男女の励ましは成立するのか? その2................................
・表面的な励ましを施す人間
・継続的に励まし続ける人間
男女の違いとともに上記の2種類にも分類できます。
表面的な励ましというのは落ち込んでいる人間に気が付いたなら「その時だけ」励ます人間です。
継続的に励ますというのは心の中で常にその人のことを考えて何かしらその人の益となりたいと願い考え続ける人間が行う励ましです。
これは「励まし」という行為だけではなく、何かしらのActionを起こす際の本気度を計れるかと思います。
本気度は言葉の扱い方にも繋がることがあります。
言葉を軽く扱う人間は行動にも信用や信頼を置けることはありません。
聖書の言葉にこのようなモノがあります。
「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり、
ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。」
何かしら物事を行う提案をした際にはその言葉に責任が伴います。
提案するに際してはそれを実行することは求められていることなのです。
よって「気遣いの言葉を掛ける」ということはおいらにとっては
「ずっと気遣う覚悟を決めた」
ということを意味します。
これは改善の余地が本人にあり、それを改善するべきだと思った時点で解消されることがありますがね。
おいらは自分に甘い人間とは相容れません。
自己改善に努める人間のために何かしら物事を行いたいと願っています。
そうなると自分に甘い人間のために使っている時間が惜しいと思うようになります。
残念ながら人間の時間というのは現時点では無限ではありません。
限りがあり他人のために行動できる時間というのは限られています。
その限りある時間を成長しようと努力している人間のために使うのか、自分に甘く生きている人間のために使うのかを選べと言われるとおいらは必ず前者を優先します。
確かなこととしておいらは人を選べる立場にはないでしょうね。
しかし自分の時間が限りあるモノで自分の労力、資産、精神的体力、肉体的体力も同様です。
そう考えると
「自分を高めるために生きている人間のために物事を行いたい」
と願うのは必然的に発生する感情だと分析できました。
これは男性でも女性でも変わりはありません。
自己改善をするために努めている方たちのために行動する努力をすると甘く生きている人間のために割く時間が無くなっていくのは明白でしょう。
おいらは「贔屓はしても良い」モノだと書いてきました。
その理由としてこういう事情があったわけです。
人間というのは成長し続けなければ、そこからの成長はありません。
改善するべきところはたくさんありますし、立ち止まるというのはただ立ち止まるというわけではありません。
聖書的な出版物の中の表現を借りるならば現在の世界を大きな川の流れに喩えられています。
そして努力すると言うことは川の流れに逆らい泳ぐことを意味しています。
立ち止まるということは「ただ」止まるのではなく、川の流れに「流されていく」ことを意味しています。
だからこそ努力し生きていかねばならないと常々思うのです。
努力に男女という性別で違いがあると判断されるというのは間違いでしょう。
全ての人間がそれを評価するべきでしょう。
先日、上の妹君と弟君との会話の中で「異性の励ましはNGだ」と言っていました。
この思考というのは型に囚われている人間の思考だと思われます。
確かに聖書的教育の中では男女の交わりや関係は良く考えて慎重になるようにと書かれていますからね。
このことと照らし合わせた上でおいらは「異性など関係ない」と書いているわけです。
そこに恋愛感情などが絡んでくるなら問題があるのかもしれませんがね。
そもそもおいらは恋愛対象になることは無いでしょう。
まず外見が醜悪ですし、服のSenseなども皆無です。
性格も相当なひねくれ者ですからな。
そういう目で見られるのは非常に違和感を覚えます。
まあね。
以前は恋愛対象として好きになった女性のことを
断崖絶壁の上にある可憐な一輪の花
のような気がして近寄りがたいと感じていました。
しかし人間というのは経験と知識というのは学ぶ度合いにもよりますが似通っているのだと理解できるようになってきました。
あれだけ近寄りがたかった存在がこんなに身近に感じるようになるとは考えもしませんでしたな。
今好きな人間が居るかどうかを問われると
「居ると言えば居るし、居ないと言えば居ない」
というStanceになりました。
基本的においらは人間嫌いです。
それと「好き」の定義も違いますな。
「恋愛対象」としての「好き」ではなく
「その人が最善を尽くしている故に好ましい」
と言う意味での「好き」になっています。
これは一生懸命に頑張っていたり、我慢し始末していたり、自己改善で努力している方たちが好きなんですよね。
男性の場合は「格好いい」とか「渋い」「Cool」だと思います。
女性の場合は「美しい」「綺麗」「可憐」「可愛い」「健気」と感じますな。
「Chic」と言う言葉は男女ともに使える良い言葉かと思います。
少し話が変わりますが、息を呑むほど美しい人って居ますよね。
そう言う人って必ず近くに好きな人がいることが多いんですよね。
