自分を蔑むことに掛けては任せてください.........................
これは自信を持って人に言えることです。
「こんな事で自信を持つなよ」と言われそうですがね。
親類に鬱になっている子がいます。
しかし彼女の鬱度というのはおいらの比ではないというのは単純に良く解ります。
生にしがみつくような精神的活動を示していることから明らかです。
それに自分の価値をある程度認識しているというのはとても大きな事でしょう。
「死にたいという願いの裏返しに生きたいという願いがある」
ということを聴いた人が居るようですが、おいらの死ぬことへの願いは生きたいという事の裏返しなどという気の利いた動機はありません。
普通の人はそうなのでしょうけどね。
おいらは自分の生きている価値に関しては絶望していますからね。
生きたいという願いなんていうのはとうの昔に捨てています。
死ぬのが当然で当たり前なのですから、死ぬ云々はもう良いんですよ。
自分を卑下することは精神世界の中での当然行うことだという位置づけで生活してきました。
よって人からどう思われようとも構わないのです。
ただ失望している人には何かしら自身の価値を肯定して貰いたいと思うんですよね。
自分自身の価値を見失っている人の多くは自分自身が何も出来ないという思いこみからそうなっていることが少なくありません。
諦め切れていないのであればまだ救いはあるということですな。
既に諦めきってどうしようもない人が死にたいと願うんですよ。
自殺の名所に行くのは自分が死ぬことにまだ未練があるからでしょう。
そこに行って他の人が死んだんだと同じ事をした人が確実にある場所に行って死ぬ勇気を貰う訳です。
自殺願望の本気の自殺というのは場所を選びません。
ただ迷惑を掛けたくないという意識は少なからずあります。
死体の処理や家の中にある物品の処理などをするのが大変で家族が生きて欲しいと願っているのであれば生きるという選択を選ばざるを得ないんですよね。
死ぬというのは単純なモノではありません。
死ぬことに真摯に向き合っている人は死ぬ時と場所を考えているモノなんですよ。
ただでさえ醜く汚れている生き物の処理を人様にして貰うというのは気が引けるんです。
今日はこの親類と少し話をしたのですが、おいらからすると非常に軽度の鬱状態で
「死にたい」
という言葉を発しているようです。
「死ぬ」事の重さというのは自死を認めて貰えないChristianという世界の中で生活するおいらとしては苦痛を伴うモノです。
自死というのは人として不自然なことであり、それはSoftware面(精神的活動)の問題でしかないんですよね。
よって身体にはなんの落ち度もありません。
身体は神様のモノですからね。
この身体を殺すことはおいらは人殺しになります。
自死でも他の所有者の人を殺すことになるのですから苦しいんですよ。
もしこれが自分自身だけのモノであったならば、どれだけ楽なのでしょう。
腹を痛めて生んでくれた母上、愛情を持って見守ってくれている父上、多少でもおいらを兄だと慕ってくれる妹君達と弟君を悲しませることはしたくはありません。
孤独でなんの知識もなく簡単に死んでいける人たちが羨ましいんですよね。
命について考え、生きることを考え、死ぬのは深く考えると迂闊に自死できないのは当然なんですよ。
「じゃあ、ちょっと死んでくるわ」的な使い捨てるような死に方をおいらは自殺だとは認めたくはありません。
苦しみながら生きる事の方がどれだけ悲惨なのかを柵(しがらみ)の中で味わいながら生活するのは苦痛しかありません。
死ぬことを願いながら生かされることほど残酷なことはありません。
「死にたい」というのは欲求系の言い回しであり願望です。
自死を決意している人は「死ぬ」という言い切り言葉を用いるはずです。
最近はおいら自身変わってきているようです。
今日は車を買ったり、Computerを買ったり、Stationeryを買ったりして生きていることに意義を見出そうとしているということを言いました。
しかしその裏の意味は言いませんでした。
車の支払いを先月終えることが出来ました。
Computerはまだ支払いが残っているのですがね。
おいらはこれらをもしおいらが死んだなら誰かが使えるようにしたいと思っています。
もし自死を決意して後に残ったモノがあるならば有用に使えるようにしておきたいからなんですよね。
遺品としておいらが使っているモノを見ると苦痛になるならば捨てて貰っても構わないと以前にBlogで書いた覚えがあります。
不意の事故で、不慮の事故、傷害事件、Terrorismなどの「時と予見し得ない出来事」で死ねるならば幸いだとも書いた覚えがあります。
人が死ぬのであれば自分が死んだ方が良いですしね。
おいらの命で助かるのであればとどれだけ考えたでしょう。
人が死ぬという事件が発生して生きたいと願う人が死んでいきます。
死にたいと願いながら生きながらえている人間としては死ぬことへの願望というのは非常に強いモノです。
人は生きたいと願っている人が死んでいくのですから、死にたいと思っている人はその人達に言い開きが出来るようにもしておかねばならないという考えもあります。
命の価値というのは残念ながら平等ではありません。
