トーキング・マイノリティ

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書かれなかった叙事詩 その①

2010-06-03 21:20:16 | 読書/小説
 先日、ウルドゥー語の現代文学『インティザール・フサイン短編集』を読んだ。財団法人大同生命国際文化基金から出版されている「アジアの現代文芸」シリーズのパキスタン⑧に当たり、これで私が見たパキスタン人作家はサアーダット・ハサン・マントーグラーム・アッバースに続き3人目となる。今回見たインティザール・フサインの短編集も味わいのあるものばかりだった。

 予想外だった作品が『』。フサインは名前通りパキスタン人ムスリムだが、釈迦の弟子を主人公とした物語で、ジャータカ伝をモチーフとして描かれたものであり、そこからの引用もある。いかにインテリにせよ、ムスリムのフサインが仏教説話集を読み、取り入れた小説を書いていたのだ。
 主人公以下、この物語の登場人物は仏教徒ばかり、つまり異教徒だが、仏教徒を非難する物語では決してない。開祖の教えを忠実に守ろうとし、主人公の比丘は仲間からも孤立していく。森の中で苦行、求道の果てに彼は真理に達したと思い、自答する。
どの男も女も、自分の森、自分の木を持っているのだ。他の森で探そうとする者は何も得られないだろう。例えそこが、仏陀が悟りを得た菩提樹であったとしてもだ。自分の森の自分の木の蔭でそれは得られるのだ…

 インティザール・フサインは1925年、北インドのウッタル・プラデーシュ州、ブランドシェヘル県の町ディーバーイーに生まれた。少年期は父の方針もあり、家庭内でアラビア語でコーランなどを学ぶ。その際、コーランのウルドゥー語訳も併読し、その訳注に記されたアラブの伝承にも興味を抱いたらしい。一方、彼は父に隠れウルドゥー語訳の千夜一夜物語を読み、母方の祖母から毎晩聞かされた物語に深い関心を抱いたという。これが後の執筆活動に少なからぬ影響を与えたと、翻訳者の萩田博氏はみている。
 フサインは高等教育を終えた後、同州のメーラト・カレッジに入学、1946年、このカレッジでウルドゥー文学の文学博士号を取得している。ジャータカ伝の引用からも彼にとってインド・イスラム文化とは、インドの伝統をも包摂するものとして捉えられていたようだ。

 彼の小説『最後の人間』は、ダビデ王の時代、安息日に魚を食べたため、その罰として猿にされてしまったユダヤ人がいるという、コーランに記されたイスラムの伝承を基にしており、翻訳者によれば引用も含め、文体的にも旧約聖書的世界を強く意識して執筆されているとか。
 この小説はある町の人々が戒律に背き安息日に魚をとり、ついに主人公を除き町の住民すべてが猿となってしまうというストーリー。『最後の人間』という題名もここから来ている。呪いがかけられたように町の人々は怒ったり泣いたり、笑っただけでも猿の姿となる。人間として生まれたのだから、人間の姿で死ぬと決意した主人公は、そのため愛情と嫌悪、怒りや同情などあらゆる感情を遠ざける。そして猿となってしまった者たちとの関係を断つ。
 それでも愛する美しい恋人や知人が猿に変わってしまうのは何よりも辛く、何者ともかかわりを持たぬ孤独な暮らしは、主人公の精神を苛む。そんな彼も孤高の存在ではいられなくなる。

 フサインの翻訳をされた萩田氏は巻末の解説で、これら一群の作品で扱われているテーマは、人間の精神的、道徳的堕落と個のアイデンティティの探求であると述べている。1930年代後半には社会主義的リアリズムを理念とする進歩主義的文学運動がウルドゥー文学者にもかなり影響を与え、その潮流で数々の傑作も生まれたが、フサインの作はそれらとは一線を画し、全く違う視点から作品を書いたという。

 ウルドゥー文学には「ダースターン」と呼ばれる伝奇文学の伝統があり、『』はそこから着想を得ているとか。この物語は鬼の支配する城に住む王女が主人公。この城には7つの部屋があり、6つの部屋は自由に明けてもよいが、決して7番目の部屋だけは開けるな、と厳重に注意して鬼は部屋の鍵を渡す。
 城で王女は何不自由のない暮らしを送り、6つの部屋を思うままに見て過ごすが、結局誘惑に駆られ、7番目の部屋を開けてしまう。面白いことに似たような話は日本昔話にもあり、確か『鶯の法華経』という題だったと思う。ウルドゥー文学と異なり登場人物は2人の男で、言いつけを守った者は長者になり、背いた男は罰を受けるという結末。そして日本の物語では、城の部屋ではなく4つの蔵だった。
その②に続く

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