人間というのはいつも、常に、絶えず「Special」を求めている......................
「Special=特別」という意味なのだけれど、これは有り触れたことなのだとも思う。
人間の傾向として特別なことは毎日起こってはならないという暗黙の了解でもあるかのように避けている。
「特別な日」というのは世間一般では「誕生日」であったり「クリスマス」、「お正月」、「ゴールデンウィーク」、「お盆」などの日になるのだろう。
しかし人間が見ることが出来ていないところがある。
「毎日」が特別なのだと言うことだ。
人が生きる日々の中で一日一日を特別だと思って生きている人間は生きている時間に期限を設けられた人間であったり、死ぬ直前まで行った人間であるわけだ。
それ以外の人間というのは自分が死ぬ日が来ることも無いかのように生きていることが少なくない。
確かに生きているものは死ぬことを知っている。
これは事実なのだけれど、「自分が死ぬ」というあまりにも日常から離れた事実を受け止められないでいるようにも見受けられる。
死はこんなに身近にあるのに
死は生と「隣合わせ」と言うよりも「背中合わせ」というのに
死は生と表裏一体で生きるということは死ぬと言うことなのに
である。
いざ死ぬとなるとそれを受け止め一日一日を大切に生きる事ができるようになる。
しかし
「それで良いのだろうか」
と、そして
「それでは駄目なのだ」
というおいらの中での結論が出ている。
死ぬことを考え続け生きることに疑問を感じるということは誰しもあるかもしれない。
自殺というのは日本人の中では良く身近なところで起こっているはずです。
毎年3万人が亡くなっている事から考えると10年で知人の一人が亡くなる勘定になる。
30年では100人に一人になる。
これは日本の総人口を1億2千万とした値です。
一年で3万人という事実は小さいかもしれない。
しかし10年で30万人、20年で60万人、30年で90万人と計算をすると寧ろ恐ろしい数字へと変貌を遂げる。
おいらの周りでも自殺し亡くなった家族が居る。
家族の親友にあたるわけだけれど、その家族は自死することを防げなかったことで苦しんでいる。
仕事を一生懸命にこなし、それなりに周りからも評価されている人間がなぜ自殺をしたのか
おいらなりの分析をしてみようと思う。
一生懸命に物事を行うということは素晴らしいことであることは間違いない。
一生懸命ということは「最善を尽くす」と同義ですしね。
しかし完璧主義者にとっては最善を尽くしてもまだ改善すべき点がたくさん見えてくる。
改善するべきところは人間のすることなのだから山のように見えるのはある程度は仕方ないことだとおいらは理解出来るようになってきたのだが、完璧主義者にとってはそれは「許せないことであり、これでお金をもらうのは申し訳ない」となってしまう。
周りの人からの評価についても書かねばなりますまい。
自分に自信を持てない人間にとって仕事を一生懸命にしておきながら納得出来ないということは
「他人に合わす顔がない」
となってしまうと思う。
しかし仕事というのは殆どの場合にひとりで行うことは少ない。
必ず同僚や上司、クライアントなどとの少なからずな交流が必要となる。
こうなると顔では笑っているがこころの中では落ち込んでいると言う仮面鬱病を患いがちなんですな。
次第に鬱病の度合いが強くなりひとりで苦しむことになる。
うつ病というのは殆どの場合で孤独な戦いになる。
対処方法を知りもしない状態で落ち込んでいくということは健康だった人間にとっては恐ろしい事実になる。
なぜこんなに苦しいのだろう
なぜこんなに辛いのだろう
なぜこんなに悲しいのだろう
という疑問符が常に付き纏いながらの生活になる。
ここまで来ているということは
・精神科の病院に通っていなければならない
・仕事を相対的なものだと割り切らなければならない
・自分の心境を話せる人を作らなければならない
という要件を満たしておかねばならない。
自殺者の殆どは心の闇から死に至ることが多い。
たとえ借金塗れになったとしても借金自体が自殺への直接的な動機になるかというと違うと言える。
たくさんの借金を抱えていても笑いながら生きていける人はたくさんいることからも明白だ。
事が重大な事態に陥った際に後悔は先には立たないだろう。
生活LEVELを下げることが出来ないとかいう理由で死ぬなんて人もいる。
しかしこれは個人の価値観で個人が重大だと感じるからこそなんですよ。
他人からすると問題は取るに足りないものだとしても、個人の主観からすると山のようであり谷のようでもあるんです。
だからこそ「他人の意見は当てにならない」という言葉もありますし、逆に「こんな見方があるんだ」とも思える。
人間の価値観というのは主観でしか見ることが出来ないと言うことが大きな問題。
人間はモノを見る際に広く見ることには慣れていない。
逆に小さいところを大きく見ることには本当に慣れている。
以前にも書いた記憶があるのだけれどまた書いてみよう。
髪の毛というのは顕微鏡で見ると凸凹になっているのはCMでも映像化されている通り。
