扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.126 2014.12.22

2014-12-22 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
Christianの大きな集まりがあり広島の方に行ってきました...................

弟と会話をしました。
弟も意外と考えたり、悩んだりしているようでした。
これ以上になるとかなり苦しい物になる可能性がありますね。

わたしが「世界に絶望した日」は中学生の頃に

四国に引っ越しをする

事がRealになってきた時期です。
まだまだ子供だったので自立して一人暮らしをするという発想すらありませんでした。
今でこそ、
あの時に自立しておけばよかった
と痛烈に感じるのですが、絶望感を抱き続けると

人間は壊れる

ようになっているんですね。
わたしが求めていたのは「理解」でした。
しかしわたしを理解できるのは自分しかいませんでした。
弟が最近、というか2014.12.21-22の広島までの道程で苦しんでいることを知りました。
ただ、ここで大切なのは理解できる人間が居るかどうかです。
そして生憎ですが、ここでわたしの出番だったわけです。

彼の言動というのはわたしが感じた不条理の(聖書の表現をお借りするならば)「表層を撫でる」ようなモノだったんですね。
わたしが感じてきたLogicを簡単に簡略化したモノでしか無かったわけです。
そしてわたしが絶望を感じ苦しみ始めたのは、中学卒業前の頃でした。
弟は現在20代なかばです。
この歳になってやっとわたしの論理的思考からくる絶望の簡略版を味わうことになってきたんですね。
やっと絶望を軽く感じ始めてきたわたしだからこそ彼の気持ちをより深く理解できますし、彼のこれから味わう絶望も殆ど全てを理解できるでしょう。
なぜわたし以外の人間が苦しみを味わう必要があるでしょうか。

わたしはわたしが軽減できるものであるならば、
わたし以外の人間がわたしの近くにいる限りは
わたしと同種の絶望を味わう事のないように尽くきた

のです。
論理的思考は多くを理解できますが、多くの苦しみも生み出す「諸刃の剣」です。
ロジカルになればなるほど、感情的に生きている人間の行動原理が浅ましく、軽いものだと感じるようになっていきます。
人間の殆どは「感情重視」で生きています。
これがロジカルな人間にとって如何に苦痛を与えているのかはロジカル側になっている人間でなければわかりません。
一部の論理的思考では理解しきれません。

全体を覆う論理を手に入れる必要があります。
Lifestyleという言葉がありますし、よく用いられますよね。
しかし「Life Design」が出来る人間をわたしはほとんど知りません。
一部の教育水準に達している人間は素晴らしい水準のロジカルシンキングを取得できるようですがね。
美しいLifestyleを送っている人間をわたしは見たことがありません。
調和もなければセンスも無いと感じている人が少なくありません。

私自身がセンスが有るかどうかで言えばあるとは言い切れませんが、

「美しくない」

と理解できる審美眼はどうやら持ち合わせているようです。
また、どのような生き方が美しいのかも多少は理解できます。
わたしが理想とするのは「妥協前提」ではなく、「妥協なき世界」です。
一つでも妥協を許してしまうと、そこから100%絶対に「綻び」が生まれます。
一つの聖書の出版物の例として「権力」のことが語られていました。
「絶対的な権力は絶対に腐敗する」というような内容の言葉が綴られていました。
これは妥協にも当てはまります。
妥協は妥協を生み出します。
つまり一度妥協してしまえば多くの妥協を生み出すのです。
嘘と一緒ですね。
嘘は雪だるま式に膨れ上がっていきます。
それと同様に妥協も小さな妥協が大きな妥協へとつながり、納得や満足からは乖離しすぎるのです。

では美しいLifestyleとはどのようなものなのでしょうか。
それは美しい「円」のような存在だと言ってもいいでしょう。
円というのは360°の線が繋がっているから円なのです。
それが1°分の線が途切れるだけで円ではなくなるのです。
円の線は同じカーブの線が繋がっているからこそ円であるといえるのです。
妥協というのはこの円が歪むことを意味しています。
「反動形成」という言葉があり、もし一部が飛び出すと後に続く線は凹んで波打つような感じになってしまうんですね。
円形ほど調和のとれた曲線はありません。
ただその円を構築することが如何に難しいことかがわからずに生きている人が多いのです。
人は成長分、円が大きくなっていかなければならないのですが一部分がボトルネックになり大きく成れていない人がとても多いんですね。
理由は簡単です。
人間は全体的、総合的に大きく成長していかなければならないのです。
それなのに自分の得意なところだけを成長させてしまい、とても歪な形の楕円とも呼べない酷い形の図形が出来上がります。

