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@2018村上博行

【人物評伝】 「平泉 渉」(ひらいずみ わたる)

2019-01-15 14:20:09 | 評論
平泉 渉の名を聞いてどれほどの方が存じあげようか。

その前に父である平泉 澄(ウィキ)について述べたい。

東京帝国大学文科大学国史学科を首席で卒業。

平泉澄は戦後まで国粋学者の東大の歴史学教授であった。

学生の特攻に檄をとばしていたというまことしやかな噂がある。

また満州の皇帝溥儀の家庭教師っだという説もある。

しかしながら日本は敗戦し、公職追放となった。

その後は貧しい生活を余儀なくされたという。

平泉澄には3人の男の子供がいる。

長男・洸、二男・汪、三男・渉と一文字の名である。

ここは文学博士らしい名づけである。

さてこれから三男・平泉 渉(ウィキ)について語る。

東京大学法学部政治学科卒業とあるが、入学2年にて国家公務員の試験に合格。

あちこちでは卒業後に外務省に入省とあるが、本人の近い友人からは、もう学生中に外務省のオファーがあり、学生ながら外務省の仕事をしていたという話も聞いている。

卒業後、フランス大使館などで外交官として活躍したが、語学が堪能だった。

日本の英語教育に関し、上智大学教授・渡部昇一と激論を交わしたというのは有名な話である。

平泉 渉は1965年に衆議院議員となる。

その後、科学技術庁長官、経済企画庁長官として入閣し、周りをあっと言わせた。

自民党の中では、派閥は宏池会に所属した。(公家集団と揶揄されることもある)

2000年前後に3回の総選挙で負け、政界を引退した。

その後、財団法人鹿島平和研究所会長となる。

ウィキの系譜をみれば理由が分かるので割愛する。

平泉 渉は財団法人鹿島平和研究所会長として、お忍びでアメリカのキッシンジャーと会ったり、他国の要人とも会ったとされる。

平泉 渉はあまり表には出ない人物であるが、その語学力と多才さで日本を、または鹿島を支えてきたのである。

最後に、もう一つ本当の話だが、15、6年前、財団法人鹿島平和研究所会長の頃、知人を通して一度だけ電話で話したことがある。

平泉 渉はとても落ち着いた威厳のある方だった。

はっこう