今日話したことの中に日本という国に生まれて衣食住に恵まれ、過分の状況にあるのです。
それに引き換え飢餓で苦しんでいる人たち、病気で亡くなっていく人たち、事件や事故でなくなっていく人たちが沢山います。
ではもしこのような人たちが生き返ってきて豊かな環境ながら自死したということを話したならばどう思うでしょうか。
それに聖書には神に言い開きをする必要性も問われています。
自分が自死する説明責任を問われるならばそれは自分自身のEgoismで行ったと言わざるを得ません。
自殺というのは多分に自分自身のEgoismが加味されている行動なんです。
環境として自死できないならば自分を蔑むというVectorにEnergyを注ぎ込むことになっていくのは当然ですよね。
死ぬことをずっと考えながらも死ねない環境ならば自分がどれだけ最低なのかを追求することへ移行していくのは必然だった訳です。
罵詈雑言をおいらは自分の知っている範囲でFullに活用して自分を貶し、唆し、蔑み、誑かし、卑下するようになっていきました。
これはBlogを最初から読んでいただければ解ると思いますが、Blogで書く事というのは他の人が読むのですから少なからず軽い調子の言葉しか用いていません。
「死ぬつもりであれば何でも出来る」という人が居ます。
これは非常に大きな語弊がありますね。
死ぬつもりならば全く何も出来ないんですよ。
死ぬと言うことは生命活動を停止することなのですから、根本的な言葉の誤用だと言えるでしょう。
これを迂闊に言う人をおいらは絶対に信用しません。
これと同様に命に関わる活動で維持しなければならない行動に関しては、それを軽く見る人や馬鹿にした発言をする人はおいらは知人にもなりたくありません。
以前に叔父上が薬を服用する際に「飲まなければいいじゃない」と発言した人のことをBlogで書きました。
おいらは命の価値や生かされている環境にいるからこそ命を軽率に扱うような精神態度を示している人に過敏に反応するようです。
もし飲まなければ死ぬ可能性が高くなる、もしくは死んでしまうから薬を服用するんです。
「死ぬつもりであれば何でも出来る」という人に言いたいのは
「じゃあ自分自身死ぬような状況で何かして下さいよ」という反論をしますし、
「薬を飲まなければいいじゃない」という人には既に一度実行していますが
「じゃあ一度おなじ病気になって試して下さいよ。」とおいらは言うでしょう。
生きることと言うのは苦しいことなんですよ。
その辺りのことを考えたならば例え冗談でも
笑えね~んだよ。
真剣に自分の死と向き合った事もない人間には憤りが湧いてきます。
おいらは「生かされている」ことに間違いはありませんし、これからも変わることはないでしょう。
これは自信を持って人に言えることです。
「こんな事で自信を持つなよ」と言われそうですがね。
親類に鬱になっている子がいます。
しかし彼女の鬱度というのはおいらの比ではないというのは単純に良く解ります。
生にしがみつくような精神的活動を示していることから明らかです。
それに自分の価値をある程度認識しているというのはとても大きな事でしょう。
「死にたいという願いの裏返しに生きたいという願いがある」
ということを聴いた人が居るようですが、おいらの死ぬことへの願いは生きたいという事の裏返しなどという気の利いた動機はありません。
普通の人はそうなのでしょうけどね。
おいらは自分の生きている価値に関しては絶望していますからね。
生きたいという願いなんていうのはとうの昔に捨てています。
死ぬのが当然で当たり前なのですから、死ぬ云々はもう良いんですよ。
自分を卑下することは精神世界の中での当然行うことだという位置づけで生活してきました。
よって人からどう思われようとも構わないのです。
ただ失望している人には何かしら自身の価値を肯定して貰いたいと思うんですよね。
自分自身の価値を見失っている人の多くは自分自身が何も出来ないという思いこみからそうなっていることが少なくありません。
諦め切れていないのであればまだ救いはあるということですな。
既に諦めきってどうしようもない人が死にたいと願うんですよ。
自殺の名所に行くのは自分が死ぬことにまだ未練があるからでしょう。
そこに行って他の人が死んだんだと同じ事をした人が確実にある場所に行って死ぬ勇気を貰う訳です。
自殺願望の本気の自殺というのは場所を選びません。
ただ迷惑を掛けたくないという意識は少なからずあります。
死体の処理や家の中にある物品の処理などをするのが大変で家族が生きて欲しいと願っているのであれば生きるという選択を選ばざるを得ないんですよね。
死ぬというのは単純なモノではありません。
死ぬことに真摯に向き合っている人は死ぬ時と場所を考えているモノなんですよ。
ただでさえ醜く汚れている生き物の処理を人様にして貰うというのは気が引けるんです。
今日はこの親類と少し話をしたのですが、おいらからすると非常に軽度の鬱状態で
「死にたい」
という言葉を発しているようです。
「死ぬ」事の重さというのは自死を認めて貰えないChristianという世界の中で生活するおいらとしては苦痛を伴うモノです。
自死というのは人として不自然なことであり、それはSoftware面(精神的活動)の問題でしかないんですよね。
よって身体にはなんの落ち度もありません。