そう言えば聖書の出版物だったか、講演や発表会の中で聞いた話の中で解りやすい喩えを思い出しました。
とても深い穴を掘らなければならないとします。
ではどのように掘っていくことが出来るでしょうか。
自分が得意なことだけを行うことはボーリング作業に似ているでしょう。
そしてこれは無駄かというと全く無駄ではありません。
地質調査を出来ますし、どのような機材が必要かなどの費用を計算できるからです。
ただボーリングの穴では作業どころではありませんね。
ただ開いた穴を眺めることが出来るぐらいです。
深い穴を掘り、その底で何かしらの大きな作業を行いたいのです。
どのように作業を進めるでしょうか。
ボーリングの穴を起点として、周りを掘り始める必要があります。
広く浅くを繰り返し繰り返し行う作業が必要になっていくのです。
とても大きい深い穴は遠目で見ると「蟻地獄」と良く似た形になっていることに築くでしょう。
あのような形を構築するには意外と余計な作業というのがとても多いのですよ。
物事を深く実行したいならば「費用を計算する」必要性は確実に求められもするでしょう。
得意なことは進んでしますが、苦手なものを避けている人は「その分の成長が遅れている」ということを認識するべきです。
得意なことは簡単です。
小さい面積を掘り進めばいいのですからね。
機材を一度揃えてしまうと大概は深くは掘れるものです。
コツは要るでしょうけどね。
得意なことなのですから簡単にできるんですよ。
しかし人間は総合力が結局は求められていくのです。
ということは苦手なこともある程度こなせる必要も当然求められていきます。
得意なことばかりやっている人間は得意なことを簡単にできるので他の分野を面倒だと思いがちです。
というか得意なことだけをやり「食わず嫌い」になったり、得意なことをやっているのだから「それだけをやっていれば良い」とも思うんですよね。
ただ得意なことだけをやっていくのにも限界がありますよね。
世の中の殆どは無駄に思えるルーティンワークで占められている事実も受け入れる必要があるのです。
花火を打ち上げたいのであれば、花火を制作するプロセスを理解しとても大きな制約を負うということを理解しなければなりません。
そして簡単な論理でもわかることですが、

一朝一夕には完成するものではない

ということを多くの方は、全く理解できていないのです。
円の例えに戻りましょう。
まずは美しい円を作り出すことを目的とすべきなのですが、それをまず理解し調和のとれた状態にする必要があります。
得意なところだけを伸ばしすぎて疎かになっているところは放置することが当たり前になっているのを見ると酷い違和感を感じます。
だれでも一つのことは巧くなれるのは当然です。
しかもそれが得意ならば得意であるほど巧くなれるのは当たり前なのです。
ただBreakthroughをしたいならば「基礎力」を上げる必要性があります。
その基礎力が「正円」の最大値なんですね。
美しい円が大きければ大きいほど基礎力(Total Average)が大きいとなります。
そして知っている人からすると「費用を計算しやすくなる(Total Averageが計算できる)=戦力として数えられる」ということを意味しているのです。
得意な所に特化しているだけの人間は所詮は一時的な起用にしか使えないのです。
逆に円が大きくて美しい正円が描けている人間の本質を知るならば、それはそれまで行ってきた「努力」を理解できることを意味します。
円を描くためには苦手なことを克服する必要性が必ず必要になり、反動形成で苦手なことを克服する過程で逆にその苦手な部分が他の人と比較すると巧くなるという現象が起こりうるのです。
そして人はそれを本人に聞かなければ苦手だったなんて思いもしないぐらいには成るのですよ。
苦手を意識している故に、その分でその意識が非常に強くなり、克服したいと願い続け、努力をし続けることで昇華されるのです。

成長の因果関係を理解しながら取得していくのと、理解せずに取得していくのとでは大きな違いがあります。
理解しつつ成長を経ていくならば応用することを考えることで、自分が得意とすることに深く影響があることもわかるのです。
それに対して理解せずに成長をしていくのは、ただただやりたくないことを行う必要があり、遣りたくないことばかりしていると「苦痛」になります。
わたしからすると「苦痛」は「成長」の対義語なんですよね。
苦痛を味わう作業をしている期間にも因果関係を知っている人間は粛々と苦手な作業を行います。
というより先ほど書いたのですが、論理的な思考をしている人間は、苦手な作業を下手をすれば得意な作業にまで「昇華」させることも可能なのです。
理由は先にも書いた通りで自分の得意な事柄と関連していることを理解していますので、苦手なことを取得していくプロセスでさえ「楽しい」と感じるようになっていくのです。
「楽しい」というのは「成長」と同義語です。
ということは成長している自分自身が「行う全ての物事」に価値が生じてくることを理解できるでしょう。
こうなるとこちらのものです。
なにせ自分が行うことに価値が有るのですから、

