現在のところはおいらは希薄な人間関係しか構築してきませんでした...............................
「理由は他人は信用できない」の一点につきます。
他人に期待するなんて間違っていると言うことと何か物事を行っていただくと言うことは恐れ多いという理由もありました。
しかし人間関係というのは単純にそう言ったモノではないのが実情でしょう。
おいらには友人というモノが存在しません。
これはこちら側の心構えも関係しているのかも知れません。
というのもおいら自身に他人から友人だと思って貰えるような「価値もない」という認識があるからなんですな。
これはまた別の記事で書こうとは思っているのですが、友人を構築する上では自分への認識を改めることが先決なのだとも思えてきます。
人間関係を深める上で重要なのはやはり親近感を感じることなのだという結論は出ています。
ところが客観的な見方を持つのも非常に重要だとも思っています。
感情移入しすぎると客観性が損なわれてしまいますし、被害者意識を増長したり持たせてしまったりします。
逆に客観的になりすぎると駄目なのは、喜ぶ理由ですね。
喜びというのは個々の人間の価値基準により得られるモノです。
よって感情移入しなければ他人の喜びを享受することは出来ません。
間違った喜びというモノは存在しますのでそれは論外ですが、喜んで良い理由のモノは純粋にともに喜んでも良いでしょう。
おいらの場合は良きにしろ悪きにしろ客観的に突き放して考えてしまいます。
また感情移入をし過ぎて苦しい思いをしてしまうことが少なからずありますので、気をつけねばならんな~とかね。
苦しい思いをしているのを見ると此方も鬱状態がぶり返してしまうことが少なくないんですよね。
それに自意識過剰な人間の行動というのは時に此方に要求することがEscalateしていくモノです。
そう言った人間を相手にするのもまた苦しいんですよね。
おいらの見地では
他人に期待すること自体が間違い
という認識があります。
これは馬鹿げているな~とか思ってしまいますな。
よって
おいらの行動基準はすべてを自分で管理できなければならない
という拘束力が発生します。
人間が一人で出来ることと言うのは知れています。
ほんの小さな事ですな。
なのに人間は多くの人、たくさんの人に良く見て貰おうと考えます。
すべての人間に良い人だと思って貰うことは出来ないことではありません。
しかしすべての人に自己犠牲的に物事を行っていくと此方から労力が出て行くだけで消耗するだけなんですよね。
これって本当に苦しいですよ。
最善を尽くすというのは解りきっていることですがね。
おいらの最善の定義を改めて書いてみます。
人というのは日常生活を送るだけでも最善を尽くしていると言えます。
仕事をし、家事をし、食事をするなどの寝食する生活を送るだけでも最善を尽くしているはずなんですよね。
物事のBaseというのはこれらを基準に考えねばなりません。
そして他の人のために物事を行うというのはConstantに実行していくのがもっとも自己犠牲的な事なのだとも考えています。
生活の一部になるというのはかなりの労力を必要とするはずだからです。
生活というのは何を第一としているかによっても人は測られねばなりません。
Christianの活動に焦点が合っている方と接するというのは望ましいことですがね。
他のことにしか焦点が合っていない人間というのは疲れるだけなんですよ。
どうにかならないでしょうかね。
おいらが親しく感じるというのは見続けて示している傾向を測ってからでないとありません。
たくさんの人間に物事を行っていくというのは無理なので一部の方に示していくようにはしていますが、効果的に効率的にそれをするようにしていかねばならんな~と考えています。
おいらから話しかける基準は「努力している人」がBaseです。
最近の男は無気力だな~と思うことが少なくありません。
少なくともおいらの近くにいる人間は何事に対しても努力しようとはせず自分からは行動しない人間が多いんですな。
これはおいらからすると切り捨てる類の人間です。
努力している子に何かしら物事を行いたいと願ってやみません。
自分の分を弁えて出来ることを行っていきたいモノです。
「理由は他人は信用できない」の一点につきます。
他人に期待するなんて間違っていると言うことと何か物事を行っていただくと言うことは恐れ多いという理由もありました。
しかし人間関係というのは単純にそう言ったモノではないのが実情でしょう。
おいらには友人というモノが存在しません。
これはこちら側の心構えも関係しているのかも知れません。
というのもおいら自身に他人から友人だと思って貰えるような「価値もない」という認識があるからなんですな。
これはまた別の記事で書こうとは思っているのですが、友人を構築する上では自分への認識を改めることが先決なのだとも思えてきます。
人間関係を深める上で重要なのはやはり親近感を感じることなのだという結論は出ています。
ところが客観的な見方を持つのも非常に重要だとも思っています。
感情移入しすぎると客観性が損なわれてしまいますし、被害者意識を増長したり持たせてしまったりします。
逆に客観的になりすぎると駄目なのは、喜ぶ理由ですね。
喜びというのは個々の人間の価値基準により得られるモノです。
よって感情移入しなければ他人の喜びを享受することは出来ません。
間違った喜びというモノは存在しますのでそれは論外ですが、喜んで良い理由のモノは純粋にともに喜んでも良いでしょう。
おいらの場合は良きにしろ悪きにしろ客観的に突き放して考えてしまいます。
また感情移入をし過ぎて苦しい思いをしてしまうことが少なからずありますので、気をつけねばならんな~とかね。
苦しい思いをしているのを見ると此方も鬱状態がぶり返してしまうことが少なくないんですよね。
それに自意識過剰な人間の行動というのは時に此方に要求することがEscalateしていくモノです。
そう言った人間を相手にするのもまた苦しいんですよね。
おいらの見地では
他人に期待すること自体が間違い
という認識があります。
これは馬鹿げているな~とか思ってしまいますな。
よって
おいらの行動基準はすべてを自分で管理できなければならない
という拘束力が発生します。
人間が一人で出来ることと言うのは知れています。
ほんの小さな事ですな。
なのに人間は多くの人、たくさんの人に良く見て貰おうと考えます。
すべての人間に良い人だと思って貰うことは出来ないことではありません。
しかしすべての人に自己犠牲的に物事を行っていくと此方から労力が出て行くだけで消耗するだけなんですよね。
これって本当に苦しいですよ。
最善を尽くすというのは解りきっていることですがね。
おいらの最善の定義を改めて書いてみます。
人というのは日常生活を送るだけでも最善を尽くしていると言えます。
仕事をし、家事をし、食事をするなどの寝食する生活を送るだけでも最善を尽くしているはずなんですよね。
物事のBaseというのはこれらを基準に考えねばなりません。
そして他の人のために物事を行うというのはConstantに実行していくのがもっとも自己犠牲的な事なのだとも考えています。
生活の一部になるというのはかなりの労力を必要とするはずだからです。
生活というのは何を第一としているかによっても人は測られねばなりません。
Christianの活動に焦点が合っている方と接するというのは望ましいことですがね。
他のことにしか焦点が合っていない人間というのは疲れるだけなんですよ。
どうにかならないでしょうかね。
おいらが親しく感じるというのは見続けて示している傾向を測ってからでないとありません。
たくさんの人間に物事を行っていくというのは無理なので一部の方に示していくようにはしていますが、効果的に効率的にそれをするようにしていかねばならんな~と考えています。
おいらから話しかける基準は「努力している人」がBaseです。
最近の男は無気力だな~と思うことが少なくありません。
少なくともおいらの近くにいる人間は何事に対しても努力しようとはせず自分からは行動しない人間が多いんですな。
これはおいらからすると切り捨てる類の人間です。
努力している子に何かしら物事を行いたいと願ってやみません。
自分の分を弁えて出来ることを行っていきたいモノです。