吃驚するぐらいに綺麗なことがあります。
そう言う人を見ると
「なるほど近いうちに結婚するんだな~」
と推測できます。
結婚式に何度も参加してきましたからな。
そう言う方たちって解るんですよ。
心理学的にも綺麗だと感じる理由があります。
まあそう言うことを書いていくと、怪しくて如何わしい内容になっていくので控えましょうかね。
おいら自身は結婚なんて考えもしませんでした。
以前にも書きましたが、おいらが結婚なんて論理的に考えても、物理的に考えてもまず無理です。
そう言えば結婚願望の強い人間が多いのも気になりますね。
Christianは男女間の接し方に慎重になる必要がありますが、結婚となるとより一層慎重になるべきだとしょっちゅう言われています。
耳に胼胝ができるぐらいに言われ続けているのですがね。
恋愛感情が絡むと人間というのはどうしても生々しい感情が発生してしまいます。
独占欲、嫉妬、「良いところだけを見せたい」などの感情や損得勘定が発生します。
よって異性と話をしていると気に食わなかったり、機嫌が悪くなったりします。
また自分自身の一面しか見せなくなるというのは何かと問題が発生します。
確かに好きな人には良いところを見せたいと思うモノです。
しかし悪いところを見せることが出来るぐらいに打ち解けるというのは重要でしょう。
良いところしか見せないというのはその関係性は非常に薄っぺらなモノにしか過ぎないといえるでしょう。
極端な事を書くと「親しき仲にも礼儀あり」とは言いますが、屁を放いても気にしない関係になれるとそれは物凄く親しい関係になっていると言っても良いでしょう。
そう言えば家庭の中でも家族の前でおならをしたことが無いという人がいて吃驚しました。(笑)
おならは極端ですね。
地が出るなどの家族内での話し方などが出てくると関係性が深くなってきていると見ても良いかもしれませんな。
恋愛感情は別としての話も書きましょうかね。
「一宿一飯の恩」という言葉があります。
この関係性というのは予想以上に深いモノになりがちです。
「同じ状況で同じ事を一緒に行う」というのは打ち解ける効果が絶大なんですよね。
同じ事をしていると共通の土台というのが必ず発生します。
Situationが違う場合には全く感情移入できない事が一緒に物事を行い会話していると「通じ合っている」という心理が働くのです。
励ます際に一緒に食事をすることや一緒にDriveしたりして行動を共にするというのは効果的であると考えて行動している訳ですな。
まあ異性とはほとんど一緒に行動する事はありませんがね。
先日は下の妹君と一緒に行動して観光案内したのですが喜んでいたようなので良かったです。
・表面的な励ましを施す人間
・継続的に励まし続ける人間
男女の違いとともに上記の2種類にも分類できます。
表面的な励ましというのは落ち込んでいる人間に気が付いたなら「その時だけ」励ます人間です。
継続的に励ますというのは心の中で常にその人のことを考えて何かしらその人の益となりたいと願い考え続ける人間が行う励ましです。
これは「励まし」という行為だけではなく、何かしらのActionを起こす際の本気度を計れるかと思います。
本気度は言葉の扱い方にも繋がることがあります。
言葉を軽く扱う人間は行動にも信用や信頼を置けることはありません。
聖書の言葉にこのようなモノがあります。
「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり、
ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です。」
何かしら物事を行う提案をした際にはその言葉に責任が伴います。
提案するに際してはそれを実行することは求められていることなのです。
よって「気遣いの言葉を掛ける」ということはおいらにとっては
「ずっと気遣う覚悟を決めた」
ということを意味します。
これは改善の余地が本人にあり、それを改善するべきだと思った時点で解消されることがありますがね。
おいらは自分に甘い人間とは相容れません。
自己改善に努める人間のために何かしら物事を行いたいと願っています。
そうなると自分に甘い人間のために使っている時間が惜しいと思うようになります。
残念ながら人間の時間というのは現時点では無限ではありません。
限りがあり他人のために行動できる時間というのは限られています。
その限りある時間を成長しようと努力している人間のために使うのか、自分に甘く生きている人間のために使うのかを選べと言われるとおいらは必ず前者を優先します。
確かなこととしておいらは人を選べる立場にはないでしょうね。
しかし自分の時間が限りあるモノで自分の労力、資産、精神的体力、肉体的体力も同様です。
そう考えると
「自分を高めるために生きている人間のために物事を行いたい」
と願うのは必然的に発生する感情だと分析できました。
これは男性でも女性でも変わりはありません。
自己改善をするために努めている方たちのために行動する努力をすると甘く生きている人間のために割く時間が無くなっていくのは明白でしょう。
おいらは「贔屓はしても良い」モノだと書いてきました。
その理由としてこういう事情があったわけです。
