おいらは可能であれば6万程度毎月頂ければ良いぐらいなんですよね........................................
今日は午前中から少し勉強しに行ってきました。
いろいろと思惑が絡まっていて利用されているような気もしないでもありません。
でも常軌を逸した金額を会話の中で出されてもおいらにはピンと来ることが無いのが実情です。
生活の中で如何に始末して生きていくのかを追求してきたおいらですがね。
努力次第でどうとでもなるのだという事実はおいらは認めています。
これは真実でしょう。
努力に応じて人は報われなければ成りません。
仕事をしただけ人は対価を払われねばならないと常々考えてきました。
おいらは多くは求めていません。
しかし家族や親族、知人たちも理解して貰って手伝っていただければ如何に楽なのかをよく考えます。
おいらは関係を断ち切って生きてきました。
これは鬱病になり、落ち込みに落ち込み人生のどん底よりも更に深くいた頃に行き着いたところなんですな。
おいらと関わること自体が相手に害を与えているかのように考えて生きてきました。
でもおいら自身が他の人に対して悪いことを行ってきたのかというとよくよく考えると益となるようなことを行ってきていたこと言い切れるかと思います。
それに対しての対価が支払われるべき際にもおいらは当然だと考えていたようです。
当然のことながらおいらが進んで行うことというのは対価は必要ありません。
あくまで自発的な行動であり、その行動にはおいらの意志が載っているからです。
でも多くのことでおいらはお金を出して貰うことに非常にSensitiveになっていて貰ってこなかったことが少なくないんですよ。
おいらは自己犠牲的な活動が当然すべき行動だという認識があったのですが、どうもそうでもないみたいです。
確かに
「自分がして欲しいと思うことを他の人にしなければならない」
という原則は真理であり、これに勝る自己犠牲というのはありません。
加えて
「受けるより与える方が幸福」
という原則も真理ですし、これに勝る自己犠牲というのもありません。
しかしこの範疇を超える「我が儘」に付き合う必要はないということなんですよね。
自己中心的な考えをしている子を見ていると最近は「愚かだな~」と考えるようになってきました。
自分の関心事に終始していて他の人の状況なり心境や環境を考慮せずに付き合わせようとします。
これって我が儘の何者でもないでしょう。
こういった子というのは他の人に過剰の期待していて叶えられるのが当然なのだと勘違いしています。
でも現実的にはおいらは付き合ってきましたが、相手はおいらの関心事に合わせてはくれてきませんでした。
価値観の相違というのは仕方がないとは思いますがね。
おいらは相手の為にたくさんの労力を払ってきたことは少なくともおいらでさえ自覚できるぐらいになっている状態でも合わせてくれないというのは致命的ですね。
そろそろこういった子を切り離していこうと考えています。
おいらは自分の益となる人とは良好な関係を気づいていこうとは思いますが、益ともならず時間の浪費となるような事はしないようにしていかねばならない立場にいるのだと最近自覚するようになってきました。
おいらの時間というのは他の人と同様に1日24時間です。
それも最近は時間が貴重なモノに成りつつあるのだと認識するようになってきました。
ではどうすれば貴重な資産を生かすことが出来るのかを追求していかねば成りません。
若さに伴う愚かな考えには付き合わないようにしていこうと思います。
以前に弟君の事に関して書いたことがありました。
彼は独善的で自分が正しくて間違いないと信じて疑わない人間です。
しかし彼の考えや行動には常識が無いことが少なくないんですよ。
これは若いのですから仕方がない部分もあります。
それに彼を矯正する役目は親の仕事です。
わざわざおいらが憎まれ役を買わなくても良いとか思いますな。
でもいつからか解りませんが、子供を矯正することを親は放棄するようになってきました。
子供の悪い所を矯正することは親の役目です。
例え親に悪い所があるとしても子供は親に従わねばならないのです。
これはおいらの中では当然のことだと考えているのですがね。
弟君はどうも考え違いをしているようですな。
自分自身が正しいのだからある程度のことをしても許されるという認識をしているきらいがあります。
