他人の人生を生きてきました.......................................
他人が「自分の考え方が正しい」と信じ、それを人に押し付けて多くのモノを犠牲にすることが当然のような言い方で私の人生を決められてきたのです。
その言葉は言った本人は言ってから暫くすると忘れてしまうぐらいの価値の無いモノなのでしょう。
わたしは頭が悪いのですが、意外と記憶力は良いんですよ。
そして最近、資料を読んでいてやっと理解できるようになったことがあります。
・流されるままに生きていてもそれは私自身が「選択」して生きてきた
ということなんですね。
今までは
「なぜこんな人の言うことを聞かなければならないのだ」
とか
「調べもしていないのに勝手に選択しそれに巻き込まれる」
てきたんですよ。
・感情的な必要に敏感すぎる自分が居る
のでその辺りを鈍感にしていかねばならないでしょう。
細かに考慮しても多くのモノを犠牲にしなければなりませんでした。
努力を怠ることはありません。
自分自身を定義してしまうとそれ以上は人間は成長しないのです。
・本人にも気が付かないような細かな所まで気づく
というのがどうも駄目だったようです。
私の人生は
「私のモノ」
で私自身が
「自分の人生を動かしている」
ということを確認したかったんです。
他の人の意見なんか関係なく自分の選択で生きているという
「自分自身の実感」
を感じたかったのです。
最近、やっと自分で自分の人生を動かしているという実感が湧いてくるようになりました。
他の人に以前言われたことがまだまだ
・拘束力
を有しており、
・他人の価値観
が私自身を苦しめているのですがね。
現在は自分自身のことで精一杯だということをやっと認められるようになってきました。
・他の人の価値観に左右されない強い人間になりたい
と強く願うようになりました。
そして自分自身に
・自尊心を備え
・自分自身の価値
をちゃんと理解できるようになりたいとも願っています。
妥当で適正、適切な価値をちゃんと認識して生きていきたいんです。
他の人が居ると出来ない事が多く、特に知人であれば「以前の私」を求めるでしょう。
それが嫌なのです。
だから他の地へ行きたいと願っているのですが、他の人に相談すると
・今のままでどうにか出来ないのか
・この地の近くに住んで今の仕事を続けるのが良い
という意見ばかりです。
確かにそのとおりですね。
病院の先生にも相談してみましたが、私が抱える
・鬱病を知ってもらえている人がいる所が良い
という意見でした。
確かにこれは「もっとも」で的を射た考え方であることには間違いありません。
しかしこの地に留まり続けているからこそ、精神的に辛い状況を生んだのは間違いないんですよね。
よって離れることによって違う人生を送ることが出来るようになるとも言えると思うんですよ。
現に引っ越したくもなかったこの地に来てわたしは大きく変化しました。
多くのモノを得ることもできましたし、多くの知人を作ることも出来ました。
性格も変わりましたし、人間が変わったと言っても良いぐらいの変化がありました。
これはChristianらしくない考え方なのですが、得損なったものがそれ以上に多かったと考えてしまうのです。
このあたりの気持ちの処理をこれから行なっていかねばならないのでしょうね。
自分の人生を全部自分自身が選択して生きてきたのだ
と言い聞かせる必要があります。
それが
・自分の考えではなく、そして自分の絶対に選択したくなかった選択肢でも
です。
・なぜこんな馬鹿な選択をする人間に付き合わねばならないのだ
・なぜこんな愚かな思考をする人間に付き合わねばならないのだ
・なぜこんな人間に付き合わねばならないのだ
と心奥で考えていたことが少なからずあったようです。
もっと懸命な人間と共に生きて行きたいと願いながら、それが適わない状況です。
そして上記の人間の為に自分の「多くを犠牲」にして生きてきました。
聖書には「天に宝を蓄える」という言葉があります。
神は全てをご存知で、私の意図を全て理解してくださっていることでしょう。
しかし人間はそうではありません。
深く考え、深く思考してしまうんですね。
本人が蒔いたモノを刈り取らなければならないモノをわたしが代わりに刈り取ってきたモノが少なからずあります。
その人自身が気付かないように、そして気取られない方法でわたしが代替わりをしてきた事が少なくありません。
私自身が他の人に迷惑を掛けることが出来ないというのも大きな問題であるのも解るようになりました。
