扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.29 2009.04.24

2009-04-24 23:55:55 | Depression,Melancholy & Thought
今日はいろいろと言われました...............................

「考えすぎ」とか「把握しすぎ」、「理解しすぎ」などです。
言葉の発し方も言われました。
「もっと気楽に発言しても良い」、「mumu.comが考えて発言する言葉は考えすぎている」というような内容です。
家族に言われたんですけどね。
他の人って全く考えていないモノなのだと考えていていますし、今でもそう思っています。
それに気遣いに関しても「背負いすぎ」だとも言われました。

実際に言われた内容を分析していこうと思います。
おいらが考えているほど人は考えていないということですな。
これはおいらも把握しています。
当然ですが、思考を潜らせるよりも先に口で発してしまう人の方が多いという現状を考えると確かにその通りだとは思いました。
「本人が理解していない部分まで理解し過ぎているのではないか」ということまで言われました。
本人が意識できていない傾向まで見分けて把握してしまっているという訳です。
どうも他の人のおいらに対する評価は「分析力が高く、把握力も高い」という評価でした。
おいらに直截的には言われることはないので解らなかったのですが、家族には良く言われているようです。
しかしこれは根本的に違いますな。
そもそもおいらは元来こういう事は出来ませんでした。
よって努力している部分ではあります。
でもまだまだ到らない点が沢山あり、まだ後進で発展途上中な訳ですよ。
一生懸命頑張って努力しても、把握できないというのは最大の欠点になり得ます。
他の人が行っている努力を見落とすというのは人間として最低なことだと思うのです。
でもそこまでしなくても良いと言われてしまいました。
本人が気が付いていない点まで気が付きそれによって傷つくというのは時間の無駄だという訳です。
発言者本人が理解し把握して始めて成り立つと言うことなのでしょうかね.........................

加えて言葉の発し方に関しても「もっと気楽にしたら」と言われました。
口は度し難い程まで軽いモノです。
「口は災いの元」や「口は災いの門」、「舌先三寸」、「口八丁手八丁」など言葉に関係のある悪い意味での諺は幾らでもあります。
それとおいらが傷つけるような言葉を発しても普段の行動で十二分にSupportできていると言われました。
ところが普段の行動はおいらにとって口にしてしまった言葉を実行しているに過ぎません。
つまりおいらにとって「当然するべき事」で「口に出してしまったからには最後まで責任を持たなければならない」という流儀があります。
例えば
・通院の運転手をする
・通学の運転手をする
・写真を渡し続ける
という行動に関して「良くしてあげているね」という意見を聞くことが多いようです。
でもこれら行動はおいらのLife Systemに組み込まれている訳ですな。
生活の中に組み込まれていることを当たり前だと考えない人間が居るでしょうか?
生活に組み込まれている行動を調べると当たり前だと思うでしょう。
例えば
・食事をする
・トイレに行く
・寝る
といった基本的な活動と何ら変わりはないんですよ。
それを「良くしている」とは思わないはずです。
生活に必要な事柄というのは誰しもあります。
それが他の人の必要を顧みることであれば

「此処にわたしがおります。わたしをお使わし下さい。」

という言葉を発したある本の筆者のように考えるのが当然でしょう。

「奴隷が割り当ての事をしたからといって,その人は恩義を感じたりしないではありませんか。
 ですからあなた方も,自分に割り当てられた事を全部したときには,
 『わたしたちは何の役にも立たない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした』と言いなさい」。

という言葉もあります。
加えて自分が行ったことを誇る理由など何もありません。
人間が人間の基準で行ったことなど一切が損なのです。
自分が自分で役に立っていると考え、行動しているほど醜いモノはありません。
「当然すべきこと」でありながらそれを自信としたり、自尊心を保つ方法として行うのは間抜け以外の何者でもないということですよ。

誇るべき理由は神に関してのみ誇るべきなんです。

基本的においらの行うことには価値がありませんし、それを評価する方が可笑しいんですよ。
ということでこのような考え方は到底出来ません。
よってTeeーUpが掛かっているのであればそれを低くするのは何も不自然なことではありません。
それに継続的に出来ることを行っていくのも当たり前なんですよね。

確かに行動するのに差し障りのあることには敏感にはなりますよ。
例えば通院している子の車に関してです。
保険が適応されないままにしておくのはおいらとしては納得できません。
よっておいらが運転していてもおいらが事故した際には責任を負えないということを先方に伝えてあります。

こういった障害のないモノに関しては、おいらの自由意志で行っているのですからそれらはおいら自身が負うべきでしょうし、口にしたからには体調が悪くても、調子が悪くても、こちらの都合で曲げるというのは人間として誤っているとも考えています。

不思議に思うのは他の人というのは「自己分析というのをしないのか」という疑問です。
自己分析しているならば改善点は山のように出てきますし、それを少しでも直そうと努力していくでしょう。
それに自身の精神的傾向を弁え、基準を変えようともしていくでしょう。
おいらは他の人よりも劣った人間です。
よって他の人よりも努力しなければついていけないのは解りきったことでしょう。
余りに自分が不甲斐なさ過ぎて毎日が情けないという感情を抱きながら生活しているのが現状でしょうか。
「もっとマシな人間に成れれば」
「もっと他の人の苦痛が理解できるように成れれば」
「もっと他の人の努力を汲めるように成れれば」
と願ってやみません。
しかし願っていながら到らない点が絶対にあるのですから人間というのは情けないモノです。

おいらの行動は少なくとも何かしら人が恩恵を得られるようにしなければならないと気に留めているのですがね。
このように考えることも烏滸がましい立場にあるのですから「させて頂いている」という意識で何事も行っていかねばならないでしょう。
自分がMaxに頑張って行うことよりも、普段の自分が普段の生活の中から出来る事柄をする方が神は喜ばれます。
一生懸命行うというのは日常生活でConstantに出来る事ではありませんからね。
調子が悪い時は悪いなりに、良い時は良いなりに行うことを喜ばれるのです。
神に喜んで貰える方法で物事を行っていきたいモノです。

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