「異性間の励まし」は駄目なのでしょうか................................
おいらは一度関わるならば回復するまで関わらなければならないと考える性格です。
たとえ「異性」でも構わないと思っています。
これはおいらが鬱を煩った際に励まそうとしてくださった人たちの中に女性がいたからなんですよね。
実際においらがその励ましで強められたかどうかは別として、
「気遣ってくださっている」
「行動に移すまで考えてくれている」
という事実は非常にありがたいことでした。
一人の人間が思考から行動に移すまでのProcessを経るにはかなりのEnergieが必要になります。
「行動に移す」というのは思考を経てからしか出来ないんですよ。
まして
「Presentなどを購入して渡す」
という行為には金銭的な状況が関わってきます。
家庭を持っている親ならば自分のわずかばかりのお小遣いの中から貴重な資産を用いて損得勘定抜きでの自己犠牲的な愛を物理的なモノとして伝えることになります。
気遣いの声を掛けて貰えるというのは嬉しいことなのでしょう。
おいらは激しい自己嫌悪に陥り、そこから自分を破壊していきました。
鬱病というのはそう言うモノだと後で知ったのですが、鬱病の中でも深く重い部類にCategorizeされる程度のモノとなっていました。
それはこのBlogを始めから読んでいただけると解るかと思います。
ある日、定期的に若者とDriveをしているのですが物凄く落ち込んでいて
「自分の存在を消してしまいたい」
と漏らしました。
これはおいらの得意分野だと言っても過言ではありません。
自分の存在を否定することに慣れていましたからね。
そこからの持ち直し方もよく解っています。
ただこのような思考というのは即効性のある言葉や対応というのはおいらの経験上で皆無です。
Constantに他人(ここでは「おいら」)がその子に価値があることを伝え続ける必要があると言うことでしょうか。
Teenagerは兎角他人の評価を機にしがちです。
おいらは20代に入ってからも他人からの評価に翻弄され鬱へ驀地になりました。
しかし本当に重要なのは他人からの評価ではなく自分自身への客観的価値を認識しなければならないと言うことなのです。
隔週でDriveに行く約束をしているのですがね。
先日はDriveの出先で一緒に行動していた際にその子が自殺を仄めかすようなことを言ったらしい、と急においらの携帯電話に母上から電話が入りました。
幸いながら携帯電話の会話は離れたところにいたので聞かれることはありませんでしたが...............................
Driveの前にその日は疲れているので短く切り上げるとその子に言ったのですがね。
急遽おいらが何かと理由を付けて長距離のDriveをすることになりました。
家庭の事情や本人自身の悪い点などを鑑みると改善すべきは
その子本人
であるのは間違いありません。
・無気力で何もする気がない
と言っておきながら
・自分の利益のみを追求する
・自分のしたいことしかしない
などの傾向が見られます。
例えば何もする気がないならばGameや漫画などにも興味を持つことはないでしょう。
でもそれらを購入し、多くの時間を費やしています。
家庭の環境を考えるならばGame Softwareを購入する余裕や携帯電話を維持する費用を捻出するのも難しい状態にもかかわらず、それらに平気でお金を掛けているという状態です。
これは家族内では浮くのは不思議ではありません。
携帯の毎月の使用料を興味本位で聞いてみたのですがね。
7,500円程度も掛かっているようです。
これっておいらの家庭の4台分の使用料と同等程度の金額なんですよね。
Packet定額と基本使用料で6,000程度に抑えられるはずなので疑問がありました。
すると「携帯電話の機種代だ」と言っていました。
何度も書きますが、最近の親は子供に甘すぎますね。
おいらの子供の頃の1,000円の価値は今の子供の10万程度の価値がありそうな金銭感覚になっているようです。
家庭によってはですがね。
