日々、生きていくだけで人生は素晴らしいのだ..........
そう思えるだけで「どれだけ世界が変わるのだろうか」と思います。
わたしは思春期を絶望して過ごしてきました。
故に、成人して倍程度の人生を歩んでも尚くるしんでいる現実があります。
以前にも書きましたが、わたしは早々に死にたかったんですよね。
20歳ぐらいまでに死にたかった。
今でも楽に誰か殺してくれないかと良く考えています。
自分で死ぬことが出来ないことがどれだけ辛いことかと常々痛感しています。
まあね。
生きることの楽しさも有るので、いざとなれば微妙ですが.........
わたしは自分がやりたい仕事であれば、
どれほど苦しくても、どれほど苦労しても良い
と思ってなんとか自分の道を切り開こうとしました。
あの頃に、もっと自分に自信を持ち、もっと自分の事を信じることが出来ていたらとも良く思います。
それに今は余生を生きているとも以前に書いた記憶がありますが、苦しい状況は何ら変わっていない訳で....むしろ歳を重ねて仕事の環境では悪化しているとも言えるかもしれません。
アラフォーのおっさんが新しいことに取り組んでも伸び代が全く違うとも考えるようになってしまいましたし、何も身につかないという苦しさもあります。
わたしが若かった頃に、そうですね。
思い出すのは高校生活をする中で、わたしは他の人が朧気に進路を決めていたのを知っていました。
朧気に大学や専門学校に進んでいく同級生達が堪らなく羨ましかった............
わたしも手に職をつけるために進学がしたいと願っていましたね。
今こそここで吐き出す為に綴ろう。
今更何を言っているのだと言われるかも知れませんが、わたしが近畿地方のとある県の都市部から、四国のとある県のど田舎に来ると言うことは結局はそう言うことなんだと中学生ながらに絶望しました。
いっちょ前に絶望ごっこを演じていると大人達に見られていたことが、とても屈辱で堪らなかった。
将来像を考えてみても、どう考えても以前住んでいたところと比較して贔屓目に見ても発展することはあり得ませんでした。
当然ながら現在も全く町がポテンシャル以上の発展をするなんて事は無いわけで、その縛りから出たくても出ることが出来ない状態に陥っています。
思考がもう出来上がっているんですよね。
この思考からの脱却を試みているのですが、まだうまくいっていません。
大都会には以前は憧れがあったし、東京に行きたいと願っていた時期もありました。
しかし、それは現実的では無い訳で、そんなことは百も承知をしていましたね。
わたしが住んでいたのは地方の中堅都市で県庁所在地の商店街の中でした。
そこから急にど田舎に引っ越すぞと言われても受け付けられなかったんです。
せめてある程度の人口が住む都市部だろうという思いは少なからずありました。
青天の霹靂というのはああいう事を言うのでしょうね。
わたしからすると「狂人達の戯言」のように思って聞いていました。
あのような条件に乗るとは100歩譲っても到底あり得ないと思っていたことをわたしの両親はのんでしまいました。
わたしの中ではどう考えてもあり得なかったんですよね。
「甘言というのは人を狂わせますよ、奥さん」(笑)
社会性とか一般通念、学校、仕事、人間関係の構築、生活その他諸々で、こちらに来るメリットは学校以外で全くありませんでした。
わたし以外の妹たちや弟との交渉はどうだったのかは全く解りません。
妹君達にとって引っ越すことによって得られるメリットの方が大きかったのかもしれません。
わたしから譲歩を引き出すのに両親や叔父叔母はある程度の約束事をしました。
「生活レベルを下げることはしない」
「今住んでいるレベルの環境を構築すること」
「もし欠けることがあるならば全力でそれを補うこと」
といったことでしたね。
今でもですが、両親や親族が全ての責任を負わなければならないと思ってしまっている自分がいます。
責任能力の無い両親や親族にそれをどうにかして負わせたいと願ってしまっていますよ。
両親とこちらに来る切っ掛けを作った親族はどちらかというとお金にルーズで計画性を余り感じられない方々なので、約束を果たす能力が欠落していると言うより、そのような概念さえ無いのではないかとたまに感じてます。
