記憶が飛びますね......................
かなりの記憶障害を感じます。
整合性がとれなくなってきています。
思っているよりも酷い症状ですね。
「若年性のAlzheimerにでもなっているのだろうか?」
とい危惧してしまうほどに記憶が飛んでいます。
これは少しどころではなくかなりの障害となっているようです。
仕事に対してのMotivationも高くなってきて居るんですけどね。
このような状態だと仕事どころではないような気もします。
以前に仕事をしていた頃を思い起こすと同様な症状が出ていた記憶があります。
その殆どが記憶障害だとは思っていなかったんですけどね。
忘れてしまうことは忘れたくて忘れるのではありません。
覚えていなければならないという強い気持ちを抱くことは抱くのですがね。
その際にMemoもしますし、記録もとります。
しかし記録をとったことも忘れ去ってしまいます。
このことでおいらは無責任だと思われることが少なくありません。
人間というのは嫌なことは忘れるように出来ているといわれています。
そして向き合うことが出来るようになったならば思い出すという傾向があります。
でもおいらは実際にそのような行動をとることが嫌なのかどうかも把握できていませんでした。
何事でも能動的に行動したいと思って生きてきました。
鬱に入る前までは周囲に言われる儘、Railの上を走らされる儘になっていたんですよね。
こちらに来てからの記憶障害は非常に酷いというのは心理的に受け付けていないと言うことの表れなのかもしれません。
今おいらが身を置いている住まいをおいら自身は自分の家だという認識は無いというのもあるのかもしれません。
勝手に連れてこられて勝手に拘束されているという意識が少なからず昔からありました。
「Moratorium人間」という言葉があります。
最近知ったのですが、おいらはこのMoratorium人間の最たるモノでしょう。
親に責任転嫁し、その責任の要因全てが親に起因するとさえ考えているのですから全く持ってその通りです。
しかし軽率に行動するということに関してはおいらは親よりも周りの状況を把握し、最善を選択していたのだという自信があります。
確かに逆境がありますし、苦境に立っている人もいることでしょう。
でもその苦境というのは一時的なモノでしかないということは明白で解りきっていることです。
実際に苦しい状況にある人間は苦しい状況が永遠に続くような感覚に陥ります。
おいら自身もそうでした。
最近でこそ大分改善されつつありますし、現実的に自分が果たす行動の価値を認識できるようになってきています。
親元にいるということは限界があるということを思いますね。
要因が全て詰まっている人間の傍らにずっと居るという誤認はおいら自身にとっても家族にとっても悪影響を及ぼします。
それと思考の深さが家族よりも深い所で考えているのだと気づきもしました。
「住めば都」という言葉があります。
過去に肯定的なことを書いたかもしれませんが、現在のおいらは否定的です。
此方に住んで半生以上が経過しました。
ですが、おいらはこちらに来たことよりも関西に留まっていた方が幾分マシな生活を送れていたと思えてならないのです。
仕事をするにしても此方に来る時点で需要がないというのは解りきっていることですしね。
Christianはパートやアルバイト程度しか出来ないという認識がどうしてもついて回ります。
これは非常に大きな誤解です。
Christianでも伝道活動第一にしなければならないという訳ではないということですな。
確かにこういった活動を第一にするのは望ましいことです。
しかしこのような活動をしている人のSupportをする人間というのが必ず必要です。
加えて手に職をつける為に学校に行く事がどうしてNGだと言われてきたのかがおいらにはどう考えても理解できませんでした。
「モグラ叩き」のように全ての出る芽を摘むということがなされてきました。
欲しいモノややりたいことには親やChristianの助言者が考えるような短絡的で表面的、体裁を保つというような浅いモノではありませんでした。
この原因となっているのはおいらの意図を汲む能力のない人間に助言や発言権を与えてきたというおいらの責任であるということが明確になってきています。
それに深く思考することでは「おいらの方に部がある方が多い」ということが最近の認識としては産まれてきています。
他の人の見解とおいらの見解の期間というかSpanは全く異なります。
おいらは別に非常に長期的なモノでも望む事柄を得る為には苦にするTypeではありません。
ところが周りの見解というのは非常に短期的な期間でしか見られない人が多すぎます。
物事というのは長い目で見なければなりません。
そして物事を俯瞰してみることにより客観性を保つことも必要でしょう。
