変な出だしだったので言葉を入れておきます。
この記事がアクセス数が増えることをわたしは願っていません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もう自分は駄目なんだな〜と思うことがありました............
この頃はちゃんとクリスチャンの集まりに出て、ちゃんと群れの伝道にでるようになりました。
自分から休むことはありませんが、一緒に行く人が居ないと行きません。
個人研究をすることも少し始めましたが、決定的に集まりに出席している人達との考え方が違うことに気が付いてしまいました。
わたしはクリスチャンの集まりで人と余り関わりたくないと思ってしまっていて、集まりでは最前列の左右の席が確保できればそこに。
確保できなければ第二会場とよばれる本会場(最も広い部屋)をガラス張りから見られる小部屋で座ることが多いのです。
2017/10/20にも集まりがあり、本を勉強していました。
2017/10/20に学んだのは災害時での優先事項でした。
わたしは以前から手に蛸が出来るぐらいに、キーボードで打鍵してきた言葉があります。
わたしの中での優先事項ですね。
1.家族
2.親族
3.友人のクリスチャン
4.友人(もう居ませんが)
5.知人のクリスチャン
6.知人
7.他人
となっています。
わたしの中では覆るはずもない基準ですね。
よって災害時には優先順位は家族や親族、そしてクリスチャンを含む友人、知人が優先されます。
他人は二の次、三の次なんですよね。
わたしのような基準を持っている方がおかしいと思っている人が多いと感じたんですよね。
「伝道を優先するのが当たり前」だと考えている人が余りにも多すぎると感じています。
伝道をしているのが如何にも正義であると考えている方達が多いんですよ。
ここで良く考えていただきたいのは、
「それは貴方の大事な人達よりも優先するべき人達ですか?」
ということです。
開○者の多くの方達はクリスチャン同士では腹の内を見せないのが当たり前になっています。
というよりクリスチャン同士で腹の内を見せるのが恥ずかしいことだと、ほとんどのクリスチャンは考えているのがわかります。
わたしは逆に腹の内をさらけ出しすぎて、苦しい目に遭いました。
クリスチャンの世界では腹の内をさらけ出すことが、弱いことだとされています。
つまりそうすることは格下認定されると言うことです。
聖書的にはどちらかというとわたしのしていることの方が正しいはずなんですけどね。
腹の内を見せないのと、大事な人との関連はなんなんだと思われるでしょうね。
本当に親しい人ほど、本当の友人である人ほど腹の内を見せるのは当たり前でしょう。
そのような友人であれば当然に「大事な人」になるのではないでしょうか。
わたしは災害に遭う方があれば援助したいと願っています。
優先順位としては、他人のためにする伝道なんかよりも高くなるのは当然でしょう。
しかもその優先順位の中には「知人」までが含まれるのです。
そうであれば伝道をする時間を、そちらに割り振るのは当然でしょう。
ここで聖書的な見方を書いておきましょうかね。
聖書的な見方は苦しい目に遭っている方が居るのであれば、いついかなる時も可能であれば手を差し伸べるようにと書かれています。
つまり災害時という極めて特殊で短期な期間に限定されていないんですよ。
いつでも良いのです。
相手が苦しんでいるのであれば......苦しむだけではないですね。
相手がわたしの特質で必要としているモノがあれば、それを他人のための伝道なんかに用いるなんてことはせずに用いたいと願っています。
こういう考え方が学び始めてからどの時期に手に入ったかわかりませんが、当たり前のようにわたしの中にあるのです。
そしてある注解を聴いて愕然としました。
「災害時に、それに遭遇したクリスチャンのために物事を行うことを、伝道よりも優先することも出来る」という旨のないようだったと思います。
しかも災害時に特定して行うことが出来るような内容のことも当然ですが前提で語られています。
ここで合点がいったのですよ。
ほとんどのクリスチャンは他の人の命よりも何よりも伝道に出て、伝道時間を稼ぐことが「命題」だと考えていることに。
ああ〜、なるほどね〜.....
となりますよね。
確かに他人の命を救うことも大事ですよ。
でも
信仰の仲間が苦しんでいるのを無視して、聞くかどうかもわからない他人のために伝道ですか?
と呆れてしまってね。
不覚にも吹き出してしまったんです。
そしてクリスチャンとして学んできた人のほとんどが伝道のことしか考えておらず、自分が見える範囲というか関われる範囲の仲間のことしか考えていないことにね。
「神が何とかしてくれる」と言うでしょう。
では神はどのように物事を動かされるのでしょうか。
人間の組織を動かして行動されます。
ではその組織はどのように構成されていますか?
