すっかり忘れておりました。
先に、これの続きを出してしまいました。
深謝。
紫草拝
節分が過ぎた。
暦の上では春。
関東にもかかわらず、いきなり雪が降る。
寒い夜だった――。
「お父さんは、まだ帰ってこないの?」
節分の夜。
娘の言葉に、遅くなるだろうからと先に休むように言った。
もう誤魔化しの効かなくなる年齢だ。
小学五年、美紗子が子供の時はどうだったろうと思い起こす。やはり、大人がどんな言葉を使っても、その雰囲気から何かを感じることはあった。
父親が大好きだからこそ、一旦不審に思ったら容赦ないのではないかと思う。
「今日は帰ってこないかもね」
軽く言ってみる。
彼女の瞳が哀しく揺れたのを見た――。
子供の頃。
家族が揃って、節分の行事をした。
鬼役はいなかった。
家族全員が家の中にいて、父が玄関を開け、『鬼は外』と叫んで豆を巻き戸を閉める。
そしてその夜は、玄関を開けてはいけないと言われていた。
鬼はこれで家には入ってこられないから安心だよ、と言われ、子供心に安堵したことを覚えている。
今はどうだ。
節分といっても、豆まきをするわけではない。
実家では鰯を食べて頭を柊と一緒に玄関につけたが、都会では難しいと言われ、更に鰯も好きじゃないと食べることを拒否された。
以前は父親と一緒になって、あれも嫌これも嫌と言っていた娘が、根気強く日本の習わしについて話を続けていたら、興味を持つようになった。
「都内では少なくなったかもしれないけれど、今も厄除けの言葉は残っているし、おじいちゃんとおばあちゃんの家では鰯の頭が飾ってあるよ」
そう言うと、見てみたいと言う。
一年中、つけてあるから本当はもう見ている。でも、これまで意識していないから、そんな物があることに気づいていない。
「今度行ったら、探して見たら?」
すると嬉しそうに、うん、と頷いた。
夫の帰りが遅くなり、会話がなくなり、そして身につけるものが変わる。
ママ友から聞かされた浮気の三大要素。何と夫は全て当てはまってしまった。
気持ちは沈んだ。母親業に休日はない。朝になれば、母の顔で娘を送り出す。子供にとって、親は男でも女でもない。
せめて、いつか離婚を切り出された時に狼狽えることがないように、心の準備をしておこう。カッコよく生きているところを、娘に見せたい。たとえ陰でどんなに泣いたとしても、娘の前では強い母でいる為に。
年が明けてから夫の様子が変わって、一ヶ月が経った。
立春が過ぎ、ママ友に言わせると、次はお金をもらえなくなるということだった。
春休みには、娘と何処かに行かない?
そんなメッセージを夫に送った。電話をしても出てもらえないし、コールバックもない。
メッセならすぐには読まれなくても、暫くして確認すると読んでいる。ただ何の返信もない。
駄目って返ってこないなら、行けるのかしらね。
もうすぐバレンタインデーだ。
毎年、娘と一緒に手作りチョコをプレゼントしていた。
今年はどうしよう。
何より、娘がもう父親のためのチョコなんて作ろうと言わないかもしれない。
気持ちが沈むと、思考がどんどんネガティヴになってしまう。こんなことじゃいけないのに。
こんな毎日が続き、いよいよバレンタインという前日。
珍しく夫が早く帰宅した、と言っても十一時は過ぎている。
娘はすでに眠っていた。結局、今年のチョコは買ったものになった。
どんな言葉をかけていいのか、一瞬忘れていることに気づいた。
「……お帰りなさい」
鍵を開けている音が聞こえた段階で玄関に移動した。まるで立ちはだかっているようになっている。慌てて避けようとした、そこに手提げ袋が差し出される。
携帯会社のものだった。
「何?」
彼は何も言うことなく、リビングに向かう。
食卓に座ると彼はスマホを取り出して、何かを打ち始めた。
「あれ!?」
そのスマホ、どうしたのかと聞こうと思った。何故なら、美紗子の知るものと違っている。
しかし彼は人差し指を唇に当て、その言葉を止めた。
暫時、スマホの操作を続けた後、美紗子の手から手提げを受け取ると、中から箱を出し、これまたスマホを取り出した。
そして、その画面を見せてきた。
『声を出すな
この家、盗聴されている
明日、お義父さんのところへ行け
学校も休ませろ』
そんな文字があった。
何が起こってるの。
そう言おうと思った。しかし、その言葉も遮られた。
『会社の上司に付きまとわれている
今は黙って言うことを聞いている
これまでのスマホはそのまま放っておけ
使うな
新しいスマホは誰にも番号を伝えるな』
次々と打たれる文字に言葉を失った。
夫は大企業ではないにしろ、そこそこ中堅の会社に勤めている。
支店もあるので、転勤に伴い人の入れ替えもある。
昨年、秋。
直属の上司が代わったと話していたことを思い出した。その上司が女性で、つきまとっているということか?