おいらはChristianですので伝道活動なんかにも参加することがあります。
確かに沢山の時間を捧げている方たちを見ていると素晴らしいとは思いますけどね。
非常に非効率的な手段でしか行えていないということを良く感じます。
人間との関わりというのは一方的であったり、一時的なモノでは大体のCaseで行動の意味が薄くなることが少なくありません。
確かに定期的に訪れるようには取り計らわれていますがね。
個人の興味や関心を知りそこから話をしていくというのが重要だと思えてきます。
ケチを付ける立場にはないおいらがこのようなことを書くのも問題があるでしょうけどね。
良い話し合いが出来たのにその効果を理解できないことが少なくありません。
伝道活動のそのものの意味は個別の「教育」に他なりません。
教育というのは「対象となる人物に最大の益にならなければならない」とおいらは考えています。
学校の教育とは全く違う所は実用的な生活密着型の教育を施す必要性があるということですな。
そして教育というのは継続的に行われることが条件としてあります。
その条件を理解し、把握している人がどれだけ居るのだろうと非常に大きな疑問符を付けたくなりますな。
話があちこちにいってしまいますね。
こちらに来てからのおいらは長く生きたいという願いは皆無でした。
どちらかというと早々に死ねたら良いのにと考えていたんですよね。
おいらが何かしらを行いたいと発言すると全てを悉く否定されて来ました。
これはおいらが他人に助言を求めたり、実行する際にその決定権を他の人間に委ねてきたことに問題があります。
自分の人生を選ぶことが出来ないという今から考えると基本的な権利を掌握され、此方の深い意図も汲み取れない方たちに多大な影響力を持たせてきたことに大きな問題があるということですな。
少し疲れているので収拾の付かない内容になっていますね。
こんな記事で済みません。
おいら自身が責任を持って自分の人生の舵を取っていかねばならないということが理解できつつあります。
其れが最善であり、とった行動に対して何かしらの問題が発生しても対処できるということを何かしらの方法で証明しなければなりますまい。
鬱病というのは処理能力を極端に失ってしまいます。
そこに記憶障害という欠陥を抱いているのですから、問題があるんですよね。
どうにかしなければならないでしょう。
記憶力向上の方法を模索しているのもこの辺りに最大の要因があります。
もっと打ち込まなければならないですね。
かなりの記憶障害を感じます。
整合性がとれなくなってきています。
思っているよりも酷い症状ですね。
「若年性のAlzheimerにでもなっているのだろうか?」
とい危惧してしまうほどに記憶が飛んでいます。
これは少しどころではなくかなりの障害となっているようです。
仕事に対してのMotivationも高くなってきて居るんですけどね。
このような状態だと仕事どころではないような気もします。
以前に仕事をしていた頃を思い起こすと同様な症状が出ていた記憶があります。
その殆どが記憶障害だとは思っていなかったんですけどね。
忘れてしまうことは忘れたくて忘れるのではありません。
覚えていなければならないという強い気持ちを抱くことは抱くのですがね。
その際にMemoもしますし、記録もとります。
しかし記録をとったことも忘れ去ってしまいます。
このことでおいらは無責任だと思われることが少なくありません。
人間というのは嫌なことは忘れるように出来ているといわれています。
そして向き合うことが出来るようになったならば思い出すという傾向があります。
でもおいらは実際にそのような行動をとることが嫌なのかどうかも把握できていませんでした。
何事でも能動的に行動したいと思って生きてきました。
鬱に入る前までは周囲に言われる儘、Railの上を走らされる儘になっていたんですよね。
こちらに来てからの記憶障害は非常に酷いというのは心理的に受け付けていないと言うことの表れなのかもしれません。
今おいらが身を置いている住まいをおいら自身は自分の家だという認識は無いというのもあるのかもしれません。
勝手に連れてこられて勝手に拘束されているという意識が少なからず昔からありました。
「Moratorium人間」という言葉があります。
最近知ったのですが、おいらはこのMoratorium人間の最たるモノでしょう。
親に責任転嫁し、その責任の要因全てが親に起因するとさえ考えているのですから全く持ってその通りです。
しかし軽率に行動するということに関してはおいらは親よりも周りの状況を把握し、最善を選択していたのだという自信があります。
確かに逆境がありますし、苦境に立っている人もいることでしょう。
でもその苦境というのは一時的なモノでしかないということは明白で解りきっていることです。
実際に苦しい状況にある人間は苦しい状況が永遠に続くような感覚に陥ります。