その凸凹の一つの組み合わせを電子顕微鏡で覗いているようなものだと考えて戴ければわかりやすいかもしれない。
普通の顕微鏡でも多少は見ることが出来る凸凹が電子顕微鏡だと途轍もない大きさの山になり谷になる。
一つの障害がこれほど大きくなると人間はもう駄目だと思ってしまう。
その山や谷は離れてみるとこんなに小さいのにだ。
人間は大なり小なり問題を抱えて生きている。
それらの問題はルーチンワーク化させることが出来るならば心への負担は非常に小さくなる。
それが当たり前になり問題だとは思わないようになるとPlusとMinusが「0」になるはずだ。
当たり前なのだから悩まなくても良いし、苦しまなくてもいい。
たしかに悩むことも重要だけれど、作業効率を上げ時間を短縮するのも重要だけれど、何よりも心への負担を無くすことがもっとも重要だと言うことに気がついていない人が多い。
これはおいら自身が考えていた経験から書いていることだから同じような傾向のある人には多少は役に立つかと思われる。
「自分は死ぬしか無い」
「死ぬことが相応しい」
「生きていてはいけない」
「自分がいきている事実が他の人に迷惑をかけている」
「生きていることが罪なのだ」
「自分が生きていることはこの世の不条理だ」
「生きる価値が無い」
「存在そのものを世のすべての人間並びに動物が否定しなければならない」
と考え続け、生きることは辛いことであり苦しいことだと痛感してきたおいらの実体験から他人の益になるとは考えにくいが、それでもおいらだからこそ他人に言えることがある。
それは
あなたには価値がある
あなたは生きるべきだ
あなたにはあなたの身体があり、その身体はあなたの考え、悩みとは別に生命活動を営んでいるのだから
そしてあなたの死への価値観はどれほどのものだろう
実際に死ぬほどのことなのか
詰まら無い人生かもしれない、でもそれはまだ中身に詰め込むものを見付けていないだけに過ぎないと言うこと
単調な人生かもしれない、でもそれはまだ毎日をSpecialにする方法を知らないだけなんだ
起きてから一日過ごすことをSpecialだと思わずに何時Specialだと思うのか。
世の中はSpecialで満ちている。
全てのことをSpecialだと見れるようになればこっちのものだ。
自分には全てのことがSpecialなのだから、単調でも詰まらないモノでもなくなるわけなのだから。
おいら自身もまだ全部をSpecialだと思えたことはない。
しかしそう思えるようになれるように努力しているところです。
あなたには価値がある
これは揺るがない事実。
価値があるからこそ周りを良いもので満たすことに努力を払っていこう。
「Special=特別」という意味なのだけれど、これは有り触れたことなのだとも思う。
人間の傾向として特別なことは毎日起こってはならないという暗黙の了解でもあるかのように避けている。
「特別な日」というのは世間一般では「誕生日」であったり「クリスマス」、「お正月」、「ゴールデンウィーク」、「お盆」などの日になるのだろう。
しかし人間が見ることが出来ていないところがある。
「毎日」が特別なのだと言うことだ。
人が生きる日々の中で一日一日を特別だと思って生きている人間は生きている時間に期限を設けられた人間であったり、死ぬ直前まで行った人間であるわけだ。
それ以外の人間というのは自分が死ぬ日が来ることも無いかのように生きていることが少なくない。
確かに生きているものは死ぬことを知っている。
これは事実なのだけれど、「自分が死ぬ」というあまりにも日常から離れた事実を受け止められないでいるようにも見受けられる。
死はこんなに身近にあるのに
死は生と「隣合わせ」と言うよりも「背中合わせ」というのに
死は生と表裏一体で生きるということは死ぬと言うことなのに
である。
いざ死ぬとなるとそれを受け止め一日一日を大切に生きる事ができるようになる。
しかし
「それで良いのだろうか」
と、そして
「それでは駄目なのだ」
というおいらの中での結論が出ている。
死ぬことを考え続け生きることに疑問を感じるということは誰しもあるかもしれない。
自殺というのは日本人の中では良く身近なところで起こっているはずです。
毎年3万人が亡くなっている事から考えると10年で知人の一人が亡くなる勘定になる。
30年では100人に一人になる。
これは日本の総人口を1億2千万とした値です。
一年で3万人という事実は小さいかもしれない。
しかし10年で30万人、20年で60万人、30年で90万人と計算をすると寧ろ恐ろしい数字へと変貌を遂げる。
おいらの周りでも自殺し亡くなった家族が居る。
家族の親友にあたるわけだけれど、その家族は自死することを防げなかったことで苦しんでいる。
仕事を一生懸命にこなし、それなりに周りからも評価されている人間がなぜ自殺をしたのか
おいらなりの分析をしてみようと思う。
一生懸命に物事を行うということは素晴らしいことであることは間違いない。
一生懸命ということは「最善を尽くす」と同義ですしね。
しかし完璧主義者にとっては最善を尽くしてもまだ改善すべき点がたくさん見えてくる。