親族に関しては以前からなので違和感は有りませんが、両親に関しては気が付いたのが、ここ数年なのだからわたしが如何に盲目だったのかが理解できるかと思います。
と言うより病んでいた.......というより洗脳されていましたね。
親族はもとより、親が如何に常識が無いかと言うことに全く気が付いていなかったんです。
親族に関してはわたしたちがこちらに来てしばらく経って役場を辞めた時点で多額の借金を抱えていることが判明しました。
非常に威圧的で、気分屋で、感情に任せて怒鳴り散らす方でした。
「でした」とは書いているけれども役場を辞めて、如何に自分が酷い人間だったのかをほんの少しだけ理解したのでしょう。
されたことと比較すると「焼け石に水」のような申し訳程度な態度で近頃は接してきます。
あれだけ偉そうなことを言っていたのにな〜とか、こちらには落ち度が無い時でも、自分の子供が馬鹿にしてきた事でこちらが怒ると子供の肩を持ち、こちらを散々けなし脅してきました。
わたしはこちらに来る前から、つまり小学生や中学生の頃から勘付いていたのですが、この大人はやっぱりこういう人間だったか〜と想像通り過ぎたので余計悲しかったな........
わたしは中学を卒業し、高校生になったばかりで両親と弟妹6人、叔父叔母と従妹弟7人と叔父の父母は近距離の近所に住んでおり一緒に住むことになりました。
従姉妹は叔父叔母が擁護するのが当たり前になり、わたしの父母も強く言うことが出来ない人達なので、従姉妹達はわたしたち兄妹弟を唆し、馬鹿にするようになっていきました。
余りにもそれが繰り返されるのでやはり頭にくた訳です。
そして泣かせるたびに従姉妹達が連携して叔父叔母に報告をしていたのでした。
そうなると烈火の如く怒り、わたしを怒ったんですね。
なぜわたしが怒られることが多かったかというと、わたしは妹弟たちが馬鹿にされることにも腹を立てていました。
そうすると従姉妹達を怒るのはわたしになり、怒ると従姉妹が泣き出してそれをチクるという循環が出来ていました。
今から考えると叔父は農家で長男ですから仕方が無かったのかも知れません。
そして、その叔父だけでは無く叔母も同じぐらいに性格が拗れていて、正直なところこの方もわたしは好きではありませんでした。
好きでは無かったでは表現が甘いな。
嫌いでした。
小学生の頃から記憶があるのですが、年末年始や夏休みのいずれかで毎年こちらに来ていました。
鈍感な人でも解るかと思うのですが、この帰省している期間だけでも叔父叔母や従姉妹達の行動の端々に農家特有の感じが見え隠れしていて気持ちが悪かったのですが、わたしの両親やわたしを含む兄妹は世間知らずで、馬鹿で、お節介で、世話焼きでしたから、「こちらが如何に損をしても」なあなあにしてしまってうまいこといっていたのです。
たまにしか会いませんでしたからね。
ある程度は繕うことは出来ますよね。
たまにしか会わない人間の「ある程度」というのはとんでもなくストライクゾーンは広いものです。
そして、叔父叔母の間には、わたしたちがこちらに来るたびに子供が増えていきました。
お金にルーズで無計画と言う事を知ったのは役場を辞めて、大きな借金があることを知ってからでしたが今から考えると多くのことで納得をする結果になっています。
そしてこのような環境がどのように事態がすすんでいくかは理解していただけるかと思います。
そのような方達の性格が真っ当である事は余程の金持ちでも無ければありません。
幸いながらというか、残念ながらと言うべきか、農家で長男ということで土地もありますし、持ち家もあります。
ただ多額の自分でこしらえた借金が沢山あったようですし、まだ多少は借金が残っているようです。
なぜ四国に来ることになったのかを書いておきましょう。
この叔父が新築の家を建てることになったのです。
それに伴い、広いから一緒に住まないかという提案がありました。
提案があった当時でさえ既に従姉妹は5人に増えていました。
わたしも散々悪いことをしてますからね。
人の悪口ばかり言ってられないとは思います。
わたしも意地悪をしましたし、言われても仕方が無いことが確かにありました。