身体は神様のモノですからね。
この身体を殺すことはおいらは人殺しになります。
自死でも他の所有者の人を殺すことになるのですから苦しいんですよ。
もしこれが自分自身だけのモノであったならば、どれだけ楽なのでしょう。
腹を痛めて生んでくれた母上、愛情を持って見守ってくれている父上、多少でもおいらを兄だと慕ってくれる妹君達と弟君を悲しませることはしたくはありません。
孤独でなんの知識もなく簡単に死んでいける人たちが羨ましいんですよね。
命について考え、生きることを考え、死ぬのは深く考えると迂闊に自死できないのは当然なんですよ。
「じゃあ、ちょっと死んでくるわ」的な使い捨てるような死に方をおいらは自殺だとは認めたくはありません。
苦しみながら生きる事の方がどれだけ悲惨なのかを柵(しがらみ)の中で味わいながら生活するのは苦痛しかありません。
死ぬことを願いながら生かされることほど残酷なことはありません。
「死にたい」というのは欲求系の言い回しであり願望です。
自死を決意している人は「死ぬ」という言い切り言葉を用いるはずです。
最近はおいら自身変わってきているようです。
今日は車を買ったり、Computerを買ったり、Stationeryを買ったりして生きていることに意義を見出そうとしているということを言いました。
しかしその裏の意味は言いませんでした。
車の支払いを先月終えることが出来ました。
Computerはまだ支払いが残っているのですがね。
おいらはこれらをもしおいらが死んだなら誰かが使えるようにしたいと思っています。
もし自死を決意して後に残ったモノがあるならば有用に使えるようにしておきたいからなんですよね。
遺品としておいらが使っているモノを見ると苦痛になるならば捨てて貰っても構わないと以前にBlogで書いた覚えがあります。
不意の事故で、不慮の事故、傷害事件、Terrorismなどの「時と予見し得ない出来事」で死ねるならば幸いだとも書いた覚えがあります。
人が死ぬのであれば自分が死んだ方が良いですしね。
おいらの命で助かるのであればとどれだけ考えたでしょう。
人が死ぬという事件が発生して生きたいと願う人が死んでいきます。
死にたいと願いながら生きながらえている人間としては死ぬことへの願望というのは非常に強いモノです。
人は生きたいと願っている人が死んでいくのですから、死にたいと思っている人はその人達に言い開きが出来るようにもしておかねばならないという考えもあります。
命の価値というのは残念ながら平等ではありません。
今日話したことの中に日本という国に生まれて衣食住に恵まれ、過分の状況にあるのです。
それに引き換え飢餓で苦しんでいる人たち、病気で亡くなっていく人たち、事件や事故でなくなっていく人たちが沢山います。
ではもしこのような人たちが生き返ってきて豊かな環境ながら自死したということを話したならばどう思うでしょうか。
それに聖書には神に言い開きをする必要性も問われています。
自分が自死する説明責任を問われるならばそれは自分自身のEgoismで行ったと言わざるを得ません。
自殺というのは多分に自分自身のEgoismが加味されている行動なんです。
環境として自死できないならば自分を蔑むというVectorにEnergyを注ぎ込むことになっていくのは当然ですよね。
死ぬことをずっと考えながらも死ねない環境ならば自分がどれだけ最低なのかを追求することへ移行していくのは必然だった訳です。
罵詈雑言をおいらは自分の知っている範囲でFullに活用して自分を貶し、唆し、蔑み、誑かし、卑下するようになっていきました。
これはBlogを最初から読んでいただければ解ると思いますが、Blogで書く事というのは他の人が読むのですから少なからず軽い調子の言葉しか用いていません。
「死ぬつもりであれば何でも出来る」という人が居ます。
これは非常に大きな語弊がありますね。
死ぬつもりならば全く何も出来ないんですよ。
死ぬと言うことは生命活動を停止することなのですから、根本的な言葉の誤用だと言えるでしょう。
これを迂闊に言う人をおいらは絶対に信用しません。
これと同様に命に関わる活動で維持しなければならない行動に関しては、それを軽く見る人や馬鹿にした発言をする人はおいらは知人にもなりたくありません。
以前に叔父上が薬を服用する際に「飲まなければいいじゃない」と発言した人のことをBlogで書きました。
おいらは命の価値や生かされている環境にいるからこそ命を軽率に扱うような精神態度を示している人に過敏に反応するようです。
もし飲まなければ死ぬ可能性が高くなる、もしくは死んでしまうから薬を服用するんです。
「死ぬつもりであれば何でも出来る」という人に言いたいのは
「じゃあ自分自身死ぬような状況で何かして下さいよ」という反論をしますし、
「薬を飲まなければいいじゃない」という人には既に一度実行していますが
「じゃあ一度おなじ病気になって試して下さいよ。」とおいらは言うでしょう。
生きることと言うのは苦しいことなんですよ。
その辺りのことを考えたならば例え冗談でも
笑えね~んだよ。
真剣に自分の死と向き合った事もない人間には憤りが湧いてきます。
おいらは「生かされている」ことに間違いはありませんし、これからも変わることはないでしょう。