改善するべきところは人間のすることなのだから山のように見えるのはある程度は仕方ないことだとおいらは理解出来るようになってきたのだが、完璧主義者にとってはそれは「許せないことであり、これでお金をもらうのは申し訳ない」となってしまう。
周りの人からの評価についても書かねばなりますまい。
自分に自信を持てない人間にとって仕事を一生懸命にしておきながら納得出来ないということは
「他人に合わす顔がない」
となってしまうと思う。
しかし仕事というのは殆どの場合にひとりで行うことは少ない。
必ず同僚や上司、クライアントなどとの少なからずな交流が必要となる。
こうなると顔では笑っているがこころの中では落ち込んでいると言う仮面鬱病を患いがちなんですな。
次第に鬱病の度合いが強くなりひとりで苦しむことになる。
うつ病というのは殆どの場合で孤独な戦いになる。
対処方法を知りもしない状態で落ち込んでいくということは健康だった人間にとっては恐ろしい事実になる。
なぜこんなに苦しいのだろう
なぜこんなに辛いのだろう
なぜこんなに悲しいのだろう
という疑問符が常に付き纏いながらの生活になる。
ここまで来ているということは
・精神科の病院に通っていなければならない
・仕事を相対的なものだと割り切らなければならない
・自分の心境を話せる人を作らなければならない
という要件を満たしておかねばならない。
自殺者の殆どは心の闇から死に至ることが多い。
たとえ借金塗れになったとしても借金自体が自殺への直接的な動機になるかというと違うと言える。
たくさんの借金を抱えていても笑いながら生きていける人はたくさんいることからも明白だ。
事が重大な事態に陥った際に後悔は先には立たないだろう。
生活LEVELを下げることが出来ないとかいう理由で死ぬなんて人もいる。
しかしこれは個人の価値観で個人が重大だと感じるからこそなんですよ。
他人からすると問題は取るに足りないものだとしても、個人の主観からすると山のようであり谷のようでもあるんです。
だからこそ「他人の意見は当てにならない」という言葉もありますし、逆に「こんな見方があるんだ」とも思える。
人間の価値観というのは主観でしか見ることが出来ないと言うことが大きな問題。
人間はモノを見る際に広く見ることには慣れていない。
逆に小さいところを大きく見ることには本当に慣れている。
以前にも書いた記憶があるのだけれどまた書いてみよう。
髪の毛というのは顕微鏡で見ると凸凹になっているのはCMでも映像化されている通り。
その凸凹の一つの組み合わせを電子顕微鏡で覗いているようなものだと考えて戴ければわかりやすいかもしれない。
普通の顕微鏡でも多少は見ることが出来る凸凹が電子顕微鏡だと途轍もない大きさの山になり谷になる。
一つの障害がこれほど大きくなると人間はもう駄目だと思ってしまう。
その山や谷は離れてみるとこんなに小さいのにだ。
人間は大なり小なり問題を抱えて生きている。
それらの問題はルーチンワーク化させることが出来るならば心への負担は非常に小さくなる。
それが当たり前になり問題だとは思わないようになるとPlusとMinusが「0」になるはずだ。
当たり前なのだから悩まなくても良いし、苦しまなくてもいい。
たしかに悩むことも重要だけれど、作業効率を上げ時間を短縮するのも重要だけれど、何よりも心への負担を無くすことがもっとも重要だと言うことに気がついていない人が多い。
これはおいら自身が考えていた経験から書いていることだから同じような傾向のある人には多少は役に立つかと思われる。
「自分は死ぬしか無い」
「死ぬことが相応しい」
「生きていてはいけない」
「自分がいきている事実が他の人に迷惑をかけている」
「生きていることが罪なのだ」
「自分が生きていることはこの世の不条理だ」
「生きる価値が無い」
「存在そのものを世のすべての人間並びに動物が否定しなければならない」
と考え続け、生きることは辛いことであり苦しいことだと痛感してきたおいらの実体験から他人の益になるとは考えにくいが、それでもおいらだからこそ他人に言えることがある。
それは
あなたには価値がある
あなたは生きるべきだ
あなたにはあなたの身体があり、その身体はあなたの考え、悩みとは別に生命活動を営んでいるのだから
そしてあなたの死への価値観はどれほどのものだろう
実際に死ぬほどのことなのか
詰まら無い人生かもしれない、でもそれはまだ中身に詰め込むものを見付けていないだけに過ぎないと言うこと
単調な人生かもしれない、でもそれはまだ毎日をSpecialにする方法を知らないだけなんだ
起きてから一日過ごすことをSpecialだと思わずに何時Specialだと思うのか。
世の中はSpecialで満ちている。
全てのことをSpecialだと見れるようになればこっちのものだ。
自分には全てのことがSpecialなのだから、単調でも詰まらないモノでもなくなるわけなのだから。
おいら自身もまだ全部をSpecialだと思えたことはない。
しかしそう思えるようになれるように努力しているところです。
あなたには価値がある
これは揺るがない事実。
価値があるからこそ周りを良いもので満たすことに努力を払っていこう。