ただ、わたしはされたことに対しての反応でやる事が多かったのは確かです。
馬鹿で単純でしたからな。
あの頃にレコーダーなんかで録音してあれば、どちらがどれほど悪かったのかは解っていただけると思います。
糾弾される際に、こちらの言い分は聞かずに「向こうの言い分しか許さない」という環境は耐えられませんでした。
そして全てがわたしが悪いと言うことで家を追い出されることになりました。
よくよく考えていただきたいのですが、前提条件として提示していた事柄が全く考慮されていません。
そして当たり前のことですが反故ずるのが前提でこちらに連れてこられたことで親や親族を恨んでもいましたし、今でも恨んでいるのでしょう。
それどころか自分の感情でしか物事を考えられない方達なのですから、仕方が無かったんですよね。
このことを解っていて一緒に同居しなければならなくなったというのは可笑しな話です。
これは笑うしか有りませんよね。
まださわりでしか有りませんが、わたしのまわりの方達が如何にゆかいなのかを少しずつ綴って行こうと思います。
わたしは忘れることが無かったのも誰かに知って戴きたかったというのもあるのかもしれませんね。
そう言えばわたしの悪事も書いていかないとフェアでは無いな。
ただ、わたしがまわりを信じて生きてきたことで、信じることが如何に間違ったことであるかを人生を持って証明することになってしまったお話に落ち着きそうですね。
「韓国」や「中国」は息を吐くように嘘を吐くと言われていますが、人生を持って学びました。
身をもって理解していますし、解り合えないと言うことも理解しないと駄目だと言うことも解っています。
というより理解して貰えないことは解るようになりましたし、期待することが間違いだと言うことも解っていますね。
そして解り合えない人間とは関わり合いになると損をすることが多く、こちらからは「基本的に何もしない」というスタンスの人が多いのも解るようになり、悲しいとも思うようになりましたね。
わたしが如何に常識が無くて、自己中心的に生きてきたのかも最近は本当に良く感じています。
独善的で、似非論理を振りかざし、自己主張だけはいっちょまえで、如何に格好をつけていたのかも理解できるようになり、あれは恥ずかしいことだったんだと思い返していますよ。
もっとそう言う方面の勉強をしないとと資料を取り寄せようと考えています。
このBlogの中でも、見返すと恥ずかしい限りな記事が余りにも多いですね。
もうね、赤面どころでは無く消し去ってしまいたい記事の多さに唖然としています。
いろいろと書いていますよね。
わたしが如何に融通が効かず、如何に自分の論理が正しいかに終始しているかを見るにつけて、「この男は救いようが無いな」という結論が簡単に出ますな。
「もう少し謙虚に、もう少し謙遜に書けよ」というモノから
「どの口が言うんだ」とか、
「どれだけ上から見ているんだよ」
「おまえが言えるほどおまえは人格者では無いし、むしろ悪党だろ」
「おまえはそこまで賢くはないし、おまえはそこまで価値が無いよ」
なんて思いますね。
鬱で病んでいた頃とは違った視点で見られるようになったからこそ、あの頃の自分がとても苦しんでいたことも事実ですし、必要以上に長引いてきたのもあります。
もっとありのままの自分を受け入れられていればどれほど楽だっただろうとも実感することも多いです。
極力で今は人と接する際に「無理せず、飾らず、自然体で」を心掛けていますが、それでも「格好つけたり、良く見せたい」といういやらしい気持ちが湧いてくる自分に嫌悪感を感じています。
また記事にするにしても素直な文章や関心のあるモノにしていこうと努めていきたいですね。
そう思えるだけで「どれだけ世界が変わるのだろうか」と思います。
わたしは思春期を絶望して過ごしてきました。
故に、成人して倍程度の人生を歩んでも尚くるしんでいる現実があります。
以前にも書きましたが、わたしは早々に死にたかったんですよね。
20歳ぐらいまでに死にたかった。
今でも楽に誰か殺してくれないかと良く考えています。
自分で死ぬことが出来ないことがどれだけ辛いことかと常々痛感しています。
まあね。
生きることの楽しさも有るので、いざとなれば微妙ですが.........