おいら自身もそうでした。
最近でこそ大分改善されつつありますし、現実的に自分が果たす行動の価値を認識できるようになってきています。
親元にいるということは限界があるということを思いますね。
要因が全て詰まっている人間の傍らにずっと居るという誤認はおいら自身にとっても家族にとっても悪影響を及ぼします。
それと思考の深さが家族よりも深い所で考えているのだと気づきもしました。
「住めば都」という言葉があります。
過去に肯定的なことを書いたかもしれませんが、現在のおいらは否定的です。
此方に住んで半生以上が経過しました。
ですが、おいらはこちらに来たことよりも関西に留まっていた方が幾分マシな生活を送れていたと思えてならないのです。
仕事をするにしても此方に来る時点で需要がないというのは解りきっていることですしね。
Christianはパートやアルバイト程度しか出来ないという認識がどうしてもついて回ります。
これは非常に大きな誤解です。
Christianでも伝道活動第一にしなければならないという訳ではないということですな。
確かにこういった活動を第一にするのは望ましいことです。
しかしこのような活動をしている人のSupportをする人間というのが必ず必要です。
加えて手に職をつける為に学校に行く事がどうしてNGだと言われてきたのかがおいらにはどう考えても理解できませんでした。
「モグラ叩き」のように全ての出る芽を摘むということがなされてきました。
欲しいモノややりたいことには親やChristianの助言者が考えるような短絡的で表面的、体裁を保つというような浅いモノではありませんでした。
この原因となっているのはおいらの意図を汲む能力のない人間に助言や発言権を与えてきたというおいらの責任であるということが明確になってきています。
それに深く思考することでは「おいらの方に部がある方が多い」ということが最近の認識としては産まれてきています。
他の人の見解とおいらの見解の期間というかSpanは全く異なります。
おいらは別に非常に長期的なモノでも望む事柄を得る為には苦にするTypeではありません。
ところが周りの見解というのは非常に短期的な期間でしか見られない人が多すぎます。
物事というのは長い目で見なければなりません。
そして物事を俯瞰してみることにより客観性を保つことも必要でしょう。
おいらはChristianですので伝道活動なんかにも参加することがあります。
確かに沢山の時間を捧げている方たちを見ていると素晴らしいとは思いますけどね。
非常に非効率的な手段でしか行えていないということを良く感じます。
人間との関わりというのは一方的であったり、一時的なモノでは大体のCaseで行動の意味が薄くなることが少なくありません。
確かに定期的に訪れるようには取り計らわれていますがね。
個人の興味や関心を知りそこから話をしていくというのが重要だと思えてきます。
ケチを付ける立場にはないおいらがこのようなことを書くのも問題があるでしょうけどね。
良い話し合いが出来たのにその効果を理解できないことが少なくありません。
伝道活動のそのものの意味は個別の「教育」に他なりません。
教育というのは「対象となる人物に最大の益にならなければならない」とおいらは考えています。
学校の教育とは全く違う所は実用的な生活密着型の教育を施す必要性があるということですな。
そして教育というのは継続的に行われることが条件としてあります。
その条件を理解し、把握している人がどれだけ居るのだろうと非常に大きな疑問符を付けたくなりますな。
話があちこちにいってしまいますね。
こちらに来てからのおいらは長く生きたいという願いは皆無でした。
どちらかというと早々に死ねたら良いのにと考えていたんですよね。
おいらが何かしらを行いたいと発言すると全てを悉く否定されて来ました。
これはおいらが他人に助言を求めたり、実行する際にその決定権を他の人間に委ねてきたことに問題があります。
自分の人生を選ぶことが出来ないという今から考えると基本的な権利を掌握され、此方の深い意図も汲み取れない方たちに多大な影響力を持たせてきたことに大きな問題があるということですな。
少し疲れているので収拾の付かない内容になっていますね。
こんな記事で済みません。
おいら自身が責任を持って自分の人生の舵を取っていかねばならないということが理解できつつあります。
其れが最善であり、とった行動に対して何かしらの問題が発生しても対処できるということを何かしらの方法で証明しなければなりますまい。
鬱病というのは処理能力を極端に失ってしまいます。
そこに記憶障害という欠陥を抱いているのですから、問題があるんですよね。
どうにかしなければならないでしょう。
記憶力向上の方法を模索しているのもこの辺りに最大の要因があります。
もっと打ち込まなければならないですね。