こういった考えというのはおいらは大嫌いです。
「年長のモノを敬わねばならない」
という原則は真理です。
「親しき仲にも礼儀あり」という諺もあるぐらいに家族の中でもけじめを付けなければ成りません。
よって親は年長者ですので敬意を払わなければならないというのは当然でしょう。
それを出来ないというのは人として欠陥があるということです。
それと肉の兄弟姉妹でもこれは適応されます。
「成人したらみんな一緒」だという人間が居ます。
この意見はおいらは認めません。
同級生という概念の中での年齢の相違は許容範囲内ですがね。
同学年以上と以下で判断が異なっていくべきだと思っています。
同級生というのは1年以内に必ず収まっています。
よって許容範囲内なのです。
確かに一学年違うといっても生まれた日付が「1日しか違わない」という人もいることでしょう。
しかし学校という制度が日本は確りしているのですから同学年と上下の違いというのは明白ではっきりしています。
ある程度の年齢になると3年以内程度までの「Generation」が発生してきますよね。
記憶の共有をしている人たちとは打ち解けて話せるようになる年齢になればいいでしょうし、腹を割って話せる関係であれば年齢は関係なくなってきます。
これは「信頼関係」という年齢を払拭するFactorがあることが大前提にあるんですよ。
こうなると「年長のモノを敬わなければならない」という形式的な関係ではなくなりますよね。
親しくなるのですから敬称略やお互いをあだ名で呼んだりするようになるでしょう。
少し昨日は弟君に説教をしてしまって話題がそのことに終始していますな.....................
永続的に続くモノというのは人間だけの中には存在しません。
どのような資産もどのような物質もどのような肉体でも相対的なモノです。
完全な命というのは存在していないのですから、人は現状では100%死んでいきます。
「生きているモノは死ぬことを知っている」
はずなのですが、今ある命が永遠に続くかのように若い頃は感じます。
おいらは20代前半で死ぬ予定で生きてきました。
よって永遠に続くかのような若さを感じることはごくごく短時間でした。
高校1年から2年にかけての刹那的な期間でしたかね。
あの頃は命の炎がMaxに燃えていたことを確信できます。
しかし高校生の頃に感じていた若さも限定的なモノでした。
おいらはかなりの程度まで把握して生きてきたようですな。
現在の生活も大凡で想定の範囲内でこういった生活になっていくことは明らかだと感じていました。
よって仕事に対する情熱も聖書研究に対する熱意も心の底からのモノではないんですよね。
飽くなき探求心というのは写真や趣味に関しては適応されてきたかも知れません。
でも人として生活していかなければならない状況というのはおいらの望み通りに物事が動いていった試しがありません。
「努力をしていないからだ」と思われるかも知れませんがね。
おいらは努力を怠ることはきらいです。
最善を尽くして物事を行っていかねばならないと心の中で定められていましたので物事の行い方は徹底して研究し短時間の効果や反映を見出すことをおいらは求めてきました。
しかし望む仕事を出来ないというのはStressになりますな。
Step Upして仕事を行っていくことを現在の若い人は求められています。
確かに明確に道が見えているのであれば良いのですがね。
おいらが望む道はありませんでした。
親が既に道を引いていたからです。
この道を走らされるというのは苦痛でしかありませんでしたな。
まあその道を走ることをChoiceしたおいらが悪いというのは今考えると良く解るのですがね。
おいらは他の人の操り人形でしたのでおいらの人生ではなく、「他の人の望み達成機」と化していたんですよ。
優しすぎるというよりは優柔不断に含まれるのでしょうかね。
確かにこのような言葉があります。
「自分の親に聴き従いなさい。それはあなたの命だからである」
というような言葉です。
しかし自分の行動に責任を持てる歳になると決定する事というのはある程度まで認められねばならないでしょう。
では自分の行動に責任を持つことが出来る年齢は何歳なのでしょうか?
若い子で責任感の強い子は居ます。
このような子はその時点で認められてもいいぐらいです。
でも責任を持てない人間はどうなのでしょうか?