わたしは自分がやりたい仕事であれば、
どれほど苦しくても、どれほど苦労しても良い
と思ってなんとか自分の道を切り開こうとしました。
あの頃に、もっと自分に自信を持ち、もっと自分の事を信じることが出来ていたらとも良く思います。
それに今は余生を生きているとも以前に書いた記憶がありますが、苦しい状況は何ら変わっていない訳で....むしろ歳を重ねて仕事の環境では悪化しているとも言えるかもしれません。
アラフォーのおっさんが新しいことに取り組んでも伸び代が全く違うとも考えるようになってしまいましたし、何も身につかないという苦しさもあります。
わたしが若かった頃に、そうですね。
思い出すのは高校生活をする中で、わたしは他の人が朧気に進路を決めていたのを知っていました。
朧気に大学や専門学校に進んでいく同級生達が堪らなく羨ましかった............
わたしも手に職をつけるために進学がしたいと願っていましたね。
今こそここで吐き出す為に綴ろう。
今更何を言っているのだと言われるかも知れませんが、わたしが近畿地方のとある県の都市部から、四国のとある県のど田舎に来ると言うことは結局はそう言うことなんだと中学生ながらに絶望しました。
いっちょ前に絶望ごっこを演じていると大人達に見られていたことが、とても屈辱で堪らなかった。
将来像を考えてみても、どう考えても以前住んでいたところと比較して贔屓目に見ても発展することはあり得ませんでした。
当然ながら現在も全く町がポテンシャル以上の発展をするなんて事は無いわけで、その縛りから出たくても出ることが出来ない状態に陥っています。
思考がもう出来上がっているんですよね。
この思考からの脱却を試みているのですが、まだうまくいっていません。
大都会には以前は憧れがあったし、東京に行きたいと願っていた時期もありました。
しかし、それは現実的では無い訳で、そんなことは百も承知をしていましたね。
わたしが住んでいたのは地方の中堅都市で県庁所在地の商店街の中でした。
そこから急にど田舎に引っ越すぞと言われても受け付けられなかったんです。
せめてある程度の人口が住む都市部だろうという思いは少なからずありました。
青天の霹靂というのはああいう事を言うのでしょうね。
わたしからすると「狂人達の戯言」のように思って聞いていました。
あのような条件に乗るとは100歩譲っても到底あり得ないと思っていたことをわたしの両親はのんでしまいました。
わたしの中ではどう考えてもあり得なかったんですよね。
「甘言というのは人を狂わせますよ、奥さん」(笑)
社会性とか一般通念、学校、仕事、人間関係の構築、生活その他諸々で、こちらに来るメリットは学校以外で全くありませんでした。
わたし以外の妹たちや弟との交渉はどうだったのかは全く解りません。
妹君達にとって引っ越すことによって得られるメリットの方が大きかったのかもしれません。
わたしから譲歩を引き出すのに両親や叔父叔母はある程度の約束事をしました。
「生活レベルを下げることはしない」
「今住んでいるレベルの環境を構築すること」
「もし欠けることがあるならば全力でそれを補うこと」
といったことでしたね。
今でもですが、両親や親族が全ての責任を負わなければならないと思ってしまっている自分がいます。
責任能力の無い両親や親族にそれをどうにかして負わせたいと願ってしまっていますよ。
両親とこちらに来る切っ掛けを作った親族はどちらかというとお金にルーズで計画性を余り感じられない方々なので、約束を果たす能力が欠落していると言うより、そのような概念さえ無いのではないかとたまに感じてます。
親族に関しては以前からなので違和感は有りませんが、両親に関しては気が付いたのが、ここ数年なのだからわたしが如何に盲目だったのかが理解できるかと思います。
