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『子供ができたの』
結婚して一年、妻からのその知らせは待ちに待ったものだった。
ただ、この時の自分は親になるということの本当の意味を理解していなかった――。
臨月。
大きなお腹をかかえ、日々の暮らしも大変そうだなと思い始めていた頃。いよいよ最後の準備をする為に百貨店へと向かう。
妻は、専門の赤ちゃんデパートでいいと言ったが、ちゃんとした百貨店でも大丈夫だろう。
最初から安物で囲まれた中に子供を置きたくない。
ものによっては自分が譲って、お手頃価格のものを揃えている。
今日はベッドと布団と退院の時に着せるドレス。
小遣いが若干減っても、いいものを買ってやりたい。
そんなことを考えながら、売り場を見て回る。
すると、BABY IN CARと書かれたアイテムを見つけた。
「これも買っておこう」
彼女は自分のその言葉に、首を横に振る。
まだ早いということだろうか。
「こっち」
背を向けていた彼女が振り返ると、有名なキャラクターの絵がついた、赤ちゃんが乗っていますと書かれたものを手にしていた。
「いや、それは止めようよ。俺、車にそれ付けたくない」
刹那、彼女の表情から笑みが消えた。
「帰りましょう」
えっ?!?
待てよ、と声をかけても彼女の足は止まらない。
いい加減にしろ。
思わずそう言いそうになったが自制する。結局、車の中では一言も口をきかずに帰宅した――。
まるで森閑とした寺院のような、張り詰めた空気感だ。このままではダメだ。
せめて食事の前に何とかしなければ。
そう悶々としていると、彼女がコーヒーを淹れてやってきた。
少し話そう、と言った彼女は豆乳入りのコーヒーだ。
「あの赤ちゃんが乗っているメッセージが、一番最悪の状態で必要になる時って分かる?」
どんなって。
周りの車に気を使ってもらえるとか。
いや、最悪ってことは普通の状態じゃないか。
駐車場で困った時に優先してもらえるかな。
たいしたことを言えない自分に少し嫌気がさした。
「最悪って言ってるでしょ。そのどこが最悪なのよ」
「じゃ、どんな時なんだよ」
「交通事故よ」
彼女は続けた。
「横転したり、多重事故だったり、親の私たちですら話すことができない状態で、チャイルドシートが外から確認できないような状態になった時よ」
唖然とした。ただ。
「それなら、文字のステッカーでもいいだろ」
彼女はやはり首を横に振る。
「他にも助けなければならない人がいて、別の車に移動する必要がある時に、アルファベットを読んで認識する時間と、キャラクターを見て赤ちゃんがいるって認識する時間、どちらが確かだと思うの?」
「あ……」
確かに大事なのは大人の事情ではなく、子供の命だ。
あれだって売り物である以上、選ぶ人はいる。ただこれを聞かされてしまったら、もう自分は選べない。
その話はそれで終わり、とりあえずその後は仲直りをしたのだが。
暫くして実家を訪ねた。
妻は里帰り出産はせず、入院するまでは自宅にいることになっている。ただ最近、息がつまると感じることがある。
情けないが逃げてきたんだよな。
父母に、先日の話をした。
世の中は嫁いびりとか、義父母とはうまくいかないとか噂に聞く。
だから二人とも自分の味方をしてくれる思い込んでいた。ところが。
「早いうちに、しっかりと親の責任を教えてもらってよかったな」
と父。
「男はあくまで自分が一番ですものね。本当に子どもを一番に考えることができて目が覚めたでしょ」
と母。
あ~ そうかよ。
二人とも嫁の味方なんだな。
すると違うわと母が言う。
「孫が一番なだけよ」
わかったよ、と不貞腐れた自分は、半分諦めの気持ちもあって帰宅した。
数日後。
高速道路での多重事故の様子が中継されていた。
もしあの中に自分たちがいたら。
初めて、妻の言葉の真意を思い知った。
父が言っていた。
彼女は苦労を知っている人だと。
あらゆる場面で、その先を想像しながら場にいる者を居心地をよくしようとしている。
そこで、自分は一人っ子で甘ったれで、傍から見れば全く成長していないと言われた。その時はそんなことはないと言い張ったものの、その行為そのものが大人気なかったと、今なら分かる。
育休、取るかな。
その後、無事女の子が産まれた。
一ヶ月ほどは彼女の実家に帰る。
最後の一人暮らし。テレビを消していると音がない。
長閑なこの空間も、暫くは味わうことができなくなる。
喧嘩をした翌週、改めて百貨店で用意したベビーベッドに、オルゴールの飾りをする。
これからは三人家族だ。
どんなに喧嘩をしても、嫌なことがあっても、絶対に二人を守ろうと心に決めた――。
【了】 著 作:紫 草
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2024年5月小題:森
イラスト提供
by 狼皮のスイーツマンさん