おいらは別に出来るのであればどこででも仕事をしても良いとか考えるようになりました............
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今日は6時ぐらいに目が覚めてひとっ風呂浴びて記事を書いています。
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正直なことを書くと今まで自立してこなかったのは家族が心配だったからです。
「もしも家族に何かあれば」と考えると離れるなんて考えられなかったんですな。
しかしそんなことでは駄目なんだと言うことも他の人を見ていると感じます。
世間では家族の死に目に間に合わなければ悪いことだと考えられています。
これは死ぬという最悪の事態に関してですが、病気でも同じだとか考えるんですな。
しかしこちらに来るにしてもおいらは断固反対していたので関西に戻っても良いのかもしれないとか考えています。
でも関西では何も出来ないですよね。
どうせ引っ越すのであれば東京とか京都、福岡、名古屋、北海道などの主要都市.....というかAppleStoreのある都市です。
またもっと世界的に見るとおいらはCANADAが好きなのでCANADAの方に行きたいとか考えますな。
Americaの方にも行ければいいですけど、社会保障番号はもとより保険料や医療費が非常に高いので安い国に行ければいいな~ とか考えています。
するとGermanyとかSwedenなどの文化の息づいた街が存在する福祉や医療がしっかりしている国なんかに行きたいと思います。
海外に興味があるのは今の日本の飽和状態をより客観的に見るために行きたいんですな。
余りにたるんでいるとか感じますし、平和ぼけしすぎています。
政治に関しても国民感情へのResponseが悪すぎます。
無責任な年寄りが腰を据えてどっしり構えている政治のあり方が憤りを感じる原因になっています。
「自分が良ければ万事良し」という政治家や官僚、経営者が幅をきかせていて昔からありましたが今頃「経営格差」などと抜かしていますし、年金問題など無駄遣いをしつつそれを止めようとせず更に無駄遣いをすることに専念する姿勢、天下り問題などを即対応していないことなどにより血税と言いながら無駄遣いを促進させているのに嫌になってくるんですな。
おいらは命のギリギリのやりとりをするぐらいの国に行かなければならないとよく考えます。
命の重要性を考えて、少しでも深く聖書に関しての知識を広い視野によって見ることが出来るようになりたいし、少しでも高いところから聖書に関しての知識を見たい、少しでも深いところから聖書に関しての知識を見たいと願っています。
また世界にある美しい景色を見ることによって神の偉大さを痛感したいと願ってもいます。
神の言葉、つまり聖書に関して疑問を感じる人が多くいます。
余りに疑念を深くしすぎて殆どのことを疑問を持ってでしか見ることが出来ていない人が実際にいるんですな。
そのような人はある意味学び方を間違っていると言えるでしょう。
確かに神のことを知る手段としてもっとも有効的な方法は聖書から学んで知識を深めることでしょう。
でも神の言葉だけでは神のことを真に知るには至りません。
神を知る方法としてもう一つ重要なFactorは自然などの神が作られたモノを見ることです。
その作りの美しさをしり、すべてのモノが真の意味で存在することの本質を知るときにより知識を深めることになるでしょう。
論理だけでは人間というのは納得しません。
自分の心の琴線に触れるモノから”でしか”実際に神の偉大さを知ることが出来ないのはもう一つの事実です。
そしてここの人の心の琴線というのは十人十色で世界の人口と同じだけあると言うことなんですな。
しかも書き加えておかなければならないのは一人の人の心の琴線というのは一つではないと言うことでしょう。
多感で感性が豊かな人は沢山の事から啓発を受けるでしょう。
まあ少し書きましたが、おいらの身近にいる人の中に疑念しか湧いてこないという人がいます。
この方を見ていると狭量な見解の中でしか物事を見ることが出来ず、言葉に囚われて真の意味を捉え損なっています。
聖書の言葉というのは完全ですが、そのままの意味で捉えると語弊があることが多いんですな。