と言うより病んでいた.......というより洗脳されていましたね。
親族はもとより、親が如何に常識が無いかと言うことに全く気が付いていなかったんです。
親族に関してはわたしたちがこちらに来てしばらく経って役場を辞めた時点で多額の借金を抱えていることが判明しました。
非常に威圧的で、気分屋で、感情に任せて怒鳴り散らす方でした。
「でした」とは書いているけれども役場を辞めて、如何に自分が酷い人間だったのかをほんの少しだけ理解したのでしょう。
されたことと比較すると「焼け石に水」のような申し訳程度な態度で近頃は接してきます。
あれだけ偉そうなことを言っていたのにな〜とか、こちらには落ち度が無い時でも、自分の子供が馬鹿にしてきた事でこちらが怒ると子供の肩を持ち、こちらを散々けなし脅してきました。
わたしはこちらに来る前から、つまり小学生や中学生の頃から勘付いていたのですが、この大人はやっぱりこういう人間だったか〜と想像通り過ぎたので余計悲しかったな........
わたしは中学を卒業し、高校生になったばかりで両親と弟妹6人、叔父叔母と従妹弟7人と叔父の父母は近距離の近所に住んでおり一緒に住むことになりました。
従姉妹は叔父叔母が擁護するのが当たり前になり、わたしの父母も強く言うことが出来ない人達なので、従姉妹達はわたしたち兄妹弟を唆し、馬鹿にするようになっていきました。
余りにもそれが繰り返されるのでやはり頭にくた訳です。
そして泣かせるたびに従姉妹達が連携して叔父叔母に報告をしていたのでした。
そうなると烈火の如く怒り、わたしを怒ったんですね。
なぜわたしが怒られることが多かったかというと、わたしは妹弟たちが馬鹿にされることにも腹を立てていました。
そうすると従姉妹達を怒るのはわたしになり、怒ると従姉妹が泣き出してそれをチクるという循環が出来ていました。
今から考えると叔父は農家で長男ですから仕方が無かったのかも知れません。
そして、その叔父だけでは無く叔母も同じぐらいに性格が拗れていて、正直なところこの方もわたしは好きではありませんでした。
好きでは無かったでは表現が甘いな。
嫌いでした。
小学生の頃から記憶があるのですが、年末年始や夏休みのいずれかで毎年こちらに来ていました。
鈍感な人でも解るかと思うのですが、この帰省している期間だけでも叔父叔母や従姉妹達の行動の端々に農家特有の感じが見え隠れしていて気持ちが悪かったのですが、わたしの両親やわたしを含む兄妹は世間知らずで、馬鹿で、お節介で、世話焼きでしたから、「こちらが如何に損をしても」なあなあにしてしまってうまいこといっていたのです。
たまにしか会いませんでしたからね。
ある程度は繕うことは出来ますよね。
たまにしか会わない人間の「ある程度」というのはとんでもなくストライクゾーンは広いものです。
そして、叔父叔母の間には、わたしたちがこちらに来るたびに子供が増えていきました。
お金にルーズで無計画と言う事を知ったのは役場を辞めて、大きな借金があることを知ってからでしたが今から考えると多くのことで納得をする結果になっています。
そしてこのような環境がどのように事態がすすんでいくかは理解していただけるかと思います。
そのような方達の性格が真っ当である事は余程の金持ちでも無ければありません。
幸いながらというか、残念ながらと言うべきか、農家で長男ということで土地もありますし、持ち家もあります。
ただ多額の自分でこしらえた借金が沢山あったようですし、まだ多少は借金が残っているようです。
なぜ四国に来ることになったのかを書いておきましょう。
この叔父が新築の家を建てることになったのです。
それに伴い、広いから一緒に住まないかという提案がありました。
提案があった当時でさえ既に従姉妹は5人に増えていました。
わたしも散々悪いことをしてますからね。
