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乾隆帝時代―盛世の影

2006-03-13 21:03:01 | 読書/東アジア・他史
 乾隆帝(在位1735-95年)は満州族ながら中国史上の名君の一人とされる。その第一の理由は彼の統治時代に領土が最大となったからだ。現代の中国の教科書はどう表現してるか不明だが、領土を拡張した君主は中国に限らず讃えられるのが常なのだ。
 また、彼の内政面でも国内は安定して繁栄したとされるが、歴史学者には彼の時代に疑問を投げる者も少なくない。

 乾隆帝は対外的にはジュンガル・金川(チベット高原の東端)・グルカ(各2回)、ウイグル・台湾・ビルマ・ベトナム(各1回)へ計10回の遠征を“十全の武功”と誇って版図の拡大をはかった。特にジュンガルは内紛に乗じて侵攻、王国を完全に滅ぼし、この地は新疆と呼ばれるようになった。後継者争いにも清朝が無縁であるはずがなく、十八番の「夷は夷を以て制す」を駆使したのは明らかだ。ジュンガルの反乱には徹底した殺戮で報い、その数は数十万とも言われるので中華版ジェノサイトだろう。
  グルカとは現代のネパールで、清はグルカを制圧し朝貢させる。現代ネパールは共産ゲリラが跋扈してるが、この国が弱体化して一番得するところを考えれば、 彼らを支援するのが何者なのか容易に想像がつくだろう。清朝時代に朝貢した過去があれば、ネパールも中国古来の領土とも言い包められる。

 江戸時代の日本同様、清朝も海禁つまり出国禁止政策を取っていたが、乾隆政府は海外活動に対する禁止政策を特に激しく行った。すでに康熙帝の時代にも「海禁令」を制定し、貿易、島での農耕も含め全ての海外に出たことのある人を、皆死刑にするように決めていた。
 1749 年、福建省籍の陳姓の一家族がインドネシアから故郷に帰った時、地方の役人からこの知らせを受けた乾隆帝は、自ら聖旨でこの一家を流罪にし、全財産を没収 する。さらに清朝は隣国のタイやベトナムなどに、私的に中国を出た者を引き渡させ流刑することもよく行った。1753年にも広東省籍の梁姓の人がベトナム から送還され、両国の国境で処刑された。
 それでも中国人の東南アジアへの海外移住は収まらず、移住先では治安悪化が問題となる。以前記事に書いたが、1740年には「バタヴィアの狂暴」と呼ばれる事件も起きている。

 対外貿易としては1757年に「カントン・システム」 を完成させている。「カントン・システム」とは欧米船の来航を広州(カントン)一港に制限し、広東十三行といわれる特定の商人たちに独占的に取引させる制 度を指す。1757年以前には、外国船の来航を広州に限るというはっきりした規定があった訳ではなかったが、慣習上ほとんどの外国船は広州に来航してい た。しかし、正規の税以外にも「規礼」などと称する多額の手数料や官僚への付け届けの類を搾り取られる広州の交易制度は、欧米商人に悪名が高かった。
 そして来航した欧米商人は広州の街の中に住むのを許されず、珠江の河岸にある特別区域で暮らしていた。この地域またはその建物は「夷館(ファクトリー)」と呼ばれた。女は夷館内にいれてはいけない、貿易シーズン以外はマカオに滞在するように、など夷館には制限が多いものだった。まさか日本の長崎出島を参考にしたのではないだろうが、清朝の閉鎖性がよく分かる。

 盛世と謳われた乾隆帝の時代は、役人の腐敗もまた盛世だった。回族が多い甘粛省ではこぞって役人が冒賑に はしる。冒賑とは賑銀を横領することで、賑とは災害の地のために用意する金品、特に救済用の食料である。甘粛の各地は災害が多く、しかも貧しく痩せた土地 にも係らず、役人たちは競って賑銀を懐に入れる。汚職発覚後処刑された王という役人は、屋根から百万以上の金銀が発見されたという。記録では王は毎食必ず ロバを食べ、しかも生きたロバの体から肉を切って料理に使い、豆腐を食べるにも鴨の汁で煮た豆腐でなければ食べなかった。また禁書や文字の獄によって清朝は思想統制・検閲が強化された時代でもあった。

 隣国への軍事侵攻、海外不法移民、貿易における外国商人への多額の手数料の要求や居住制限、腐敗役人、言論弾圧…中国は当時から変わっていない。

 ■参考『世界の歴史12巻-明清と李朝の時代』中央公論社、『回教から見た中国』中公新書、張承志 著

◆関連記事:「叩頭-中華帝国への正しき挨拶

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4 コメント

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Re:生きた驢馬肉 (mugi)
2021-09-26 22:02:51
>クルトさん、

 オスマン帝国でも帝都イスタンブルには貧民のための給食施設があり、献立を見れば結構なものでした。しかし実際に貧民に提供されたかは疑問だったそうで、こちらでも横領がしばしば行われたようです。備蓄制度の整備が汚職に繋がったのだから、何とも残念です。

 未だに生きた驢馬の肉を切り取る料理があることに仰天させられました。他にも生きた赤ちゃんネズミの丸かじり料理があるそうですね。これが高じて喫人(食人)になるのでしょう。
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生きた驢馬肉 (クルト)
2021-09-25 21:07:19
地方の災害対策の金銭や物資の備蓄制度が整備されているという制度は整備された官僚制共々すごいと思いましたが、肝心の人材が汚職に走る状態だったのが皮肉です
この生きた驢馬から切り出した肉料理、今も少数ながら中国に現存してるらしいですよ
https://www.recordchina.co.jp/b57393-s0-c30-d0000.html
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元と清 (mugi)
2006-03-14 21:39:02
こんばんは、Marsさん。



儒教的価値観からすれば満州族は北狄に当たりますが、彼らが中国大陸を制覇したので一応正統な王朝になりました。元は中華文明を軽んじましたが、清は尊重したからまだ許せるのかも。満州族にはさほど抵抗した様子もない。



乾隆帝の時代は地方では貧しくとも財政は豊かだったので、外征もできたのです(戦争するのは金がかかる)。ただ、外征に関する記録も大本営発表的な箇所もあり、ビルマに侵攻しても撤退させられてます。



名君など滅多に現われないから、凡君でも大丈夫な体制の下で民衆は幸福だと思います。
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中国の? (Mars)
2006-03-13 22:22:35
こんばmは、mugiさん。



本当に中国の歴史というのは、いい加減かな、と思います。乾隆帝の清は満州族です。でも、日本で満州という言葉は差別だそうです(苦笑)。満州族は漢民族の敵ではなかったのでしょうか?

また、清に先立ちます元も中国の正統な王朝ですか?非漢民族でも、征服者には事大し、完全に征服していない倭民族は許せない。大いなる矛盾(笑)ですね。



ある意味、外に拡張を求めた時代は、内政的にはおかしい方が多いと思います。現在の中国にしても、ドイツにしてもそうですし、スペイン・ポルトガルの大航海時代にしても、外に何かを求めなければならない時代ですね。ローマにしても、領土が最大になった後は、内々でもめ、、、。



十人の名君の政治と、百人の愚鈍な民主制君主の治世。どちらがよいのでしょうか?(今でしたら、確実に、後者の方がまだマシと思えるようになってきました)

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