30歳でもまだまだ若すぎる人間というのはこの頃非常に多くなってきています。
では尚更20歳が成人というのは「些か」どころか「大いに」問題があると感じてしまうおいらが居ます。
この頃の20歳というのは無責任世代と呼んでも良いぐらいに自分の権利には目聡く、自分が起こした問題に対しては責任を全て放棄する子が多いですよね。
大人でさえこのような人が多いというのは嘆かわしいことです。
まあ責任を取れるような人間でないおいらがこのようなことを書くのは非常に愚かなことなのは重々承知していますが、自分が起こした問題に関しては自分で責任を取っていきたいと願ってやまないmumu.comでした。
今日は午前中から少し勉強しに行ってきました。
いろいろと思惑が絡まっていて利用されているような気もしないでもありません。
でも常軌を逸した金額を会話の中で出されてもおいらにはピンと来ることが無いのが実情です。
生活の中で如何に始末して生きていくのかを追求してきたおいらですがね。
努力次第でどうとでもなるのだという事実はおいらは認めています。
これは真実でしょう。
努力に応じて人は報われなければ成りません。
仕事をしただけ人は対価を払われねばならないと常々考えてきました。
おいらは多くは求めていません。
しかし家族や親族、知人たちも理解して貰って手伝っていただければ如何に楽なのかをよく考えます。
おいらは関係を断ち切って生きてきました。
これは鬱病になり、落ち込みに落ち込み人生のどん底よりも更に深くいた頃に行き着いたところなんですな。
おいらと関わること自体が相手に害を与えているかのように考えて生きてきました。
でもおいら自身が他の人に対して悪いことを行ってきたのかというとよくよく考えると益となるようなことを行ってきていたこと言い切れるかと思います。
それに対しての対価が支払われるべき際にもおいらは当然だと考えていたようです。
当然のことながらおいらが進んで行うことというのは対価は必要ありません。
あくまで自発的な行動であり、その行動にはおいらの意志が載っているからです。
でも多くのことでおいらはお金を出して貰うことに非常にSensitiveになっていて貰ってこなかったことが少なくないんですよ。
おいらは自己犠牲的な活動が当然すべき行動だという認識があったのですが、どうもそうでもないみたいです。
確かに
「自分がして欲しいと思うことを他の人にしなければならない」
という原則は真理であり、これに勝る自己犠牲というのはありません。
加えて
「受けるより与える方が幸福」
という原則も真理ですし、これに勝る自己犠牲というのもありません。
しかしこの範疇を超える「我が儘」に付き合う必要はないということなんですよね。
自己中心的な考えをしている子を見ていると最近は「愚かだな~」と考えるようになってきました。
自分の関心事に終始していて他の人の状況なり心境や環境を考慮せずに付き合わせようとします。
これって我が儘の何者でもないでしょう。
こういった子というのは他の人に過剰の期待していて叶えられるのが当然なのだと勘違いしています。
でも現実的にはおいらは付き合ってきましたが、相手はおいらの関心事に合わせてはくれてきませんでした。
価値観の相違というのは仕方がないとは思いますがね。
おいらは相手の為にたくさんの労力を払ってきたことは少なくともおいらでさえ自覚できるぐらいになっている状態でも合わせてくれないというのは致命的ですね。
そろそろこういった子を切り離していこうと考えています。
おいらは自分の益となる人とは良好な関係を気づいていこうとは思いますが、益ともならず時間の浪費となるような事はしないようにしていかねばならない立場にいるのだと最近自覚するようになってきました。
おいらの時間というのは他の人と同様に1日24時間です。
それも最近は時間が貴重なモノに成りつつあるのだと認識するようになってきました。
ではどうすれば貴重な資産を生かすことが出来るのかを追求していかねば成りません。
若さに伴う愚かな考えには付き合わないようにしていこうと思います。
以前に弟君の事に関して書いたことがありました。
彼は独善的で自分が正しくて間違いないと信じて疑わない人間です。
しかし彼の考えや行動には常識が無いことが少なくないんですよ。
これは若いのですから仕方がない部分もあります。
それに彼を矯正する役目は親の仕事です。
わざわざおいらが憎まれ役を買わなくても良いとか思いますな。
でもいつからか解りませんが、子供を矯正することを親は放棄するようになってきました。
子供の悪い所を矯正することは親の役目です。
例え親に悪い所があるとしても子供は親に従わねばならないのです。
これはおいらの中では当然のことだと考えているのですがね。
弟君はどうも考え違いをしているようですな。
自分自身が正しいのだからある程度のことをしても許されるという認識をしているきらいがあります。