人の悪口ばかり言ってられないとは思います。
わたしも意地悪をしましたし、言われても仕方が無いことが確かにありました。
ただ、わたしはされたことに対しての反応でやる事が多かったのは確かです。
馬鹿で単純でしたからな。
あの頃にレコーダーなんかで録音してあれば、どちらがどれほど悪かったのかは解っていただけると思います。
糾弾される際に、こちらの言い分は聞かずに「向こうの言い分しか許さない」という環境は耐えられませんでした。
そして全てがわたしが悪いと言うことで家を追い出されることになりました。
よくよく考えていただきたいのですが、前提条件として提示していた事柄が全く考慮されていません。
そして当たり前のことですが反故ずるのが前提でこちらに連れてこられたことで親や親族を恨んでもいましたし、今でも恨んでいるのでしょう。
それどころか自分の感情でしか物事を考えられない方達なのですから、仕方が無かったんですよね。
このことを解っていて一緒に同居しなければならなくなったというのは可笑しな話です。
これは笑うしか有りませんよね。
まださわりでしか有りませんが、わたしのまわりの方達が如何にゆかいなのかを少しずつ綴って行こうと思います。
わたしは忘れることが無かったのも誰かに知って戴きたかったというのもあるのかもしれませんね。
そう言えばわたしの悪事も書いていかないとフェアでは無いな。
ただ、わたしがまわりを信じて生きてきたことで、信じることが如何に間違ったことであるかを人生を持って証明することになってしまったお話に落ち着きそうですね。
「韓国」や「中国」は息を吐くように嘘を吐くと言われていますが、人生を持って学びました。
身をもって理解していますし、解り合えないと言うことも理解しないと駄目だと言うことも解っています。
というより理解して貰えないことは解るようになりましたし、期待することが間違いだと言うことも解っていますね。
そして解り合えない人間とは関わり合いになると損をすることが多く、こちらからは「基本的に何もしない」というスタンスの人が多いのも解るようになり、悲しいとも思うようになりましたね。
わたしが如何に常識が無くて、自己中心的に生きてきたのかも最近は本当に良く感じています。
独善的で、似非論理を振りかざし、自己主張だけはいっちょまえで、如何に格好をつけていたのかも理解できるようになり、あれは恥ずかしいことだったんだと思い返していますよ。
もっとそう言う方面の勉強をしないとと資料を取り寄せようと考えています。
このBlogの中でも、見返すと恥ずかしい限りな記事が余りにも多いですね。
もうね、赤面どころでは無く消し去ってしまいたい記事の多さに唖然としています。
いろいろと書いていますよね。
わたしが如何に融通が効かず、如何に自分の論理が正しいかに終始しているかを見るにつけて、「この男は救いようが無いな」という結論が簡単に出ますな。
「もう少し謙虚に、もう少し謙遜に書けよ」というモノから
「どの口が言うんだ」とか、
「どれだけ上から見ているんだよ」
「おまえが言えるほどおまえは人格者では無いし、むしろ悪党だろ」
「おまえはそこまで賢くはないし、おまえはそこまで価値が無いよ」
なんて思いますね。
鬱で病んでいた頃とは違った視点で見られるようになったからこそ、あの頃の自分がとても苦しんでいたことも事実ですし、必要以上に長引いてきたのもあります。
もっとありのままの自分を受け入れられていればどれほど楽だっただろうとも実感することも多いです。
極力で今は人と接する際に「無理せず、飾らず、自然体で」を心掛けていますが、それでも「格好つけたり、良く見せたい」といういやらしい気持ちが湧いてくる自分に嫌悪感を感じています。
また記事にするにしても素直な文章や関心のあるモノにしていこうと努めていきたいですね。