よってちゃんと言葉を分析し言わんとしていることを認識しなければなりません。
また喜びや悲しみ等の言葉もちゃんと筆者の心境になって捉えなければならないでしょう。
そしてその言葉から神が何を読者に伝えたいのかを読み取ることも重要です。
なんだか仕事の話から聖書の話になりましたが、疑念というのは時に重要ですが、すべてを疑念を持ってみると言うことは問題があります。
研究不足が否めないでしょうな。
疑念を持っている人は研究の方法を知らないことも多く、煮詰めて結論にまで達することが出来ていないように感じます。
興味があることを沢山そして浅く研究するよりも一つのことをとことんまで一度調べてみると聖書の言葉の「高さと幅と深さ」を嫌でも痛感して、自分ってこんな所までしか理解できていないのか~と感じるでしょう。
おいらは聖書を学び始めて20年になります。
丁度小学校の4年生の時に学び始めたんですな。
しかし20年学んでも「これだけしか学べていない」と感じます。
また献身してから18年たちました。
でも献身したクリスチャンとしては相応しい振る舞いは出来ておらずつまずきの元になってきました。
人間というのは簡単には変われませんね~。
基本的に小さい頃に築いた個性というのは変わりません。
もし変えることが出来ているとしてもそこには内なる葛藤が常にあり、努力が伴っていると言うことです。
そしてこの葛藤は完全になるまでずっとつきまとうでしょう。
よって変えている事が出来ている人は努力を払っていると言うことを認められて誉められるべきなのです。
なんだか違う方向に転がりすぎましたが、仕事でどこかに出る必要があるのであればそろそろ家族のことを心配しなくても良いんでないかと感じるようになってきました。
もとよりおいらが心配させていますのでおいらからもたらされる心労を無くす事によりかなり楽になるでしょう。
でももっと早くに気がつけば良かったですな。
まあおいらはとことんまでやって実際に結果を見せなければ気が済まない性格なので駄目になるまで行ってしまったんですけどね。
必要があれば神が賄って下さるでしょう。
食べ物はその日その日に備えられるのです。
信仰を持って生活していきたいモノです。
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今日は6時ぐらいに目が覚めてひとっ風呂浴びて記事を書いています。
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正直なことを書くと今まで自立してこなかったのは家族が心配だったからです。
「もしも家族に何かあれば」と考えると離れるなんて考えられなかったんですな。
しかしそんなことでは駄目なんだと言うことも他の人を見ていると感じます。
世間では家族の死に目に間に合わなければ悪いことだと考えられています。
これは死ぬという最悪の事態に関してですが、病気でも同じだとか考えるんですな。
しかしこちらに来るにしてもおいらは断固反対していたので関西に戻っても良いのかもしれないとか考えています。
でも関西では何も出来ないですよね。
どうせ引っ越すのであれば東京とか京都、福岡、名古屋、北海道などの主要都市.....というかAppleStoreのある都市です。
またもっと世界的に見るとおいらはCANADAが好きなのでCANADAの方に行きたいとか考えますな。
Americaの方にも行ければいいですけど、社会保障番号はもとより保険料や医療費が非常に高いので安い国に行ければいいな~ とか考えています。
するとGermanyとかSwedenなどの文化の息づいた街が存在する福祉や医療がしっかりしている国なんかに行きたいと思います。
海外に興味があるのは今の日本の飽和状態をより客観的に見るために行きたいんですな。
余りにたるんでいるとか感じますし、平和ぼけしすぎています。
政治に関しても国民感情へのResponseが悪すぎます。
無責任な年寄りが腰を据えてどっしり構えている政治のあり方が憤りを感じる原因になっています。
「自分が良ければ万事良し」という政治家や官僚、経営者が幅をきかせていて昔からありましたが今頃「経営格差」などと抜かしていますし、年金問題など無駄遣いをしつつそれを止めようとせず更に無駄遣いをすることに専念する姿勢、天下り問題などを即対応していないことなどにより血税と言いながら無駄遣いを促進させているのに嫌になってくるんですな。