基本的に毎月3,000円以上を使うというのは剰りにも畏れ多いことだった記憶があります。
金のない親の状態を知っていましたからな。
親の金銭状況は子供が解らないはずはありません。
その中で何も考えずに金を浪費しているのを見ると明らかに「この子が悪い」両親や兄弟姉妹たちから言われても仕方がありません。
自営業の手伝いをして「小遣いを貰う」という約束をしているから使っても良いのだという意識を持っているようですがね。
おいらの見地ではこの子の直ぐ上の女の子は比較にならないほど弁えています。
この女の子は他のこと比較すると達観しているように感じるぐらいですな。
たくさんの姉弟がいる家庭なのですが、この家庭の中でおいらが評価しているのは二人しかいません。
しかしこの二人はすばらしい平衡感覚を有しているように思います。
自分のすべきことを的確にこなし、物事を適正に行っているんですよね。
不平不満や愚痴、無気力などは余裕があって何もしなくても良い環境の人間が陥る事が多い事態です。
甘やかされて育つとこういう子が育つと言うことですな。
このような人間とはおいらは接したくもありませんが、約束してしまった手前行かざるを得ないという感じでしょうか。
話が脱線しました。
男女の励ましというのはしてもいいのだろうか
と言う話題でした。
そしてそれに対してのおいらの答えは「YES」ですな。
理由はおいらにすくなくとも影響があった人間がいたからです。
男性からの励ましはほとんどありませんでした。
というよりほとんどの人が見て見ぬ振りをしていましたからね。
とてもありがたかったんですよ。
当時のおいらを振り返ると闇を背負って生きていました。
その闇には光が差し込む余地もなく毎日が自分の命との対話でした。
なぜ生きているのか
なぜ死なないのか
という自問自答を繰り返していました。
苦しい中での励ましの言葉というのは、意図せずとも涙が溢れて止まらない状態にもなったことがあります。
Mailなどの形でも何度か戴いたことがありましたが、それは宝物のように感じていました。
携帯電話のMailを移行できれば必ず残していたはずなのですが、Careerを変更しましたし移行できませんでした。
それでも苦しいときに戴いた気遣いというのは生涯忘れることがないのだと解ります。
友の定義の中にこのようなモノがあります。
「真の友はどんなときにも愛し続けるモノであり、苦難の時に生まれた兄弟である。」
逆境に直面している人間に近づくと言うことは一方的な消耗になることが少なくありません。
悲しんでいる人間には近づく人間はいますが、苦しんでいる人間に近づこうとする人間が少ないというのは事実です。
これは「悲しい」と言う感情は理解しやすく、同情しやすく、自分も悲しい事があることが少なからずあるからなんですよね。
よって共通の土台があることで「分け合える」という意識が働きやすいんでしょう。
しかし「苦しい」というのは分け合いたくもないモノです。
「なぜ人の分まで苦しい気持ちを受けなければならないのだ」と無意識のうちに判断してしまうんですよね。
人間の傾向としては楽な方に楽な方に行く傾向があります。
つまり苦難の時に一緒にいてくれる友というのは非常に得難い「真の友」だと言えるわけです。
苦しんでいる人のためにConstantに行動している人間を認識したことがありません。
これは人間が自分一人で生活するだけでも精一杯なのですから当然なのですがね。
おいらは最近ある実験を行っています。
・ずっと心の中で抱き続けるよりも行動に移す方がどれだけ簡単なのか
と言う実験です。
・考えるよりも行動する方がマシ
と言うような内容の言葉がたびたび見受けられました。
でも考えなしに行動するのと一定の計画を立てて行動するのとでは、その効用や効果に雲泥の差が出来てしまいます。
確かにおいらの場合は
「考えるより先に行動する」
ぐらいがちょうど良いことを理解できつつあるところです。
思いついたならば直ぐに行動するという
「実行力」
が如何に心地の良いモノなのかも理解できてもいますしね。
男女の励ましに関しては、そうですな。