それなのに甘えることも出来ず、迷惑を掛けることも出来ない自分自身を変えていきたいとも願うようになりました。
個人研究をしなければならないですね。
もっと神に依り頼み、絶対的な信頼を置かねばならないのでしょう。
全てを上に委ねても良いという気持ちになれるようになりたいモノです。
最近は自分自身を中心にして生きるようにしています。
自分自身がどれだけの人間なのかを理解し、それを適切に生きねばならないでしょう。
自己犠牲というのは非常に美しいモノです。
それが他の人に知られないように与えるモノであれば、尚更でそれは一際美しいモノですよね。
わたしはそれでいいと信じて生きてきました。
ただ、少し前から「これ以上はもう出ない」という状態だったんです。
今も出せるモノは多くはありません。
ただ心から出せるようになりたいと願います。
生きているだけでも十分なのだと、もっと賢明に生き、賢明な選択を行い生きていきたいと常々考えていました。
そして言われる儘に生きているだけでも
「自分自身が選択している」
ということを学ぶのは本当に辛かったんですね。
こんなことは望んでいないと考えていても、流される儘にすることが自分自身の選択だったなんて到底受け入れることが出来ないと今でも考えているところがあります。
そしてこれからはもっと建設的に生きていきたいと願っています。
・多くのモノを諦めてきたのは親の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは長老の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは親族の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは周りの知人の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは環境の所為だ
と考えて生きてきました。
・今の現状を生んでいるのは他人なのだ
と「自分の落ち度は何もない」と確信しているのは私自身の人生に大きく影響するであろう選択を家族が行う際に、
・強烈に私自身が主張し、将来性や動向を考えてみても発展性のない地域
であるという事実を的確に伝えたからです。
また
・自分が納得する人生を送りたい故に考えうる限りの事を遣りたい
とも主張しました。
例えば、
「手に職を身に着けたい」
「遣りたいことを納得してやるのが仕事」
という考え方に同意してもらえなかったのは本当に辛かったのです。
・なぜ理解してもらえないのだろう
なんて思うわけです。
確かに一つの仕事を学びそれを身に着けても何の保証にもなりません。
それは私自身がよくわかっていますし、身に沁みて理解できる分野かと思います。
資格は多数取りましたし、現在の仕事も「整体」という特殊なものだからです。
学校で学び手に職をつけても、それは殆ど役に立たない代物ばかりです。
実際の仕事の現場で学び、仕事の現場でしか本当の技術というものは培えません。
人間の求めるモノというのは千差万別で、Needsに合った仕事では駄目なのです。
求められる仕事以上のものを提供するのが「職人」でしょう。
それでこそ仕事といえると私は確信しています。
「一流は一流を知る」
と私は思うのです。
一つの道で一流に成れたならば、他の道の一流の仕事の質を知ることがある程度は出来るのです。
それが
・どれだけ自分を律するのか
・どれだけ練習し、自分のモノにしたのか
・どれだけの修練を要するのか
・どれかで鍛錬を要するのか
・どれだけ熟達したのか
一流は普通の仕事は出来ないようになります。
無意識に一流の仕事をしてしまうのですよ。
そのような一流になりたいと願いながら、人の意見で全てを諦めてきた自分自身を受け入れなければならないと思うと本当に辛いんですよね。
そして一つの仕事で人間は生きていくことが難しいのも事実です。
廃れもしますし、状況が仕事をするのを許さないという事実もありますからね。
ただ「超一流」になれば話は変わってきます。
その仕事というのは定着すると、向こうから遣ってくるようになるのです。
さらに時間にも余裕ができてくるというのが一般的な超一流でしょう。
・相手が待つようになる
これが超一流だと言えるのかもしれません。
ただ一流への道も何もかもは「初心者から」であるというのも間違いないでしょうね。
そして「初心忘れるべからず」という志を忘れた人間は急転直下するのも常道でしょう。