経験する事柄、物事、行動、思考、論理に意義が発生せざるを得なくなる

状態になります。
わたしは

全ての行動に意義を見出したい

と願って生きてきました。
しかし多くの人は

すべての事柄に意義を見出すことは不可能である

と考える人が少なくありません。
わたしはやりたい仕事と遣っている仕事の関連性が薄すぎ、仕事の内容があまりにもかけ離れていることに絶望を感じて仕事をしていました。
確かにわたしはすべての行動に意義を見いだせる方です。
ただ仕事の量と自分の体力や精神力の用い方、そしてコストパフォーマンス、なにより

「納得し満足できるかどうか」

を蔑ろにされて押し付けられていたんですね。
わたしの仕事内容は以前にも書きましたが、3人分程度の仕事量は軽くしていたのです。
営業、配達、事務で3人分ですが、配達の仕事量だけでも軽く逆算しても3人分はやっていました。
ということはとてもハードな激務を負っていたことになりますね。
通常は1週間かけて配達するところをわたしは週3日のアルバイトという扱いで1週間分の配達を行っていたのです。
当然ですが、無理が来ます。
そして給料は仕事量に対してとても安価なものでした。
ある程度は我慢出来たのです、この仕事が遠回りしてでも自分がやりたい事と関係があると理解できていましたからね。
しかしわたしのサービス精神と仕事への取り組み方は只管に真摯なもので休憩をしてはならないとも考えていました。
食事休憩も10分も取らず、朝7時ぐらいから夜7時ぐらいまでの過酷な仕事量をこなしていました。

更に苦しかったのはわたしが所属する宗教の上司みたいな人とわたしの価値観の相違がとても大きいこともありました。
「やりたい仕事を出来ている人は居ないし不可能だ」という彼の感情や主観に基づいた一方的な論理です。
また、彼の言動と行動の乖離がありましたのでよりわたしは苦しみました。
わたしにはこれは駄目だと言っておきながら、自分ではそれを行って構わないという自己中心的な行動を目撃していたのです。
感情や主観に基づく人間の行動というのは一時的な行動に一々囚われないんですね。
でも論理的に考える人は違います。
行動には一貫性が伴っているものだと考えるからです。
つまり言っていることと行動に整合性が取れていなければ「自責の念」を必ず感じるようになっているのです。
よって自分が出来ていないことで助言を行う際には断りの言葉を躊躇うこと無く用います。

「自分は出来ていませんが、~」とか
「口で言うのは簡単だけど実際に行うのは難しいよね。自分も難しいと感じているのだけれど、~」

という感じの言い方をするはずなのです。
そして最悪なことにChristian活動と仕事の両方でこの自己中心的な人間と仕事をすることになりました。
そうなると仕事のこととChristian活動両面で、無理難題を言うようになっていきます。
自分自身にも大きな原因がありました。
わたしは自分に絶対的に「自尊心」がありませんでした。
よって他の人の言うことが全て正しいと考えて生きていたのです。
どんなに大きな矛盾があろうとも、

自分が間違っていて他の人が言っていることが正しいのだ

と信じて生きていたのです。
しかしロジカルになればなるほど矛盾に苦しみ、

仕事量と給料の兼ね合いが著しく乖離していること
助言という説教に一々敏感に反応し、非常に厳しく自分を裁いていたこと
そして納得とか満足などとはかけ離れた生活を送らざるを得ない生き方をしなければならないこと

が自分自身を内面から蝕んでいきました。
人間は否定ばかりされていると「燃え尽きる」のです。
ロジカルで納得できる答えを提供していただける人ならばわたしはここまで苦しむことはなかったでしょう。
親兄弟、親族、そして友人、クリスチャン、知人で一人でも近くにわたしを知ろうと努力し気遣ってくださる人がいるだけでどれほど救いになったでしょう。
わたしは仕事を選べないということを中学生の頃、こちらに引っ越してくる前には既に理解していました。
田舎で人口も少なく、人間的に酷い人間ばかりであることは明白な土地に引っ越すことを受け付けなかったのです。
論理的に考えるとこれは簡単に結論がつくことです。
ロジカルな人間は少なく、わたしが住む地域のほとんどの人間は自己中心的で自分の家族さえ良ければ良いと考える人間です。
そして当然、仕事についても個人経営の店ならば自分の会社の利益さえ出ていれば他人をこき使うことが当然だという思考の持ち主ばかりなのです。
「ブラック企業」と最近は良く言われていますが、わたしの職場はまさにブラックでしたね。
というかわたしが住む地方では優良企業と呼ばれるのは他所から入っている企業の方が優良だと言ってもいいのでしょう。