「男女の友情は成立するのか」と似たような感覚で考えていただければ良いかと思います。
おいらは一度関わるならば回復するまで関わらなければならないと考える性格です。
たとえ「異性」でも構わないと思っています。
これはおいらが鬱を煩った際に励まそうとしてくださった人たちの中に女性がいたからなんですよね。
実際においらがその励ましで強められたかどうかは別として、
「気遣ってくださっている」
「行動に移すまで考えてくれている」
という事実は非常にありがたいことでした。
一人の人間が思考から行動に移すまでのProcessを経るにはかなりのEnergieが必要になります。
「行動に移す」というのは思考を経てからしか出来ないんですよ。
まして
「Presentなどを購入して渡す」
という行為には金銭的な状況が関わってきます。
家庭を持っている親ならば自分のわずかばかりのお小遣いの中から貴重な資産を用いて損得勘定抜きでの自己犠牲的な愛を物理的なモノとして伝えることになります。
気遣いの声を掛けて貰えるというのは嬉しいことなのでしょう。
おいらは激しい自己嫌悪に陥り、そこから自分を破壊していきました。
鬱病というのはそう言うモノだと後で知ったのですが、鬱病の中でも深く重い部類にCategorizeされる程度のモノとなっていました。
それはこのBlogを始めから読んでいただけると解るかと思います。
ある日、定期的に若者とDriveをしているのですが物凄く落ち込んでいて
「自分の存在を消してしまいたい」
と漏らしました。
これはおいらの得意分野だと言っても過言ではありません。
自分の存在を否定することに慣れていましたからね。
そこからの持ち直し方もよく解っています。
ただこのような思考というのは即効性のある言葉や対応というのはおいらの経験上で皆無です。
Constantに他人(ここでは「おいら」)がその子に価値があることを伝え続ける必要があると言うことでしょうか。
Teenagerは兎角他人の評価を機にしがちです。
おいらは20代に入ってからも他人からの評価に翻弄され鬱へ驀地になりました。
しかし本当に重要なのは他人からの評価ではなく自分自身への客観的価値を認識しなければならないと言うことなのです。
隔週でDriveに行く約束をしているのですがね。
先日はDriveの出先で一緒に行動していた際にその子が自殺を仄めかすようなことを言ったらしい、と急においらの携帯電話に母上から電話が入りました。
幸いながら携帯電話の会話は離れたところにいたので聞かれることはありませんでしたが...............................
Driveの前にその日は疲れているので短く切り上げるとその子に言ったのですがね。
急遽おいらが何かと理由を付けて長距離のDriveをすることになりました。
家庭の事情や本人自身の悪い点などを鑑みると改善すべきは
その子本人
であるのは間違いありません。
・無気力で何もする気がない
と言っておきながら
・自分の利益のみを追求する
・自分のしたいことしかしない
などの傾向が見られます。
例えば何もする気がないならばGameや漫画などにも興味を持つことはないでしょう。
でもそれらを購入し、多くの時間を費やしています。
家庭の環境を考えるならばGame Softwareを購入する余裕や携帯電話を維持する費用を捻出するのも難しい状態にもかかわらず、それらに平気でお金を掛けているという状態です。
これは家族内では浮くのは不思議ではありません。
携帯の毎月の使用料を興味本位で聞いてみたのですがね。
7,500円程度も掛かっているようです。
これっておいらの家庭の4台分の使用料と同等程度の金額なんですよね。
Packet定額と基本使用料で6,000程度に抑えられるはずなので疑問がありました。
すると「携帯電話の機種代だ」と言っていました。
何度も書きますが、最近の親は子供に甘すぎますね。
おいらの子供の頃の1,000円の価値は今の子供の10万程度の価値がありそうな金銭感覚になっているようです。
家庭によってはですがね。
基本的に毎月3,000円以上を使うというのは剰りにも畏れ多いことだった記憶があります。