この記事はこれぐらいにしておきます。
結構書きたいことが溜まっていてそれを吐き出せないのは辛いです。
他人が「自分の考え方が正しい」と信じ、それを人に押し付けて多くのモノを犠牲にすることが当然のような言い方で私の人生を決められてきたのです。
その言葉は言った本人は言ってから暫くすると忘れてしまうぐらいの価値の無いモノなのでしょう。
わたしは頭が悪いのですが、意外と記憶力は良いんですよ。
そして最近、資料を読んでいてやっと理解できるようになったことがあります。
・流されるままに生きていてもそれは私自身が「選択」して生きてきた
ということなんですね。
今までは
「なぜこんな人の言うことを聞かなければならないのだ」
とか
「調べもしていないのに勝手に選択しそれに巻き込まれる」
てきたんですよ。
・感情的な必要に敏感すぎる自分が居る
のでその辺りを鈍感にしていかねばならないでしょう。
細かに考慮しても多くのモノを犠牲にしなければなりませんでした。
努力を怠ることはありません。
自分自身を定義してしまうとそれ以上は人間は成長しないのです。
・本人にも気が付かないような細かな所まで気づく
というのがどうも駄目だったようです。
私の人生は
「私のモノ」
で私自身が
「自分の人生を動かしている」
ということを確認したかったんです。
他の人の意見なんか関係なく自分の選択で生きているという
「自分自身の実感」
を感じたかったのです。
最近、やっと自分で自分の人生を動かしているという実感が湧いてくるようになりました。
他の人に以前言われたことがまだまだ
・拘束力
を有しており、
・他人の価値観
が私自身を苦しめているのですがね。
現在は自分自身のことで精一杯だということをやっと認められるようになってきました。
・他の人の価値観に左右されない強い人間になりたい
と強く願うようになりました。
そして自分自身に
・自尊心を備え
・自分自身の価値
をちゃんと理解できるようになりたいとも願っています。
妥当で適正、適切な価値をちゃんと認識して生きていきたいんです。
他の人が居ると出来ない事が多く、特に知人であれば「以前の私」を求めるでしょう。
それが嫌なのです。
だから他の地へ行きたいと願っているのですが、他の人に相談すると
・今のままでどうにか出来ないのか
・この地の近くに住んで今の仕事を続けるのが良い
という意見ばかりです。
確かにそのとおりですね。
病院の先生にも相談してみましたが、私が抱える
・鬱病を知ってもらえている人がいる所が良い
という意見でした。
確かにこれは「もっとも」で的を射た考え方であることには間違いありません。
しかしこの地に留まり続けているからこそ、精神的に辛い状況を生んだのは間違いないんですよね。
よって離れることによって違う人生を送ることが出来るようになるとも言えると思うんですよ。
現に引っ越したくもなかったこの地に来てわたしは大きく変化しました。
多くのモノを得ることもできましたし、多くの知人を作ることも出来ました。
性格も変わりましたし、人間が変わったと言っても良いぐらいの変化がありました。
これはChristianらしくない考え方なのですが、得損なったものがそれ以上に多かったと考えてしまうのです。
このあたりの気持ちの処理をこれから行なっていかねばならないのでしょうね。
自分の人生を全部自分自身が選択して生きてきたのだ
と言い聞かせる必要があります。
それが
・自分の考えではなく、そして自分の絶対に選択したくなかった選択肢でも
です。
・なぜこんな馬鹿な選択をする人間に付き合わねばならないのだ
・なぜこんな愚かな思考をする人間に付き合わねばならないのだ
・なぜこんな人間に付き合わねばならないのだ
と心奥で考えていたことが少なからずあったようです。
もっと懸命な人間と共に生きて行きたいと願いながら、それが適わない状況です。
そして上記の人間の為に自分の「多くを犠牲」にして生きてきました。
聖書には「天に宝を蓄える」という言葉があります。
神は全てをご存知で、私の意図を全て理解してくださっていることでしょう。
しかし人間はそうではありません。
深く考え、深く思考してしまうんですね。
本人が蒔いたモノを刈り取らなければならないモノをわたしが代わりに刈り取ってきたモノが少なからずあります。
その人自身が気付かないように、そして気取られない方法でわたしが代替わりをしてきた事が少なくありません。
私自身が他の人に迷惑を掛けることが出来ないというのも大きな問題であるのも解るようになりました。