人間というのは成長し続けなければ、そこからの成長はありません。
改善するべきところはたくさんありますし、立ち止まるというのはただ立ち止まるというわけではありません。
聖書的な出版物の中の表現を借りるならば現在の世界を大きな川の流れに喩えられています。
そして努力すると言うことは川の流れに逆らい泳ぐことを意味しています。
立ち止まるということは「ただ」止まるのではなく、川の流れに「流されていく」ことを意味しています。
だからこそ努力し生きていかねばならないと常々思うのです。
努力に男女という性別で違いがあると判断されるというのは間違いでしょう。
全ての人間がそれを評価するべきでしょう。
先日、上の妹君と弟君との会話の中で「異性の励ましはNGだ」と言っていました。
この思考というのは型に囚われている人間の思考だと思われます。
確かに聖書的教育の中では男女の交わりや関係は良く考えて慎重になるようにと書かれていますからね。
このことと照らし合わせた上でおいらは「異性など関係ない」と書いているわけです。
そこに恋愛感情などが絡んでくるなら問題があるのかもしれませんがね。
そもそもおいらは恋愛対象になることは無いでしょう。
まず外見が醜悪ですし、服のSenseなども皆無です。
性格も相当なひねくれ者ですからな。
そういう目で見られるのは非常に違和感を覚えます。
まあね。
以前は恋愛対象として好きになった女性のことを
断崖絶壁の上にある可憐な一輪の花
のような気がして近寄りがたいと感じていました。
しかし人間というのは経験と知識というのは学ぶ度合いにもよりますが似通っているのだと理解できるようになってきました。
あれだけ近寄りがたかった存在がこんなに身近に感じるようになるとは考えもしませんでしたな。
今好きな人間が居るかどうかを問われると
「居ると言えば居るし、居ないと言えば居ない」
というStanceになりました。
基本的においらは人間嫌いです。
それと「好き」の定義も違いますな。
「恋愛対象」としての「好き」ではなく
「その人が最善を尽くしている故に好ましい」
と言う意味での「好き」になっています。
これは一生懸命に頑張っていたり、我慢し始末していたり、自己改善で努力している方たちが好きなんですよね。
男性の場合は「格好いい」とか「渋い」「Cool」だと思います。
女性の場合は「美しい」「綺麗」「可憐」「可愛い」「健気」と感じますな。
「Chic」と言う言葉は男女ともに使える良い言葉かと思います。
少し話が変わりますが、息を呑むほど美しい人って居ますよね。
そう言う人って必ず近くに好きな人がいることが多いんですよね。
吃驚するぐらいに綺麗なことがあります。
そう言う人を見ると
「なるほど近いうちに結婚するんだな~」
と推測できます。
結婚式に何度も参加してきましたからな。
そう言う方たちって解るんですよ。
心理学的にも綺麗だと感じる理由があります。
まあそう言うことを書いていくと、怪しくて如何わしい内容になっていくので控えましょうかね。
おいら自身は結婚なんて考えもしませんでした。
以前にも書きましたが、おいらが結婚なんて論理的に考えても、物理的に考えてもまず無理です。
そう言えば結婚願望の強い人間が多いのも気になりますね。
Christianは男女間の接し方に慎重になる必要がありますが、結婚となるとより一層慎重になるべきだとしょっちゅう言われています。
耳に胼胝ができるぐらいに言われ続けているのですがね。
恋愛感情が絡むと人間というのはどうしても生々しい感情が発生してしまいます。
独占欲、嫉妬、「良いところだけを見せたい」などの感情や損得勘定が発生します。
よって異性と話をしていると気に食わなかったり、機嫌が悪くなったりします。
また自分自身の一面しか見せなくなるというのは何かと問題が発生します。
確かに好きな人には良いところを見せたいと思うモノです。
しかし悪いところを見せることが出来るぐらいに打ち解けるというのは重要でしょう。
良いところしか見せないというのはその関係性は非常に薄っぺらなモノにしか過ぎないといえるでしょう。
極端な事を書くと「親しき仲にも礼儀あり」とは言いますが、屁を放いても気にしない関係になれるとそれは物凄く親しい関係になっていると言っても良いでしょう。
そう言えば家庭の中でも家族の前でおならをしたことが無いという人がいて吃驚しました。(笑)
おならは極端ですね。
地が出るなどの家族内での話し方などが出てくると関係性が深くなってきていると見ても良いかもしれませんな。
恋愛感情は別としての話も書きましょうかね。
「一宿一飯の恩」という言葉があります。
この関係性というのは予想以上に深いモノになりがちです。
「同じ状況で同じ事を一緒に行う」というのは打ち解ける効果が絶大なんですよね。
同じ事をしていると共通の土台というのが必ず発生します。
Situationが違う場合には全く感情移入できない事が一緒に物事を行い会話していると「通じ合っている」という心理が働くのです。
励ます際に一緒に食事をすることや一緒にDriveしたりして行動を共にするというのは効果的であると考えて行動している訳ですな。
まあ異性とはほとんど一緒に行動する事はありませんがね。
先日は下の妹君と一緒に行動して観光案内したのですが喜んでいたようなので良かったです。