組織はわたしを含む、クリスチャンである個人の集まりによって構成されています。
では組織に任せっきりで愛を伝えるだけで良いのでしょうか?
これにはわたしは激しく伝えたいと思います。
個人的に示される愛がどれだけ嬉しいモノかは経験したことがある人にしかわかりません。
しかしそれが
どれだけ救われるでしょうか
どれだけ希望となるでしょうか
どれだけ力になるでしょうか
これらは人生が変わるほどのモノです。
大きなエネルギーとなるのですよ。
そして困っている人はいつでもどこでも沢山いるんですよ。
伝道に参加すると言うことは、手を差し伸べられる条件が完璧に揃っていることを示しているのです。
それなのに辛く苦しく悲しんでいる人がいます。
自分の無力感、自尊心の無さ、自分の価値を信じられない人はそれこそ溢れています。
実際の怪我や病気で苦しんでいる人はわかりやすいのでしょうね。
このようなことは書けば山のように沢山あります。
それを拾おうとすれば、際限なく出て来ますし、手を回さないとなりません。
申し訳ないのですが、わたしは全ての人には出来ないと悟って限定的にするようにしてしまいました。
これが伝道に力を入れておられる方達が理解して、同じだけ動いていただければわたしはこういう風にはならなかったのにな〜と思ってしまったんですよね。
悲しいし、苦しいし、情けないしでもうね。
笑うしかなかったんですよね。
ああ、なるほどね〜......そういうことだったのね.....
とね。
注解された方個人のことを笑ったのではありません。
時間のことしか考えていない方達全てを笑ったんですよ。
どおりで仲間のクリスチャンよりも伝道にしか関心が無い訳だ〜とね。
どおりでクリスチャン同士の親愛の情が薄くなっている訳だ〜とね。
どおりでクリスチャンの活動を苦痛に思う人が増えている訳だ〜とね。
そして、どおりでクリスチャンを辞めちゃう人が多くなっている訳だ〜とね。
伝道にしか関心の無い人達のことをわたしは「全く理解できません」のであしからず。
伝道にちゃんと向き合うようになって、余計にそう思いますよ。
無心になって伝道に出ることが美しいと思いませんし、喜びだと思いません。
「責任感でやることがあるでしょう」なんてことをわたしは認められません。
少しでも苦しいと思うことから崩壊が始まるんですよ。
よってわたしは何事も可能な限り、命をかけて楽しみにかかります。
この記事がアクセス数が増えることをわたしは願っていません。
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もう自分は駄目なんだな〜と思うことがありました............
この頃はちゃんとクリスチャンの集まりに出て、ちゃんと群れの伝道にでるようになりました。
自分から休むことはありませんが、一緒に行く人が居ないと行きません。
個人研究をすることも少し始めましたが、決定的に集まりに出席している人達との考え方が違うことに気が付いてしまいました。
わたしはクリスチャンの集まりで人と余り関わりたくないと思ってしまっていて、集まりでは最前列の左右の席が確保できればそこに。
確保できなければ第二会場とよばれる本会場(最も広い部屋)をガラス張りから見られる小部屋で座ることが多いのです。
2017/10/20にも集まりがあり、本を勉強していました。
2017/10/20に学んだのは災害時での優先事項でした。
わたしは以前から手に蛸が出来るぐらいに、キーボードで打鍵してきた言葉があります。
わたしの中での優先事項ですね。
1.家族
2.親族
3.友人のクリスチャン
4.友人(もう居ませんが)
5.知人のクリスチャン
6.知人
7.他人
となっています。
わたしの中では覆るはずもない基準ですね。
よって災害時には優先順位は家族や親族、そしてクリスチャンを含む友人、知人が優先されます。
他人は二の次、三の次なんですよね。
わたしのような基準を持っている方がおかしいと思っている人が多いと感じたんですよね。
「伝道を優先するのが当たり前」だと考えている人が余りにも多すぎると感じています。
伝道をしているのが如何にも正義であると考えている方達が多いんですよ。
ここで良く考えていただきたいのは、
「それは貴方の大事な人達よりも優先するべき人達ですか?」
ということです。
開○者の多くの方達はクリスチャン同士では腹の内を見せないのが当たり前になっています。
というよりクリスチャン同士で腹の内を見せるのが恥ずかしいことだと、ほとんどのクリスチャンは考えているのがわかります。
わたしは逆に腹の内をさらけ出しすぎて、苦しい目に遭いました。
クリスチャンの世界では腹の内をさらけ出すことが、弱いことだとされています。
つまりそうすることは格下認定されると言うことです。
