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オスマン帝国末期の中東 その②

2008-07-26 20:23:18 | 読書/中東史
その①の続き
 ベルがシリアを旅した1905年は日露戦争最中で、彼女の行く先々でこの戦は話題となっており、戦況や日本について質問をされている。現代と異なり情報伝達は口コミ程度だったはずの中東のムリスムの間で、何故この戦争が広く知れ渡っているのか英国人ベルも不思議がっていた。ドゥルーズ派のアラブ人など、常勝している日本は我々と同じと話しており、ベルが日本人とあなた方とは人種や宗教も違うといくら説明しても聞き入れなかったのだ。ドゥルーズ派以外のムスリムにも日本の勝利が喜びをもって迎えられていた。ただ、キリスト教徒は違うらしく、特に親露側のギリシア正教信者はロシアが負ける度に失望していた。日頃の反目もありムスリムは日本の勝利した後、「今にお前たちを叩き出してやる」とキリスト教徒に凄む者もいた。

 ベルのアラブ人ガイド・マフムードの話は興味深い。彼がこれまで同行した旅行者で一番忘れられないのはある日本人だと言う。この日本人はローマ帝国東端の各地で用いられた建築方法を調査、報告するため政府から派遣されていたそうだ。ベル自身も「戦争の真っ最中にそのような研究に力を注ぐ余裕が日本人にはあったのだ」と記している。マフムードはその日本人に好奇心をかき立てられ、ベルに語っている。
-その人は日中はずっと馬に乗り続け、夜は夜で何時も書き物をしていました。食べ物はパン一個だけで、お茶を飲み、駄目と言う時には(アラビア語もトルコ語も話せませんでしたから)、「ノオ!ノオ!」と言っていました。戦争が始まる前までは私たちは日本人のことなど聞いたこともありませんでした。でも神の尊顔にかけて―イギリスの人は彼らのこともご存知だったのですね。

 日英同盟が締結された1902年、ボーア戦争も終結しているが英国が勝利したこの戦は強制収容所や焦土作戦などで国際的非難を浴び、英国側の犠牲も少なくなかった。ベルもこの戦争の頃の英国の外交は最悪だったが、日英同盟とそれに続く日露戦争の日本勝利は英国にとって大いに利益となったと書いている。世界の超大国との同盟で舞い上がった日本人が大半だが、英国人は国益を実に冷徹に計算していたのである。役立つ番犬(影で英国は日本をこう表現した)であり、日露戦争はロシア南下政策阻止の代理戦争でもあった。

 日本人に限らず中東のキリスト教徒はもちろんムスリムの間にも、欧米人と知己になりたがる者は少なくなかったようだ。欧米系ミッションスクールに通った人はアラビア語よりフランス語を尊ぶようになったり、ファッションを取り入れたりする。当時の英国は現代のアメリカのような超大国だったゆえ、英国人と親交を持ちたいと願う高官も珍しくなかったのだ。「私は非常な親英派」を自称、対談したアレッポの州知事をベルは著書に冷ややかにこう書いている。「信用してはならない二級品―それは欧州人と付き合いたいと公言してはばからないオリエントの高官」。

 また、シリアで知り合ったアフガン男からベルは、「英国とアフガンは友人です」と言われている。当時のアフガンは既に英国の保護領となっていたが、そのことを指している。そのくせアフガンの辺境で英国軍が敗北となれば直ちに中東に伝わり、ダマスカスのような都会にいる英国人旅行者は嘲りを浴びせられたというので、中東の民も一筋縄ではいかないようだ。英国、中東といい、異民族から友人と言われただけで信用する初心な日本人知識人(特に女)と何という違いだろう!

 オスマン朝末期という時代ゆえ、シリア中で腐敗と暴力が蔓延り、中央政府の権限はとうに及ばず、暴君同然の地主が我が物顔に振舞っていた。ベルのガイドも社会の惨状を嘆いている。
御寮様、お国では政府がしっかりしていて、イギリス人なら誰でも、たとえ金持ちでも政府には従うでしょう。ところがここでは公正ということはなく、大は小を食い、小はより小さなものを食い、政府はどれもこれも区別なしに食うのです。そして私らは誰もがそれぞれの立場で苦しみ、自分では自分を救いようがないから大声を上げて神に救いを求めるのです。

 20世紀初めも日本と比較にならぬほど中東の人々は信仰深かったが、これまた日本と比べようもないほど社会の複雑さと混乱が背景にあった。シリアでも都市のモスクは人が集まらずまばらだったが、村では生活の中心となっていた。豊かな都市に対し、貧しい村で貧しい人々は神より他に助けを求めるものがなかったのだ、
その③に続く

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