有名な海賊で思い浮かべる人物は?と問われたら、大ヒットしたハリウッド超大作の影響で、ジャック・スパロウと答える人もいるかもしれない。実在の海賊ならば、私は英国海賊キャプテン・ドレークが真っ先に頭に浮かぶ。
海賊や海戦史に詳しくなくとも、英国女王から爵位を与えられた海賊としてキャプテン・ドレークは有名だ。大胆かつ命知らずの海賊であり、スペインの無敵艦隊を破り祖国を救った英雄…彼のイメージはこのようなものだろう。
キャプテン・ドレークことフランシス・ドレークの生年はハッキリしていない。1543年頃の生まれが有力視されているが、これも確証はない。英国南西部デ ボン州で誕生したのは確かのようだ。父も若い頃農村を出て船員となり、西欧の諸港を巡ったという。父は旅先で見たプロテスタントに影響され、帰農後も熱烈 な信徒になったが、その血は息子に受け継がれる。
ドレークの両親は彼を頭に12人の子を成したという。苦しい家計を助けるため、ドレークも十歳を過ぎた頃から、近所に住む老船長の持つ小さな帆船で下働きをしていた。この時代、十歳で船に乗るのは決して珍しいことではない。後のネルソン提督も軍艦に乗ったのは12歳の時だった。第三世界の児童労働を槍玉に挙げたがるイギリスも、かつては児童労働が盛んだったのだ。
16 世紀後半の英国とスペインの争いには、プロテスタントとカトリックという宗教対立も絡んでいる。当時の英国海峡だけでもカトリック教徒の船を狙う海賊船が 約4百隻も横行、1563年だけでも7百隻近くの船が襲われている。海賊のほとんどが英国とフランスの新教徒だった。戦闘で片足を失い、木製の義足を付け ていた「一本足のジャック」の姓はもちろんスパロウではなく、ル・クラーク、フランス人船長だ。
だが、英国船員全てが海賊行為に打ち込んでいた訳ではない。むしろスペインやポルトガルの広大な植民地から産出される財宝から、貿易によって少しでも多くの利益を獲得しようと考える船乗りの方が多かった。その代表的な人物がジョン・ホーキンズであり、彼の一族はアフリカにも航海して象牙や黄金で巨万の富を築いたが、ホーキンズはさらに奴隷貿易を始める。
ホーキンズは何度かの航海で顔なじみになった黒人の酋長を利用し、奴隷を集めた。アフリカでは部族の中の犯罪者、戦争の捕虜を奴隷とし、時には生贄に奉げ たので、奴隷が高く売れるようになると、酋長は私腹を肥やすため他部族を襲う奴隷狩りを積極的に協力したという。集められた黒人奴隷は新大陸に売られ、 19世紀まで続くビジネスとなる。
ドレークの本格的な初航海はこのホーキンズ船団の一員となったことで始まった。当時の商船が武装して いるのは当然であり、ドレークの一行もカリブ海でスペインとの戦闘も交えながら(パイレーツ・オブ・カリビアン!)、運んできた“積荷”も売りさばいて、 帰路はかなり苦労したにせよ純益だけで1万3千5百ポンドを越えたほど。
無事に祖国に帰れたドレークやホーキンズと違い、スペインの植民地に 残った英国人は悲惨である。宗教裁判にかけられ、拷問を受け、火刑にされずとも、百~3百回の鞭打ち刑の果てにガレー船の漕ぎ手として苦役を科せられた。 漕ぎ手は事実上奴隷と変わらず、スペイン本国での裁判後、ガレー船漕ぎ手にされた英国船員240人の内、9か月後に190人が死亡した例もある。
その後のドレークの活躍はよく知られている。ゴールデン・ハインド(金の雌鹿)号でのマゼランに次ぐ世界一周航海、無敵艦隊との戦い、その後も続く航海。世界一周もただ航海していただけでなく、スペイン船への襲撃もかなり行い、暗礁に出くわしたり、反乱を鎮圧しながらだった。彼が無事に祖国に帰還した翌年1581年、ナイトに叙任される。
キャプテン・ドレークの名に相応しく、1596年1月28日カリブ海の洋上で息を引き取る。彼の遺体は水葬にされた。
ドレークの時代は私掠船が認められていた。私掠船とは敵船の船を襲撃し掠奪することを認める「私掠特許状」を国王から与えられた商船を指す。いわば、国家公認の海賊である。英国ではエリザベス1世の 治世が私掠船の全盛期だったといわれている。女王はドレークをはじめとする私掠船船長たちの活躍で国家の収入を増やしたところから、海賊女王と呼ばれるこ とになるが、私掠船を存分に駆使したのはフランスやオランダも大同小異だった。ただ、ドレークに代表される英国私掠船の活躍があまりにも目立ちすぎたこと から、英国が海賊国家の名称を頂くことになる。
■参考:「海賊キャプテン・ドレーク」中公新書、杉浦昭典 著
よろしかったら、クリックお願いします
