恋を知って、女は美しくなる。
遠距離恋愛を成就させると、それは美しい恋物語となる。
でも近づき過ぎた恋愛は、何と言われるのだろう。
「ね」
「何」
「遠距離恋愛ってしてみたくない?」
そんな澪の言葉に、思わず目を瞠ってしまった。
「遠距離…」
「うん。何日も会えなくて、電話の声も聞けなくて、メールとかも全然しないで次の約束だけを待つの」
そう話す澪の様子は嬉々としているように見えた。
「阿呆か。悪い冗談にも程がある」
そんな澪を、一刀両断に切り捨てる科白を吐く。
「酷い… 少しくらい付き合ってくれてもいいじゃない。愛介の莫迦」
「あゝ、莫迦で結構。それで丸く収まるんなら何度でも莫迦言って下さい」
「何、その変な関西弁。それを言うなら、莫迦言うて下さい、やし」
と澪の唇から、滅多に聞かなくなった関西言葉が洩れる。
「みお」
愛介は、少しだけ舌足らず風に彼女の名を呼んだ。
「俺らに遠距離恋愛は無理、絶対にだ。それだけは諦めろ」
そんなこと分かってる、と澪はふて腐れた顔を見せた。
だって仕方がない。自分たちは生まれる前からの許嫁で、澪は物心もつかない数え三歳の正月から一緒に暮らす家族なんだから。
否、それだけじゃない。
今では、この家から一人では一歩も外へ出ることの許されない、牢獄の花嫁なのだから――。
そうは言っても、澪はふわりと微笑む。
お前が笑ってくれるなら、それだけでいっか。
子供の頃。
澪が、愛介や彼の両親を単に家族だと思っていられる年齢までは良かった。
彼女は、自分が“お嫁さん”なんだと知ったあの冬から少しずつ我が侭を言うようになっていった。
二つ違いの許嫁。澪が初潮を迎えた夜に、祖母は彼女を枕元に呼んだ。そして真実を聞かせたのだ。
親は、すでに死んでいないこと。頼れる親戚等々はいないこと。愛介は兄ではないこと。そして二人は、先祖の約束で許嫁であること。その後の暮らしは、この京極家のなかにいる限り安泰であり、しかし婚約を反古にするならそれ相応の慰謝料が必要になることを告げた。
澪が十二の冬。小学校の卒業式まで、数ヶ月という時だった。
一方、愛介が澪の素性を聞いたのは、更に幼い頃にさかのぼる。
それは、澪が家に引き取られて二年後。間もなく小学校へ入学するという冬だった。
難しいことなど何ひとつ分からなかった。ただ、
『一生涯、澪だけを守れ』
という祖母の言葉だけが耳に残っている。
たった一年だけ、同じ中学に通った。
はっきり言って、あの頃の澪は酷かった。完全にパシリと化した愛介をクラスの女子が慰めてくれる程で、それでも我が侭し放題の澪に忠告した女子もいた。
十五で修羅場を経験した愛介は、澪が許嫁であることを隠さなくなった。
許嫁であるならば、どんなパシリ扱いも尻に敷かれた旦那という形に落ち着いた。
「愛介君って、澪にベタぼれだから」
という噂が立つ頃には、澪の我が侭も治まりつつあった。
そんな一年が過ぎ愛介は高校へと進み、やはり同じ家に暮らした。それこそ赤ん坊の頃から見ている澪に恋愛感情があるのか、と問われたら正直分からないと思っていた時期でもある。
女の子は早熟なものと相場は決まっている。
たった二年の差など無いも同然の顔をして、澪は異性に興味を持ち始めた。
今日は何組の誰それが話しかけてくれただの。今日は、どこかのクラブの部長さんと寄り道しただの。
聞かされる愛介はというと、適当に相槌を打ってやるのが日課となっていた。そんな平凡だと信じていた日常に、危険分子はウィルスのように潜み続けた。
やがて事件は起こった。
澪が、高校一年の夏休み。
美術部の合宿と称して訪れた、長野のペンションで澪は忽然とその姿を消した。
警察は勿論、地元住民を巻き込んでの捜索にも、澪の消息は杳としてしれなかった。
祖母が、老体に鞭打つように出かけた長野の旅館先。思わず、といった様子で呟いた言葉を、愛介は誰にも言うことができなかった。
『澪のご先祖さんが、連れて逝ってしまいはったのかもしれん』
そこには、すでに澪の死を予感させる何かを含んでいると、愛介は無意識に感じ取っていた――。
To be continued