それなのに甘えることも出来ず、迷惑を掛けることも出来ない自分自身を変えていきたいとも願うようになりました。
個人研究をしなければならないですね。
もっと神に依り頼み、絶対的な信頼を置かねばならないのでしょう。
全てを上に委ねても良いという気持ちになれるようになりたいモノです。
最近は自分自身を中心にして生きるようにしています。
自分自身がどれだけの人間なのかを理解し、それを適切に生きねばならないでしょう。
自己犠牲というのは非常に美しいモノです。
それが他の人に知られないように与えるモノであれば、尚更でそれは一際美しいモノですよね。
わたしはそれでいいと信じて生きてきました。
ただ、少し前から「これ以上はもう出ない」という状態だったんです。
今も出せるモノは多くはありません。
ただ心から出せるようになりたいと願います。
生きているだけでも十分なのだと、もっと賢明に生き、賢明な選択を行い生きていきたいと常々考えていました。
そして言われる儘に生きているだけでも
「自分自身が選択している」
ということを学ぶのは本当に辛かったんですね。
こんなことは望んでいないと考えていても、流される儘にすることが自分自身の選択だったなんて到底受け入れることが出来ないと今でも考えているところがあります。
そしてこれからはもっと建設的に生きていきたいと願っています。
・多くのモノを諦めてきたのは親の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは長老の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは親族の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは周りの知人の所為であり
・多くのモノを諦めてきたのは環境の所為だ
と考えて生きてきました。
・今の現状を生んでいるのは他人なのだ
と「自分の落ち度は何もない」と確信しているのは私自身の人生に大きく影響するであろう選択を家族が行う際に、
・強烈に私自身が主張し、将来性や動向を考えてみても発展性のない地域
であるという事実を的確に伝えたからです。
また
・自分が納得する人生を送りたい故に考えうる限りの事を遣りたい
とも主張しました。
例えば、
「手に職を身に着けたい」
「遣りたいことを納得してやるのが仕事」
という考え方に同意してもらえなかったのは本当に辛かったのです。
・なぜ理解してもらえないのだろう
なんて思うわけです。
確かに一つの仕事を学びそれを身に着けても何の保証にもなりません。
それは私自身がよくわかっていますし、身に沁みて理解できる分野かと思います。
資格は多数取りましたし、現在の仕事も「整体」という特殊なものだからです。
学校で学び手に職をつけても、それは殆ど役に立たない代物ばかりです。
実際の仕事の現場で学び、仕事の現場でしか本当の技術というものは培えません。
人間の求めるモノというのは千差万別で、Needsに合った仕事では駄目なのです。
求められる仕事以上のものを提供するのが「職人」でしょう。
それでこそ仕事といえると私は確信しています。
「一流は一流を知る」
と私は思うのです。
一つの道で一流に成れたならば、他の道の一流の仕事の質を知ることがある程度は出来るのです。
それが
・どれだけ自分を律するのか
・どれだけ練習し、自分のモノにしたのか
・どれだけの修練を要するのか
・どれかで鍛錬を要するのか
・どれだけ熟達したのか
一流は普通の仕事は出来ないようになります。
無意識に一流の仕事をしてしまうのですよ。
そのような一流になりたいと願いながら、人の意見で全てを諦めてきた自分自身を受け入れなければならないと思うと本当に辛いんですよね。
そして一つの仕事で人間は生きていくことが難しいのも事実です。
廃れもしますし、状況が仕事をするのを許さないという事実もありますからね。
ただ「超一流」になれば話は変わってきます。
その仕事というのは定着すると、向こうから遣ってくるようになるのです。
さらに時間にも余裕ができてくるというのが一般的な超一流でしょう。
・相手が待つようになる
これが超一流だと言えるのかもしれません。
ただ一流への道も何もかもは「初心者から」であるというのも間違いないでしょうね。
そして「初心忘れるべからず」という志を忘れた人間は急転直下するのも常道でしょう。
この記事はこれぐらいにしておきます。
結構書きたいことが溜まっていてそれを吐き出せないのは辛いです。