扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

夜回り先生の番組を見て感じたこと

2006-11-06 18:40:59 | Depression,Melancholy & Thought
テレビで放送されています...........

彼は「悟りの境地」にというのに達しているような語り方をします。
愛情を言葉の一つ一つに込めて話します。
聖職者という言葉が相応しいでしょう。

でも人間的な考えから抜け出せないところがあるような気がします。
人の死というのは生まれでた時から皆平等に訪れる唯一で絶対のものです。
聖書には「人は死ぬ事を知っている」という言葉があります。
”絶対的”な「人が生きる理由」を示すことができていないと感じるのです。

子供を殺してしまったという罪の意識から「薬の知識」をたくさん調べた事が話の端々で解りました。

人が追いつめられて薬に頼ってしまった人間を見てきた経験を講演会で語っています。
最終的に死ぬ場に立ち会った事を語ります。
その生々しい表現は人の死について人を考えさせるものだと感じます。
でも聖職者のようなこの先生でさえ人が追いつめられて死ぬまで薬を使い続ける事を辞めさせる事ができないのです。
この人はあらゆる若者を見てきてあらゆる自虐的な行為を見てきて蝕んでいくところを見てきました。
死への過程をいくら語っても強い動機がないと人間というのは余程の事がないと依存しているものからは離れようとはしません。
人間というのは「人」に依存し、「薬」に依存し、「ギャンブル」、「酒」、「医療」など例をあげればどんなものでも依存症ということができるでしょう。

確かに暖かい声で話を聴いてもらえるとうれしいものです。
しかし気遣いというのは人間は一回に一つの方向にしかできません。
どんなに気遣っていると言っても人間には限界があるのです。
それに一時しのぎになりこそすれ恒久的な解決にはなりえないのです。

人間というのは毎年、毎月、毎日、毎時間、毎分、毎秒を選択して生きていかなければなりません。
そしてその選択は楽な方へ、気持ちがいい方へと向かいがちです。
また将来に対して「希望」を持っていない場合は後先の事を考えず、最悪の選択でも「気持ちが良い」という選択をしてしまいます。
若者の傾向は特に「今楽しければ何をしても良い」という考え方が普通になってしまっています。
加えてスポットが当たるのは「若い時」で年を取って後悔をしている人間が多いはずなのにその人たちには目を向けようとはしません。
「若気の至り」は話題になりますが、「年を重ねた後の後悔」は聴きたくないという事なのでしょう。


まあこのように書いているおいらも自分が死ぬ事を考える習慣があります。

それに彼のしている事は一部の若い人を救っていますし、彼の書いた本は多くの人を諭し、多くの命を救っているのも確かでしょう。
彼のやり方を批判するつもりはありませんが、諭す時の将来設計では「自分の幸せ」という自分の主観でしか見れていないような気がするんです。
もっと永続的な将来設計を考えないと「生きる動機」には力強さがありません。

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