扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

完璧な人間について考える 2007.03.21

2007-03-21 23:54:59 | Weblog
あくまでおいらの考えですけど少し気になっていることなので書きます........

人間が完璧になったならどうなるのか?

この疑問に対しての答えは現時点の人間には理解できません。
しかし人が考える「完璧な人間」に対しての考え方には同意できない自分がいます。
他に人が思い描くのを少し例を挙げて見ようと思います。

完璧な人間になれば
・失敗はなくなる
・忘れることがなくなる
・何でも最初からすべて出来る

などです。
しかしもしおいらが神様であったならこんなにも面白味に欠ける完璧にはしないでしょう。
あくまでおいらの考え方だと言うことを前庭に呼んでいただければ幸いなのですが、人間というのは完璧になっても学び続ける必要は絶対に不可欠です。

失敗について
特に失敗から学ぶことは非常に大切な事だと思います。
もし失敗が無くなるなら、「全部が成功する」ようになるなら、物事から得る喜びが非常に小さくなるでしょう。
神様はそんな狭量な方ではないと考えています。
全部が全部成功することは有り得ないとも思いますし、完璧になっても努力によってでしか得られないことが絶対にあるはずです。
完璧になっても失敗はすると思いますし、失敗によって喜びが大きくなるのですから喜びを与えることを喜びとされている神は人間をそのように存在させておられると思います。
まあ完璧になったことがないのでおいらの理解の範疇をこえていますが、人々が考える完璧な人間の完全無欠の像にはついて行けません。

忘れることがなくなることについて
これは今の状態からは考えられないほどの知識レベルを有することは間違いないでしょう。
脳の90%は現在の人間の状態では使用できていないことも科学的に理解されつつあります。
しかし現在の科学のレベルで人間の身体を解明しようとすることの方が問題があります。
人間の身体というのは設計は神様であり、その神様の知識で作られているのですから理解できないのは当然です。
「超自然的」とか「奇跡的」などの回復力が存在します。
その事からも人間の見地での理解ではたかが知れています。
コンピューターと比較される事がありますが、現在地上に存在するコンピューターをすべて合わせるならば何人かの人間の記憶力や思考力を再現できるという憶測が成されています。
確かに記憶力の点ではコンピューターというのはほとんどの場合正確に記録されているのであればほぼ確実に正しいことでしょう。
しかし有機的な事態には全く対処できません。
その点を考えると臨機応変に対応できる人間を再現することは非常に難しいでしょう。

また「感情の再現」はコンピューターには不可能です。
おいらの見地でしか書けないのですが、記憶の正確性はコンピューターの方が正しいことが多いかも知れません。
でも様々な複雑な思考が瞬間的に爆発的に増えたり、感情の表現方法をコンピューターには習得できるはずもありません。
所詮はプログラムでしかなく、すべてのコンピューターを駆使しても一人の人間を再現することは不可能だと考えています。

何でも最初からすべて出来ることについて
これはあり得ません。
例え手本を見せてもらってもそれを再現できる下地が出来ていないのであれば無理だからです。
また下地が出来ている場合でも同じ動作を確実に毎回行えるとは言い切れません。
人間の良いところと言うのはロボット開発者の言葉を借りると「無駄な動き」があるから良いのです。
より人間的に作れば作るほどコンピューターには再現できない動きが出てきます。
確かにコンピューターの方が優れている動きもありますがね。
コンピューターの方が優れている動きが出来ると言ってもせいぜい一つのことに特化しているだけであってトータル的に考えるのであれば、不可能でしょう。
こんなに万能に作られている人間の身体を考えると神の思考の深さが容易に理解でき、人間には理解できない深遠な真理が潜んでいることも解ってきます。

加えて努力して手に入れた技術というのは、再現が非常に難しいのも理解できます。
不完全な今の状態でしか測れないので格段に「技術の習得」は短縮されることは確かでしょうけど、それでも努力してでしか得られないモノがあるはずです。

おいらの「完璧な人間像」は現在の生活とそう変わらないと言うことを書きたいんですな。
まああくまでおいらの考えですから間違っているでしょう。
確かなことはもっと健康で病気は存在せず、悪いところがなくなる事は間違いありません。
またすべての人と理解力の点で秀でたモノと劣ったモノという明確な個体差がなくなるでしょう。
努力したならその分得るモノがあり、努力しないなら何も得ることがなくなることも間違いありません。


おいらは努力しない人間が嫌いですのでこのような考え方になるのかも知れませんな......

加えて神様に関しての考え方も書いておきます。
先日の学生を連れてmatsuyamaに行った際に帰りに「神様の強さ」に関しての話になりました。
この子の話では

「悪魔と神様の強さの違いはRPG(ロールプレイングゲーム)の主人公の一番最初の状態とラスボスぐらいの違いなのではないか?」

ということを言いました。
これは全く次元の違った話でしょう。
少なくとも主人公とラスボスが戦う場合に攻撃の機会が与えられますからね~。
そもそも悪魔が神様に近づくことは不可能です。
またもし近づく事が出来ても攻撃の機会はないでしょう。
神様は悪魔などの霊者の基準でも時間の概念が全く異なります。
というより神様には時間の概念が存在しません。
時間の概念が存在するのは神様の創造物であり、その子供たちやモノたちにしか適応されません。
その事を考えると神様と悪魔を同じ土俵に入れること事態が失礼に当たることは明白です。
RPGで考えるならば原案提案者や開発者、作成者以上の力を有しておられることは間違いありません。
そもそも人間が作るモノすべてはあらかじめ神様が作られたモノであることを考えると自ずと答えが見えてくるでしょう。
人間の考えでは理解できないことは間違いなく、神様はこの世界に「神の知識」を人間がすべてを把握できないほど満たされました。
というより人間が理解できる出来ないの話ではないでしょう。
聖書には解りやすく説明が成されていますが、神様の過分のご親切によって把握できないほど満たされたことを書かれているに過ぎません。
人間が考えている把握の基準と神様の考える把握の基準は全く違うことも当然です。

色々と会話していて感じたんですが、こんなに知識で溢れている事を感じることは喜びです。
これからも学び続けたいと思います。

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