鎖の端は漕ぐ時に座る木の台に固定され、上半身は裸だった。少しでも手を休めれば鞭が飛ぶ。そんな境遇でジョヴァンが必死に漕ぐだけの生活が2年間続く。だが、この間船が難破しそうになったり嵐に出会ったりするたびに、船長ジャファは若い奴隷が並みの人物でないのに気付き始めた。ジョヴァンは漕ぎ手から舵手に昇進し、この役目も立派にこなしたので、主人から一段と信頼される存在となる。
ジョヴァンが20歳になった年、主人のジャファは自分の娘と結婚し、イスラムに改宗して奴隷の境遇を捨てて、自分の片腕となる気はないか、と訪ねた。この申し出にジョヴァンは少し迷った後、キリスト教を捨てる気になれないと答えた。
しかし、ジョヴァンがキリスト教を棄教するのはそれからほぼ1年後だった。彼への主人の厚情を妬んだ奴隷仲間が、彼を殺害しようとするが、ジョヴァンはその男を返す短刀で刺してしまう。正当防衛だが、トルコ領内では非ムスリムが人を殺した場合、理由はどうあれ死刑と決まっている。逆にムスリムが異教徒を殺害してもお咎めなしであり、せいぜいはした金の賠償金を払うのが関の山だった。トルコに限らず、他のイスラム圏も事情はほぼ同じである。ジョヴァンも死にたくなければ、先に主人の提示した条件を飲むより他なかった。彼はついにイスラムに改宗し、名前もウルグ・アリに変える。
それ以降のウルグ・アリは海賊として頭角を現す。海賊にさらわれた元キリスト教徒の奴隷は、海賊として西欧の漁村を荒らしまわる海賊になったのだ。彼が34歳の時、スペインのガレー船を襲撃するが、その船には高名なカタロニアの武将ロザーダが乗っていた。ロザーダはアリとの一騎打ちに敗れ捕虜になり、多額の身代金を支払ってやっと解放される。この事件は彼の名は一気に西欧諸国に知らしめた。もちろん背教者、キリストの敵である。イスラムは現代もそうだが、当時のキリスト教圏でも背教者には死なのだ。
トルコ皇帝もアリの目覚しい戦歴を重視し、彼を海軍の要職に就けるようになる。アレキサンドリア港守備司令官、トリポリの太守を経て、アリが49歳になった年、アルジェリアの太守に昇進する。トルコ人でもない改宗者としては、異例の出世だった。
1571年、海戦史上名高いレパントの海戦の時、アリは提督としてオスマン海軍の左翼を率い参戦する。この戦いでトルコは総司令官アリ=パシャも戦死し、戦死者3万を出すという敗戦の中で、唯一人善戦したのがウルグ・アリ。彼は残った艦隊を率い、コンスタンティノポリスまでの退却に成功する。帰還した彼をトルコ皇帝は大提督(カブタン=パシャ)に任命した。オスマン海軍の頂点に立ったのだ。
大提督になったアリはレパントの海戦で壊滅したトルコ海軍の再建に力を注ぎ、4年後には元どおりの戦力に戻した。彼はあの海戦から16年後に生涯を終えるが、彼の没後、大提督まで上り詰める海賊はついに現れなかったという。
生涯の最後までトルコに忠実だったアリだが、南イタリアには面白い伝説がある。高貴なイタリア婦人に愛を打ち明けられ、その婦人の腕の中でキリスト教徒に戻って死んだ、と。もちろん後世に作られた物語だが、果たして元キリスト教徒の大提督が死を迎えた時、どんな思いが胸に去来したのだろう。
■参考:「レパントの海戦」「愛の年代記」塩野七生著
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ウルグ・アリの元の名はジョヴァン・ディオジニ・ガレーニ、1520年、南イタリアのカラーブリア地方の小さな漁村カステッラに漁師の子として生まれた。だが、父の手伝いをしながら彼が16歳になった年、故郷の村がトルコ海賊に襲われる。父はその時殺され、彼は他の若い男女たち同様囚われ、コンスタンティノポリス(現イスタンブール)に連行される。奴隷市場に売り出されたジョヴァンを買ったのが、海賊船の船長ジャファだった。ジャファは自分の所有するガレー船の1隻の漕ぎ手にするために彼を買ったのだ。
海賊船の漕ぎ手の奴隷は両足首に重い鎖を付けられ、鎖の端は漕ぐ時に座る木の台に固定され、上半身は裸だった。少しでも手を休めれば鞭が飛ぶ。そんな境遇でジョヴァンが必死に漕ぐだけの生活が2年間続く。だが、この間船が難破しそうになったり嵐に出会ったりするたびに、船長ジャファは若い奴隷が並みの人物でないのに気付き始めた。ジョヴァンは漕ぎ手から舵手に昇進し、この役目も立派にこなしたので、主人から一段と信頼される存在となる。