「人生が詰む」という言葉も最近使われるようになりましたよね。
これはわたしが四国のど田舎に来ることが決まった時点で「詰んだ」事を理解していました。
理由は言わずもがなで、父親の仕事量が絶対的に減るのは当然です。
関西の方で40万都市に住んでいて、今から考えると中流の生活を送っていた我が家は四国に来て超底辺の生活に鞍替えをしました。
ということはです。
より一層、仕事を選べない事態になっていきます。
納得できる仕事であればわたしは「食っていければ良い」だけの仕事量があれば満足できるのです。
こんなささやかな願いも間違っていると言われ続け、仕事形態は通勤があるモノが最良で、その中でも「公務員」がもっともいい仕事だと考える論理的な破綻者が行き着く結論を良しとする人間ばかりの土地で生きていかなければならないことに精神力がもたなくなりました。
今から考えるとわたしはとてもToughな精神力の持ち主だということがよくわかります。
加えて他の人が悩んでいることが如何に簡単に解決することなのかも理解できていました。
視点を変えるだけで解決する問題が多いのです。

追い詰めるだけ追い詰めて、壊れてしまうと責任を放棄して逃げてしまう

のがわたしの地方の傾向です。
今でもこの傾向がありますね。
一つ一つの発言が表面的にしか考えずに行っているということが明白なんですよ。
そして気遣っているようで、自分の言い分を通すことしか考えていないということも分かりますし、それに対しての反論を行うとたとえこちらが正しくても自分の意見を正そうとはしない人間ばかりです。

どちらが愚かなのでしょう。
どちらが物事をよく考えているのでしょう。
どちらが論理的で説得力があるのでしょう。

彼らの言葉は金の鍍金の施された亜金属のようです。
頭を潜らさず、衝動的、突発的、瞬間的、そして咄嗟の機転で出て来た言葉だとしか考えられないのです。
深く研究し、深く黙想し、深く明察したならばそれ以上の言葉が出て来ます。
人間が出す「解」は短ければ短いほど説得力が増します。
何故ならば解を長くするのは誰にでも出来ますし、非常に簡単だからです。
しかし逆は難しいのです。
理由は簡単です。
研究や黙想、知覚力を鍛えることは金を精錬していくプロセスによく似ています。
そしてその深度によって言葉の純度は高まっていきます。
99.9999%の純度の言葉が長いことがあるでしょうか。

短くて然るべき

なんですよね。
そして言い訳がましいことがあるでしょうか。
まず深い言葉には反論の余地は殆どの場合にありません。
よって反論に言い訳をする必要性が全くないのです。
このような種類の言葉はロジカルな人間であれば理解し納得します。
納得出来ない人間は感情的で一時的な感情を重視する人間です。
揚げ足を取るつもりはないのですが、整合性が取れていないところを突かれると”漏れ無く”お約束の「逆ギレ」をしていただけます。
そして「どちらが悪いのか」という話になると指摘した方(論理的な方)が悪くなるんですね。

理由は簡単です。
相手は多数決で来る感情論者たちで論理的な考え方をする一人が勝てるはずもないんです。
というわけで殆どが

「わたしが間違っている」

という扱いになっていくのです。
なにせ多数決ですからね。
1人が2人以上の人間に勝てるわけがないのです。
自尊心を自分で培う必要があったのですが、自尊心をいざ持ってみると周りの人間の自尊心のなんと薄っぺらいことか...........
観察していると気の毒に思いますし、こちらが「悲しく」なってしまいます。
たとえ1対1で対話をしていてもこちら側に共感できる人間というのは近くには居ません。
それに対して世の中の殆どは感情論者たちですよね。
共感する人間は手を伸ばさずとも直ぐに出てくるんですよ。
ということはです。
たとえ正しいことを言っても対「数」で押し切ろうとしてきます。
仲間を引き連れて決め付けにかかるんですね。
感情論者の多くは「グレーゾーン」という言葉を知らず、数によって「白いものを黒に、黒いものを白」にすることで「自らの正義」を確認するのです。
わたしの場合は言われたことに直ぐ対応できる瞬発力や機転が欠落していると思われることが多いのですが、どうやらそうでもないんですよね。
反応として正しいことなのかどうかを確認する為に「様々な角度から検証する」という作業を頭の中で行って然るべきだと考え実行しているので結論が出るのに時間がかかるのです。
わたしの場合には基本的に「相手の意見を尊重してあげよう」とか「採用してあげたい」とまず受け入れるところから始める努力をするのです。
そして後になって「あの時直ぐに反論しておけばよかった」と思うことが少なからずあります。
じわじわ頭にくるんですよ。
わたしは「口が上手な人」を絶対に信用はしません。
その場の威力は絶大ですが、説得力は行動によってでしか証明できないのです。
「口が上手な人」はその場が良ければ良いと考えている人が多い傾向にあります。
その傾向から簡単に約束や決め事をしますが、それを後になって反故にすることは日常茶飯事です。
どちらかと言うと口達者な人には嫌悪感さえ感じていますね。