海賊や海戦史に詳しくなくとも、英国女王から爵位を与えられた海賊としてキャプテン・ドレークは有名だ。大胆かつ命知らずの海賊であり、スペインの無敵艦隊を破り祖国を救った英雄…彼のイメージはこのようなものだろう。
キャプテン・ドレークことフランシス・ドレークの生年はハッキリしていない。1543年頃の生まれが有力視されているが、これも確証はない。英国南西部デ ボン州で誕生したのは確かのようだ。父も若い頃農村を出て船員となり、西欧の諸港を巡ったという。父は旅先で見たプロテスタントに影響され、帰農後も熱烈 な信徒になったが、その血は息子に受け継がれる。
ドレークの両親は彼を頭に12人の子を成したという。苦しい家計を助けるため、ドレークも十歳を過ぎた頃から、近所に住む老船長の持つ小さな帆船で下働きをしていた。この時代、十歳で船に乗るのは決して珍しいことではない。後のネルソン提督も軍艦に乗ったのは12歳の時だった。第三世界の児童労働を槍玉に挙げたがるイギリスも、かつては児童労働が盛んだったのだ。
16 世紀後半の英国とスペインの争いには、プロテスタントとカトリックという宗教対立も絡んでいる。当時の英国海峡だけでもカトリック教徒の船を狙う海賊船が 約4百隻も横行、1563年だけでも7百隻近くの船が襲われている。海賊のほとんどが英国とフランスの新教徒だった。戦闘で片足を失い、木製の義足を付け ていた「一本足のジャック」の姓はもちろんスパロウではなく、ル・クラーク、フランス人船長だ。
だが、英国船員全てが海賊行為に打ち込んでいた訳ではない。むしろスペインやポルトガルの広大な植民地から産出される財宝から、貿易によって少しでも多くの利益を獲得しようと考える船乗りの方が多かった。その代表的な人物がジョン・ホーキンズであり、彼の一族はアフリカにも航海して象牙や黄金で巨万の富を築いたが、ホーキンズはさらに奴隷貿易を始める。
ホーキンズは何度かの航海で顔なじみになった黒人の酋長を利用し、奴隷を集めた。アフリカでは部族の中の犯罪者、戦争の捕虜を奴隷とし、時には生贄に奉げ たので、奴隷が高く売れるようになると、酋長は私腹を肥やすため他部族を襲う奴隷狩りを積極的に協力したという。集められた黒人奴隷は新大陸に売られ、 19世紀まで続くビジネスとなる。
ドレークの本格的な初航海はこのホーキンズ船団の一員となったことで始まった。当時の商船が武装して いるのは当然であり、ドレークの一行もカリブ海でスペインとの戦闘も交えながら(パイレーツ・オブ・カリビアン!)、運んできた“積荷”も売りさばいて、 帰路はかなり苦労したにせよ純益だけで1万3千5百ポンドを越えたほど。
無事に祖国に帰れたドレークやホーキンズと違い、スペインの植民地に 残った英国人は悲惨である。宗教裁判にかけられ、拷問を受け、火刑にされずとも、百~3百回の鞭打ち刑の果てにガレー船の漕ぎ手として苦役を科せられた。 漕ぎ手は事実上奴隷と変わらず、スペイン本国での裁判後、ガレー船漕ぎ手にされた英国船員240人の内、9か月後に190人が死亡した例もある。
その後のドレークの活躍はよく知られている。ゴールデン・ハインド(金の雌鹿)号でのマゼランに次ぐ世界一周航海、無敵艦隊との戦い、その後も続く航海。世界一周もただ航海していただけでなく、スペイン船への襲撃もかなり行い、暗礁に出くわしたり、反乱を鎮圧しながらだった。彼が無事に祖国に帰還した翌年1581年、ナイトに叙任される。
キャプテン・ドレークの名に相応しく、1596年1月28日カリブ海の洋上で息を引き取る。彼の遺体は水葬にされた。
ドレークの時代は私掠船が認められていた。私掠船とは敵船の船を襲撃し掠奪することを認める「私掠特許状」を国王から与えられた商船を指す。いわば、国家公認の海賊である。英国ではエリザベス1世の 治世が私掠船の全盛期だったといわれている。女王はドレークをはじめとする私掠船船長たちの活躍で国家の収入を増やしたところから、海賊女王と呼ばれるこ とになるが、私掠船を存分に駆使したのはフランスやオランダも大同小異だった。ただ、ドレークに代表される英国私掠船の活躍があまりにも目立ちすぎたこと から、英国が海賊国家の名称を頂くことになる。
■参考:「海賊キャプテン・ドレーク」中公新書、杉浦昭典 著
よろしかったら、クリックお願いします
トラバ有り難うございます。実は・・・今日、グラニュエールを出すにあたって、mugiさまの記事をリンクしようと、初めから決めていまして、勝手に文中にリンクはりました(こちらのドレイクさんもやればよかった・・と今気付きました。)
貴女のブログへのリンク、どうも有り難うございました!
自分に被害が及ばなければ、男女ともに海賊ってサイコーに格好いいですよね~~
武装海上貿易商が海賊の実態でした。