ジョヴァンが20歳になった年、主人のジャファは自分の娘と結婚し、イスラムに改宗して奴隷の境遇を捨てて、自分の片腕となる気はないか、と訪ねた。この申し出にジョヴァンは少し迷った後、キリスト教を捨てる気になれないと答えた。
しかし、ジョヴァンがキリスト教を棄教するのはそれからほぼ1年後だった。彼への主人の厚情を妬んだ奴隷仲間が、彼を殺害しようとするが、ジョヴァンはその男を返す短刀で刺してしまう。正当防衛だが、トルコ領内では非ムスリムが人を殺した場合、理由はどうあれ死刑と決まっている。逆にムスリムが異教徒を殺害してもお咎めなしであり、せいぜいはした金の賠償金を払うのが関の山だった。トルコに限らず、他のイスラム圏も事情はほぼ同じである。ジョヴァンも死にたくなければ、先に主人の提示した条件を飲むより他なかった。彼はついにイスラムに改宗し、名前もウルグ・アリに変える。
それ以降のウルグ・アリは海賊として頭角を現す。海賊にさらわれた元キリスト教徒の奴隷は、海賊として西欧の漁村を荒らしまわる海賊になったのだ。彼が34歳の時、スペインのガレー船を襲撃するが、その船には高名なカタロニアの武将ロザーダが乗っていた。ロザーダはアリとの一騎打ちに敗れ捕虜になり、多額の身代金を支払ってやっと解放される。この事件は彼の名は一気に西欧諸国に知らしめた。もちろん背教者、キリストの敵である。イスラムは現代もそうだが、当時のキリスト教圏でも背教者には死なのだ。
トルコ皇帝もアリの目覚しい戦歴を重視し、彼を海軍の要職に就けるようになる。アレキサンドリア港守備司令官、トリポリの太守を経て、アリが49歳になった年、アルジェリアの太守に昇進する。トルコ人でもない改宗者としては、異例の出世だった。
1571年、海戦史上名高いレパントの海戦の時、アリは提督としてオスマン海軍の左翼を率い参戦する。この戦いでトルコは総司令官アリ=パシャも戦死し、戦死者3万を出すという敗戦の中で、唯一人善戦したのがウルグ・アリ。彼は残った艦隊を率い、コンスタンティノポリスまでの退却に成功する。帰還した彼をトルコ皇帝は大提督(カブタン=パシャ)に任命した。オスマン海軍の頂点に立ったのだ。
大提督になったアリはレパントの海戦で壊滅したトルコ海軍の再建に力を注ぎ、4年後には元どおりの戦力に戻した。彼はあの海戦から16年後に生涯を終えるが、彼の没後、大提督まで上り詰める海賊はついに現れなかったという。
生涯の最後までトルコに忠実だったアリだが、南イタリアには面白い伝説がある。高貴なイタリア婦人に愛を打ち明けられ、その婦人の腕の中でキリスト教徒に戻って死んだ、と。もちろん後世に作られた物語だが、果たして元キリスト教徒の大提督が死を迎えた時、どんな思いが胸に去来したのだろう。
■参考:「レパントの海戦」「愛の年代記」塩野七生著
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↓のシー・シェパードの件も個人的には偽善丸出しだなあと怒っております。
また来ますね。
拙ブログにコメントをありがとうございました!
私も「依存症の独り言」さんを面白く拝見してますし、時々コメントもしますが、ライブ8の裏話の件ですよね?
私もネットをしてなければ、あのイベントの裏など分からなかったでしょう。まさに「世界は腹黒い」。
私はイギリスに行ったこともありませんが、生来へそ曲がりのためか、子供の頃から欧米はあまり関心がなかったのです。
プロフィールにも書きましたが、もっぱら東洋史、それもインド、中東というマイナーな地域に関心があり、イギリスの植民地支配を調べると実に面白いですよ。欧米人は基本的に19世紀から思考は変わってないのではないかと思います。
シー・シェパードのような暴力団体を「環境保護団体」と紹介するマスコミも、どうかしてますね。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い致します。
これからも宜しくお願いします。
こちらこそ、再びのコメントをありがとうございました。
欧米人というよりキリスト教徒は、異教徒との調和精神を欠いているのは十字軍時代から進歩してないのでは?と思うこともあります。やはり一神教なので、異教徒の価値観を認めないのですね。他の宗教を認めたら、一神教ではありませんから。
ただし、これは欧米人に限らず、ユダヤ、イスラム教徒も基本的に全く変わりありません。「聖戦」思想があるから始末が悪い。