おいらは命のギリギリのやりとりをするぐらいの国に行かなければならないとよく考えます。
命の重要性を考えて、少しでも深く聖書に関しての知識を広い視野によって見ることが出来るようになりたいし、少しでも高いところから聖書に関しての知識を見たい、少しでも深いところから聖書に関しての知識を見たいと願っています。
また世界にある美しい景色を見ることによって神の偉大さを痛感したいと願ってもいます。
神の言葉、つまり聖書に関して疑問を感じる人が多くいます。
余りに疑念を深くしすぎて殆どのことを疑問を持ってでしか見ることが出来ていない人が実際にいるんですな。
そのような人はある意味学び方を間違っていると言えるでしょう。
確かに神のことを知る手段としてもっとも有効的な方法は聖書から学んで知識を深めることでしょう。
でも神の言葉だけでは神のことを真に知るには至りません。
神を知る方法としてもう一つ重要なFactorは自然などの神が作られたモノを見ることです。
その作りの美しさをしり、すべてのモノが真の意味で存在することの本質を知るときにより知識を深めることになるでしょう。
論理だけでは人間というのは納得しません。
自分の心の琴線に触れるモノから”でしか”実際に神の偉大さを知ることが出来ないのはもう一つの事実です。
そしてここの人の心の琴線というのは十人十色で世界の人口と同じだけあると言うことなんですな。
しかも書き加えておかなければならないのは一人の人の心の琴線というのは一つではないと言うことでしょう。
多感で感性が豊かな人は沢山の事から啓発を受けるでしょう。
まあ少し書きましたが、おいらの身近にいる人の中に疑念しか湧いてこないという人がいます。
この方を見ていると狭量な見解の中でしか物事を見ることが出来ず、言葉に囚われて真の意味を捉え損なっています。
聖書の言葉というのは完全ですが、そのままの意味で捉えると語弊があることが多いんですな。
よってちゃんと言葉を分析し言わんとしていることを認識しなければなりません。
また喜びや悲しみ等の言葉もちゃんと筆者の心境になって捉えなければならないでしょう。
そしてその言葉から神が何を読者に伝えたいのかを読み取ることも重要です。
なんだか仕事の話から聖書の話になりましたが、疑念というのは時に重要ですが、すべてを疑念を持ってみると言うことは問題があります。
研究不足が否めないでしょうな。
疑念を持っている人は研究の方法を知らないことも多く、煮詰めて結論にまで達することが出来ていないように感じます。
興味があることを沢山そして浅く研究するよりも一つのことをとことんまで一度調べてみると聖書の言葉の「高さと幅と深さ」を嫌でも痛感して、自分ってこんな所までしか理解できていないのか~と感じるでしょう。
おいらは聖書を学び始めて20年になります。
丁度小学校の4年生の時に学び始めたんですな。
しかし20年学んでも「これだけしか学べていない」と感じます。
また献身してから18年たちました。
でも献身したクリスチャンとしては相応しい振る舞いは出来ておらずつまずきの元になってきました。
人間というのは簡単には変われませんね~。
基本的に小さい頃に築いた個性というのは変わりません。
もし変えることが出来ているとしてもそこには内なる葛藤が常にあり、努力が伴っていると言うことです。
そしてこの葛藤は完全になるまでずっとつきまとうでしょう。
よって変えている事が出来ている人は努力を払っていると言うことを認められて誉められるべきなのです。
なんだか違う方向に転がりすぎましたが、仕事でどこかに出る必要があるのであればそろそろ家族のことを心配しなくても良いんでないかと感じるようになってきました。
もとよりおいらが心配させていますのでおいらからもたらされる心労を無くす事によりかなり楽になるでしょう。
でももっと早くに気がつけば良かったですな。
まあおいらはとことんまでやって実際に結果を見せなければ気が済まない性格なので駄目になるまで行ってしまったんですけどね。
必要があれば神が賄って下さるでしょう。
食べ物はその日その日に備えられるのです。
信仰を持って生活していきたいモノです。