著作:紫草
遠距離恋愛を成就させると、それは美しい恋物語となる。
でも近づき過ぎた恋愛は、何と言われるのだろう。
「ね」
「何」
「遠距離恋愛ってしてみたくない?」
そんな澪の言葉に、思わず目を瞠ってしまった。
「遠距離…」
「うん。何日も会えなくて、電話の声も聞けなくて、メールとかも全然しないで次の約束だけを待つの」
そう話す澪の様子は嬉々としているように見えた。
「阿呆か。悪い冗談にも程がある」
そんな澪を、一刀両断に切り捨てる科白を吐く。
「酷い… 少しくらい付き合ってくれてもいいじゃない。愛介の莫迦」
「あゝ、莫迦で結構。それで丸く収まるんなら何度でも莫迦言って下さい」
「何、その変な関西弁。それを言うなら、莫迦言うて下さい、やし」
と澪の唇から、滅多に聞かなくなった関西言葉が洩れる。
「みお」
愛介は、少しだけ舌足らず風に彼女の名を呼んだ。
「俺らに遠距離恋愛は無理、絶対にだ。それだけは諦めろ」
そんなこと分かってる、と澪はふて腐れた顔を見せた。
だって仕方がない。自分たちは生まれる前からの許嫁で、澪は物心もつかない数え三歳の正月から一緒に暮らす家族なんだから。
否、それだけじゃない。
今では、この家から一人では一歩も外へ出ることの許されない、牢獄の花嫁なのだから――。
そうは言っても、澪はふわりと微笑む。
お前が笑ってくれるなら、それだけでいっか。
子供の頃。
澪が、愛介や彼の両親を単に家族だと思っていられる年齢までは良かった。
彼女は、自分が“お嫁さん”なんだと知ったあの冬から少しずつ我が侭を言うようになっていった。
二つ違いの許嫁。澪が初潮を迎えた夜に、祖母は彼女を枕元に呼んだ。そして真実を聞かせたのだ。
親は、すでに死んでいないこと。頼れる親戚等々はいないこと。愛介は兄ではないこと。そして二人は、先祖の約束で許嫁であること。その後の暮らしは、この京極家のなかにいる限り安泰であり、しかし婚約を反古にするならそれ相応の慰謝料が必要になることを告げた。
澪が十二の冬。小学校の卒業式まで、数ヶ月という時だった。
一方、愛介が澪の素性を聞いたのは、更に幼い頃にさかのぼる。
それは、澪が家に引き取られて二年後。間もなく小学校へ入学するという冬だった。
難しいことなど何ひとつ分からなかった。ただ、
『一生涯、澪だけを守れ』
という祖母の言葉だけが耳に残っている。
たった一年だけ、同じ中学に通った。
はっきり言って、あの頃の澪は酷かった。完全にパシリと化した愛介をクラスの女子が慰めてくれる程で、それでも我が侭し放題の澪に忠告した女子もいた。
十五で修羅場を経験した愛介は、澪が許嫁であることを隠さなくなった。
許嫁であるならば、どんなパシリ扱いも尻に敷かれた旦那という形に落ち着いた。
「愛介君って、澪にベタぼれだから」
という噂が立つ頃には、澪の我が侭も治まりつつあった。
そんな一年が過ぎ愛介は高校へと進み、やはり同じ家に暮らした。それこそ赤ん坊の頃から見ている澪に恋愛感情があるのか、と問われたら正直分からないと思っていた時期でもある。
女の子は早熟なものと相場は決まっている。
たった二年の差など無いも同然の顔をして、澪は異性に興味を持ち始めた。
今日は何組の誰それが話しかけてくれただの。今日は、どこかのクラブの部長さんと寄り道しただの。
聞かされる愛介はというと、適当に相槌を打ってやるのが日課となっていた。そんな平凡だと信じていた日常に、危険分子はウィルスのように潜み続けた。
やがて事件は起こった。
澪が、高校一年の夏休み。
美術部の合宿と称して訪れた、長野のペンションで澪は忽然とその姿を消した。
警察は勿論、地元住民を巻き込んでの捜索にも、澪の消息は杳としてしれなかった。
祖母が、老体に鞭打つように出かけた長野の旅館先。思わず、といった様子で呟いた言葉を、愛介は誰にも言うことができなかった。
『澪のご先祖さんが、連れて逝ってしまいはったのかもしれん』
そこには、すでに澪の死を予感させる何かを含んでいると、愛介は無意識に感じ取っていた――。
To be continued
著作:紫草