金のない親の状態を知っていましたからな。
親の金銭状況は子供が解らないはずはありません。
その中で何も考えずに金を浪費しているのを見ると明らかに「この子が悪い」両親や兄弟姉妹たちから言われても仕方がありません。
自営業の手伝いをして「小遣いを貰う」という約束をしているから使っても良いのだという意識を持っているようですがね。
おいらの見地ではこの子の直ぐ上の女の子は比較にならないほど弁えています。
この女の子は他のこと比較すると達観しているように感じるぐらいですな。
たくさんの姉弟がいる家庭なのですが、この家庭の中でおいらが評価しているのは二人しかいません。
しかしこの二人はすばらしい平衡感覚を有しているように思います。
自分のすべきことを的確にこなし、物事を適正に行っているんですよね。
不平不満や愚痴、無気力などは余裕があって何もしなくても良い環境の人間が陥る事が多い事態です。
甘やかされて育つとこういう子が育つと言うことですな。
このような人間とはおいらは接したくもありませんが、約束してしまった手前行かざるを得ないという感じでしょうか。
話が脱線しました。
男女の励ましというのはしてもいいのだろうか
と言う話題でした。
そしてそれに対してのおいらの答えは「YES」ですな。
理由はおいらにすくなくとも影響があった人間がいたからです。
男性からの励ましはほとんどありませんでした。
というよりほとんどの人が見て見ぬ振りをしていましたからね。
とてもありがたかったんですよ。
当時のおいらを振り返ると闇を背負って生きていました。
その闇には光が差し込む余地もなく毎日が自分の命との対話でした。
なぜ生きているのか
なぜ死なないのか
という自問自答を繰り返していました。
苦しい中での励ましの言葉というのは、意図せずとも涙が溢れて止まらない状態にもなったことがあります。
Mailなどの形でも何度か戴いたことがありましたが、それは宝物のように感じていました。
携帯電話のMailを移行できれば必ず残していたはずなのですが、Careerを変更しましたし移行できませんでした。
それでも苦しいときに戴いた気遣いというのは生涯忘れることがないのだと解ります。
友の定義の中にこのようなモノがあります。
「真の友はどんなときにも愛し続けるモノであり、苦難の時に生まれた兄弟である。」
逆境に直面している人間に近づくと言うことは一方的な消耗になることが少なくありません。
悲しんでいる人間には近づく人間はいますが、苦しんでいる人間に近づこうとする人間が少ないというのは事実です。
これは「悲しい」と言う感情は理解しやすく、同情しやすく、自分も悲しい事があることが少なからずあるからなんですよね。
よって共通の土台があることで「分け合える」という意識が働きやすいんでしょう。
しかし「苦しい」というのは分け合いたくもないモノです。
「なぜ人の分まで苦しい気持ちを受けなければならないのだ」と無意識のうちに判断してしまうんですよね。
人間の傾向としては楽な方に楽な方に行く傾向があります。
つまり苦難の時に一緒にいてくれる友というのは非常に得難い「真の友」だと言えるわけです。
苦しんでいる人のためにConstantに行動している人間を認識したことがありません。
これは人間が自分一人で生活するだけでも精一杯なのですから当然なのですがね。
おいらは最近ある実験を行っています。
・ずっと心の中で抱き続けるよりも行動に移す方がどれだけ簡単なのか
と言う実験です。
・考えるよりも行動する方がマシ
と言うような内容の言葉がたびたび見受けられました。
でも考えなしに行動するのと一定の計画を立てて行動するのとでは、その効用や効果に雲泥の差が出来てしまいます。
確かにおいらの場合は
「考えるより先に行動する」
ぐらいがちょうど良いことを理解できつつあるところです。
思いついたならば直ぐに行動するという
「実行力」
が如何に心地の良いモノなのかも理解できてもいますしね。
男女の励ましに関しては、そうですな。
「男女の友情は成立するのか」と似たような感覚で考えていただければ良いかと思います。