聖書的にはどちらかというとわたしのしていることの方が正しいはずなんですけどね。
腹の内を見せないのと、大事な人との関連はなんなんだと思われるでしょうね。
本当に親しい人ほど、本当の友人である人ほど腹の内を見せるのは当たり前でしょう。
そのような友人であれば当然に「大事な人」になるのではないでしょうか。
わたしは災害に遭う方があれば援助したいと願っています。
優先順位としては、他人のためにする伝道なんかよりも高くなるのは当然でしょう。
しかもその優先順位の中には「知人」までが含まれるのです。
そうであれば伝道をする時間を、そちらに割り振るのは当然でしょう。
ここで聖書的な見方を書いておきましょうかね。
聖書的な見方は苦しい目に遭っている方が居るのであれば、いついかなる時も可能であれば手を差し伸べるようにと書かれています。
つまり災害時という極めて特殊で短期な期間に限定されていないんですよ。
いつでも良いのです。
相手が苦しんでいるのであれば......苦しむだけではないですね。
相手がわたしの特質で必要としているモノがあれば、それを他人のための伝道なんかに用いるなんてことはせずに用いたいと願っています。
こういう考え方が学び始めてからどの時期に手に入ったかわかりませんが、当たり前のようにわたしの中にあるのです。
そしてある注解を聴いて愕然としました。
「災害時に、それに遭遇したクリスチャンのために物事を行うことを、伝道よりも優先することも出来る」という旨のないようだったと思います。
しかも災害時に特定して行うことが出来るような内容のことも当然ですが前提で語られています。
ここで合点がいったのですよ。
ほとんどのクリスチャンは他の人の命よりも何よりも伝道に出て、伝道時間を稼ぐことが「命題」だと考えていることに。
ああ〜、なるほどね〜.....
となりますよね。
確かに他人の命を救うことも大事ですよ。
でも
信仰の仲間が苦しんでいるのを無視して、聞くかどうかもわからない他人のために伝道ですか?
と呆れてしまってね。
不覚にも吹き出してしまったんです。
そしてクリスチャンとして学んできた人のほとんどが伝道のことしか考えておらず、自分が見える範囲というか関われる範囲の仲間のことしか考えていないことにね。
「神が何とかしてくれる」と言うでしょう。
では神はどのように物事を動かされるのでしょうか。
人間の組織を動かして行動されます。
ではその組織はどのように構成されていますか?
組織はわたしを含む、クリスチャンである個人の集まりによって構成されています。
では組織に任せっきりで愛を伝えるだけで良いのでしょうか?
これにはわたしは激しく伝えたいと思います。
個人的に示される愛がどれだけ嬉しいモノかは経験したことがある人にしかわかりません。
しかしそれが
どれだけ救われるでしょうか
どれだけ希望となるでしょうか
どれだけ力になるでしょうか
これらは人生が変わるほどのモノです。
大きなエネルギーとなるのですよ。
そして困っている人はいつでもどこでも沢山いるんですよ。
伝道に参加すると言うことは、手を差し伸べられる条件が完璧に揃っていることを示しているのです。
それなのに辛く苦しく悲しんでいる人がいます。
自分の無力感、自尊心の無さ、自分の価値を信じられない人はそれこそ溢れています。
実際の怪我や病気で苦しんでいる人はわかりやすいのでしょうね。
このようなことは書けば山のように沢山あります。
それを拾おうとすれば、際限なく出て来ますし、手を回さないとなりません。
申し訳ないのですが、わたしは全ての人には出来ないと悟って限定的にするようにしてしまいました。
これが伝道に力を入れておられる方達が理解して、同じだけ動いていただければわたしはこういう風にはならなかったのにな〜と思ってしまったんですよね。
悲しいし、苦しいし、情けないしでもうね。
笑うしかなかったんですよね。
ああ、なるほどね〜......そういうことだったのね.....
とね。
注解された方個人のことを笑ったのではありません。
時間のことしか考えていない方達全てを笑ったんですよ。
どおりで仲間のクリスチャンよりも伝道にしか関心が無い訳だ〜とね。
どおりでクリスチャン同士の親愛の情が薄くなっている訳だ〜とね。
どおりでクリスチャンの活動を苦痛に思う人が増えている訳だ〜とね。
そして、どおりでクリスチャンを辞めちゃう人が多くなっている訳だ〜とね。
伝道にしか関心の無い人達のことをわたしは「全く理解できません」のであしからず。
伝道にちゃんと向き合うようになって、余計にそう思いますよ。
無心になって伝道に出ることが美しいと思いませんし、喜びだと思いません。
「責任感でやることがあるでしょう」なんてことをわたしは認められません。
少しでも苦しいと思うことから崩壊が始まるんですよ。
よってわたしは何事も可能な限り、命をかけて楽しみにかかります。