浮気してるんだと思ってた
すると夫は、ひどく驚いた表情を見せた。
「か……」
そこまで声に出してから、
『勘弁してよ』
とスマホで返ってきた。
『芹那を傷つけられると困る
もう少しだけ待ってて
必ず警察に突き出すから』
それを読むと黙って頷いた。
夫は一言も話すことなく、翌朝早く出かけて行った。
娘が起きてきた。
いつもと同じように朝の時間を過ごし送り出す。
そして美紗子も荷物を作り、それを持って家を出た。
盗聴という二文字は思った以上に美紗子を追い詰めていたようだ。家を出て小学校の正門前に着くと、大きなため息が出た。
門に備え付けのボタンを押すと、どなたですかと訊かれた。
小野塚芹那の母親だと告げ、話があると続けた。
少し待っただけで一人の先生が門を開けにきてくれた。
何処で誰に見られているか分からない。一刻も早く校舎の中に入りたかった。
そして暫く実家に帰るので休ませると話した。
校長先生が詳しく話を聞くと通してくれる。
美紗子は夫から聞いた話を簡単に伝えた。
校長は酷く驚いていたが、了承したという。
よかった。突っ込まれたら何も答えられないところだった。
そして芹那には可哀想だが、一限の途中で早退することにした。正規の時間までいることも怖かった。
実家は新幹線移動だ。
流石にここまでは追ってはこないだろう。
新幹線まではお話禁止、との言いつけを守り黙っていた彼女が、どうしたのと聞いてきた。
「実はね、」
夫の話をそのまま告げた。
変に言い換えると意味が変わりそうで怖かったから。
「お父さん、帰ってきてくれたんだね」
その一言が本当に嬉しそうだ。
全てが嘘ということもある。今は信じるしかない。
実家には両親が待っていてくれた。
少し前に鰯の話をしたことを覚えていた芹那は、すぐにそれを見つけ喜んでいる。
「これで鬼は来ないね」
深く考えていない一言だったと思う。しかし美紗子にはとても重い言葉に聞こえた。
脈々と受け継がれてきた慣習を、面倒だからとか、時代に合わないという理由で切り捨てることはやめようと思った。
血が受け継ぐ何か。
先祖が守ってくれる、という祖母の言葉を思い出す。
きっと大丈夫。
送られる短い一文に、全てが詰まっている。
『必ず迎えに行く』
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2024年2月小題:血
先に、これの続きを出してしまいました。
深謝。
紫草拝
カテゴリー;Novel
節分が過ぎた。
暦の上では春。
関東にもかかわらず、いきなり雪が降る。
寒い夜だった――。
「お父さんは、まだ帰ってこないの?」
節分の夜。
娘の言葉に、遅くなるだろうからと先に休むように言った。
もう誤魔化しの効かなくなる年齢だ。
小学五年、美紗子が子供の時はどうだったろうと思い起こす。やはり、大人がどんな言葉を使っても、その雰囲気から何かを感じることはあった。
父親が大好きだからこそ、一旦不審に思ったら容赦ないのではないかと思う。
「今日は帰ってこないかもね」
軽く言ってみる。
彼女の瞳が哀しく揺れたのを見た――。
子供の頃。
家族が揃って、節分の行事をした。
鬼役はいなかった。
家族全員が家の中にいて、父が玄関を開け、『鬼は外』と叫んで豆を巻き戸を閉める。
そしてその夜は、玄関を開けてはいけないと言われていた。
鬼はこれで家には入ってこられないから安心だよ、と言われ、子供心に安堵したことを覚えている。
今はどうだ。
節分といっても、豆まきをするわけではない。
実家では鰯を食べて頭を柊と一緒に玄関につけたが、都会では難しいと言われ、更に鰯も好きじゃないと食べることを拒否された。
以前は父親と一緒になって、あれも嫌これも嫌と言っていた娘が、根気強く日本の習わしについて話を続けていたら、興味を持つようになった。
「都内では少なくなったかもしれないけれど、今も厄除けの言葉は残っているし、おじいちゃんとおばあちゃんの家では鰯の頭が飾ってあるよ」
そう言うと、見てみたいと言う。
一年中、つけてあるから本当はもう見ている。でも、これまで意識していないから、そんな物があることに気づいていない。
「今度行ったら、探して見たら?」
すると嬉しそうに、うん、と頷いた。
夫の帰りが遅くなり、会話がなくなり、そして身につけるものが変わる。
ママ友から聞かされた浮気の三大要素。何と夫は全て当てはまってしまった。
気持ちは沈んだ。母親業に休日はない。朝になれば、母の顔で娘を送り出す。子供にとって、親は男でも女でもない。
せめて、いつか離婚を切り出された時に狼狽えることがないように、心の準備をしておこう。カッコよく生きているところを、娘に見せたい。たとえ陰でどんなに泣いたとしても、娘の前では強い母でいる為に。
年が明けてから夫の様子が変わって、一ヶ月が経った。
立春が過ぎ、ママ友に言わせると、次はお金をもらえなくなるということだった。
春休みには、娘と何処かに行かない?