正しいことを貫きたいときは、その道をただひたすらに進み続ける必要があります。
そして結果を相手にわからせる必要があるのです。
結局はわたしのほうが正しいことが少なくないのですが、わたしのやり方は非常に遅効性です。
感情論者は経験したことでしか理解出来ないからです。
自分で考えようともせず自分の価値観が正しいと信じており疑わないのですから、余計に時間がかかるんですよ。
これはわたしの中で織り込み済みなのです。
経験したことから理解しても認めたくないものですから、自分が間違っているということを受け入れるのにも時間がかかるのです。
これは会話をしていると過程を理解できます。
言葉をかわすことで情報をたくさん得ることが出来ますよね。
人間が他人の気持ちを理解するのは不可能だと言われています。
しかしある程度の形というのは理解できるとわたしは思っています。
何故ならば蓄積したデータを元にその人の思考や論理をシミュレートすることができるからです。
わたしは関心を示している人に対して、殆どの場合に検証をした結果で理解できていることを確認しています。
細かなところは解らないかもしれませんが、大筋では分析から結論を弾き出すことは可能です。

これは規則と原則の関係と似ているのかもしれませんね。

規則というのは相対的なものでしかありません。
しかし原則は絶対的で、その故に強力な抑止力、抑制力になりえます。

人間の行動原理は、簡単に書くとその人が示している精神的傾向でありこれが「原則」として理解することが出来るのです。
そして人間というのは大きな変化というのは滅多なことでは起こりえません。
人間の傾向というのは子供の頃から変わらないということを示すことわざもありますよね。

「三つ子の魂百まで」

この言葉は的を射抜いています。
行動原理と難しく書きましたが解りやすく書くと「動機」となります。
よく知れば知るほどに行動を理解できますし、行動の方向性も理解できます。
わたしは多くのところで手綱を握り調整を行ってきました。
わたしはこの役目を「Balancer」と読んでいるのですが、この役目を放棄したならばどうなるのか今検証しています。
当然ながら結果は概ねでわたしの想定内に収まっていますし、想定内の事が至る所で発生しているのです。
これは人の行動を観察し、理解しているからこそ解るのであって、他人に興味もない自己中心的な人間にはわたしの行動が全く理解できないことでしょう。
そもそもわたしの言っていること、行っていることがどれだけ太極を見て実行しているのかが理解できる人間が居るならばわたしは苦しむことはなかったのですからね。
最近わたしはわたしを顧み、省みています。
そして良くやってきたことを本当に褒めてあげたいとさえ思えるようになっています。

良く10年生きてきたよ。
ほんとにね。
このように考えられるようになっただけでも、わたしは成長したのだと実感します。
自分のために何かを購入するということは無いかもしれませんし、限られたことかもしれません。
しかしもっと自分に相応しいモノで満たしてやりたいものです。

なにせ何度も自分を殺害し、
何度も拷問にかけ、
何度も容赦なく殺意を持って暴行し、
何度も精神的に死んできたのですから

死んだ気になれば何でもできる

この言葉に偽りはありません。
たまに恥ずかしいと思うことがありますが、人のために他の人が恥ずかしいと思うようなことをわたしは恥ずかしいと思うことはありません。
長い目で見れば些細な事でしか無いということも解っていますし、その時に必要な行動を起こすことが何よりも大切なのですから

ただ単に実行するだけ

で良いんですよ。
そしてそれを行ったなら喜んでもらえるのですから、恥ずかしいと思うことはありませんね。
他の人にたくさんやってきたのですから、もっと自分に目を向けて必要を省みてやっても良いのです。
最近、ご褒美を買いたいと思うのですが決め手と成るモノがありません。
予算もどれほど用意できるかわかりませんしね。
ただご褒美を今月中には購入しようと考えています。

久しぶりの長文ですね。
しかも超大作になってしまいました。
少し弟が悩んでいるようなので、自分の中の簡単な概略を書こうと意気込んで書きました。
個々の案件で詳細を書きたい所が山のようにありますが、今日はこれぐらいにしておこうと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。