こういった考えというのはおいらは大嫌いです。
「年長のモノを敬わねばならない」
という原則は真理です。
「親しき仲にも礼儀あり」という諺もあるぐらいに家族の中でもけじめを付けなければ成りません。
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それを出来ないというのは人として欠陥があるということです。
それと肉の兄弟姉妹でもこれは適応されます。
「成人したらみんな一緒」だという人間が居ます。
この意見はおいらは認めません。
同級生という概念の中での年齢の相違は許容範囲内ですがね。
同学年以上と以下で判断が異なっていくべきだと思っています。
同級生というのは1年以内に必ず収まっています。
よって許容範囲内なのです。
確かに一学年違うといっても生まれた日付が「1日しか違わない」という人もいることでしょう。
しかし学校という制度が日本は確りしているのですから同学年と上下の違いというのは明白ではっきりしています。
ある程度の年齢になると3年以内程度までの「Generation」が発生してきますよね。
記憶の共有をしている人たちとは打ち解けて話せるようになる年齢になればいいでしょうし、腹を割って話せる関係であれば年齢は関係なくなってきます。
これは「信頼関係」という年齢を払拭するFactorがあることが大前提にあるんですよ。
こうなると「年長のモノを敬わなければならない」という形式的な関係ではなくなりますよね。
親しくなるのですから敬称略やお互いをあだ名で呼んだりするようになるでしょう。
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永続的に続くモノというのは人間だけの中には存在しません。
どのような資産もどのような物質もどのような肉体でも相対的なモノです。
完全な命というのは存在していないのですから、人は現状では100%死んでいきます。
「生きているモノは死ぬことを知っている」
はずなのですが、今ある命が永遠に続くかのように若い頃は感じます。
おいらは20代前半で死ぬ予定で生きてきました。
よって永遠に続くかのような若さを感じることはごくごく短時間でした。
高校1年から2年にかけての刹那的な期間でしたかね。
あの頃は命の炎がMaxに燃えていたことを確信できます。
しかし高校生の頃に感じていた若さも限定的なモノでした。
おいらはかなりの程度まで把握して生きてきたようですな。
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でも人として生活していかなければならない状況というのはおいらの望み通りに物事が動いていった試しがありません。
「努力をしていないからだ」と思われるかも知れませんがね。
おいらは努力を怠ることはきらいです。
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しかし望む仕事を出来ないというのはStressになりますな。
Step Upして仕事を行っていくことを現在の若い人は求められています。
確かに明確に道が見えているのであれば良いのですがね。
おいらが望む道はありませんでした。
親が既に道を引いていたからです。
この道を走らされるというのは苦痛でしかありませんでしたな。
まあその道を走ることをChoiceしたおいらが悪いというのは今考えると良く解るのですがね。
おいらは他の人の操り人形でしたのでおいらの人生ではなく、「他の人の望み達成機」と化していたんですよ。
優しすぎるというよりは優柔不断に含まれるのでしょうかね。
確かにこのような言葉があります。
「自分の親に聴き従いなさい。それはあなたの命だからである」
というような言葉です。
しかし自分の行動に責任を持てる歳になると決定する事というのはある程度まで認められねばならないでしょう。
では自分の行動に責任を持つことが出来る年齢は何歳なのでしょうか?
若い子で責任感の強い子は居ます。
このような子はその時点で認められてもいいぐらいです。
でも責任を持てない人間はどうなのでしょうか?
30歳でもまだまだ若すぎる人間というのはこの頃非常に多くなってきています。
では尚更20歳が成人というのは「些か」どころか「大いに」問題があると感じてしまうおいらが居ます。
この頃の20歳というのは無責任世代と呼んでも良いぐらいに自分の権利には目聡く、自分が起こした問題に対しては責任を全て放棄する子が多いですよね。
大人でさえこのような人が多いというのは嘆かわしいことです。
まあ責任を取れるような人間でないおいらがこのようなことを書くのは非常に愚かなことなのは重々承知していますが、自分が起こした問題に関しては自分で責任を取っていきたいと願ってやまないmumu.comでした。