そんなメッセージを夫に送った。電話をしても出てもらえないし、コールバックもない。
メッセならすぐには読まれなくても、暫くして確認すると読んでいる。ただ何の返信もない。
駄目って返ってこないなら、行けるのかしらね。
もうすぐバレンタインデーだ。
毎年、娘と一緒に手作りチョコをプレゼントしていた。
今年はどうしよう。
何より、娘がもう父親のためのチョコなんて作ろうと言わないかもしれない。
気持ちが沈むと、思考がどんどんネガティヴになってしまう。こんなことじゃいけないのに。
こんな毎日が続き、いよいよバレンタインという前日。
珍しく夫が早く帰宅した、と言っても十一時は過ぎている。
娘はすでに眠っていた。結局、今年のチョコは買ったものになった。
どんな言葉をかけていいのか、一瞬忘れていることに気づいた。
「……お帰りなさい」
鍵を開けている音が聞こえた段階で玄関に移動した。まるで立ちはだかっているようになっている。慌てて避けようとした、そこに手提げ袋が差し出される。
携帯会社のものだった。
「何?」
彼は何も言うことなく、リビングに向かう。
食卓に座ると彼はスマホを取り出して、何かを打ち始めた。
「あれ!?」
そのスマホ、どうしたのかと聞こうと思った。何故なら、美紗子の知るものと違っている。
しかし彼は人差し指を唇に当て、その言葉を止めた。
暫時、スマホの操作を続けた後、美紗子の手から手提げを受け取ると、中から箱を出し、これまたスマホを取り出した。
そして、その画面を見せてきた。
『声を出すな
この家、盗聴されている
明日、お義父さんのところへ行け
学校も休ませろ』
そんな文字があった。
何が起こってるの。
そう言おうと思った。しかし、その言葉も遮られた。
『会社の上司に付きまとわれている
今は黙って言うことを聞いている
これまでのスマホはそのまま放っておけ
使うな
新しいスマホは誰にも番号を伝えるな』
次々と打たれる文字に言葉を失った。
夫は大企業ではないにしろ、そこそこ中堅の会社に勤めている。
支店もあるので、転勤に伴い人の入れ替えもある。
昨年、秋。
直属の上司が代わったと話していたことを思い出した。その上司が女性で、つきまとっているということか?
浮気してるんだと思ってた
すると夫は、ひどく驚いた表情を見せた。
「か……」
そこまで声に出してから、
『勘弁してよ』
とスマホで返ってきた。
『芹那を傷つけられると困る
もう少しだけ待ってて
必ず警察に突き出すから』
それを読むと黙って頷いた。
夫は一言も話すことなく、翌朝早く出かけて行った。
娘が起きてきた。
いつもと同じように朝の時間を過ごし送り出す。
そして美紗子も荷物を作り、それを持って家を出た。
盗聴という二文字は思った以上に美紗子を追い詰めていたようだ。家を出て小学校の正門前に着くと、大きなため息が出た。
門に備え付けのボタンを押すと、どなたですかと訊かれた。
小野塚芹那の母親だと告げ、話があると続けた。
少し待っただけで一人の先生が門を開けにきてくれた。
何処で誰に見られているか分からない。一刻も早く校舎の中に入りたかった。
そして暫く実家に帰るので休ませると話した。
校長先生が詳しく話を聞くと通してくれる。
美紗子は夫から聞いた話を簡単に伝えた。
校長は酷く驚いていたが、了承したという。
よかった。突っ込まれたら何も答えられないところだった。
そして芹那には可哀想だが、一限の途中で早退することにした。正規の時間までいることも怖かった。
実家は新幹線移動だ。
流石にここまでは追ってはこないだろう。
新幹線まではお話禁止、との言いつけを守り黙っていた彼女が、どうしたのと聞いてきた。
「実はね、」
夫の話をそのまま告げた。
変に言い換えると意味が変わりそうで怖かったから。
「お父さん、帰ってきてくれたんだね」
その一言が本当に嬉しそうだ。
全てが嘘ということもある。今は信じるしかない。
実家には両親が待っていてくれた。
少し前に鰯の話をしたことを覚えていた芹那は、すぐにそれを見つけ喜んでいる。
「これで鬼は来ないね」
深く考えていない一言だったと思う。しかし美紗子にはとても重い言葉に聞こえた。
脈々と受け継がれてきた慣習を、面倒だからとか、時代に合わないという理由で切り捨てることはやめようと思った。
血が受け継ぐ何か。
先祖が守ってくれる、という祖母の言葉を思い出す。
きっと大丈夫。
送られる短い一文に、全てが詰まっている。
『必ず迎えに行く』
【了】 著 作:紫 草
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2024年2月小題:血