前回からの続きです。『えにしの絲』
注意・この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
母が逝った時、家族全員在宅していたのに誰も気づくことがなかった――。
二世帯住宅とはいえ、一階の小さな和室に敷いた布団の中で母は冷たくなっていた。
正直、もし郵便物が届いていなければ和室の襖を開けることはなかったかもしれない。たまたま休みで、たまたま母宛の市役所の書類で、たまたま早目に確認した方がいいだろうと思わなければ、もしかしたら数日はそのままだったかもしれない。
少し前から体調がよくないと聞いてはいた。でも息子に甘えているだけだという妻の言葉に、そんなものかと思ってしまった。妻からの息子の受験での不満や近所づきあいの愚痴に辟易し参っていた。だからといって母の死にも気づかないなんて、あっていい筈がない。
自宅での突然の死だったため、警察がやってきて現場検証と事情聴取をされることになった。妻と高三の息子は受験勉強の妨げになるからと早々に実家に帰ってしまった。
そこで警官から聞かれる。
「ここ数日、何も食べていないようですが、どんな様子でしたか」
と。
食べてない?
「同居といっても、食事は別でしたので分からないです」
台所を見に行くと、暫く使った様子がなかった。冷蔵庫の中も殆んど空で、警官の少し驚いたような呆れたような顔を見た。
「半年ほど入退院を繰り返しておりまして、少し前に退院してきたばかりだったんです」
警官は何も言わない。ただ喋らされるだけだ。そして、布団の中で死んでいたこともあり、多臓器不全ということで死亡診断書を書いてもらった。
次は通夜、葬儀という話になるのだが何も分からない。妻の実家に連絡をすると、葬儀社が全部やってくれるからと言われた。
代わって欲しいと頼んで漸く妻は電話口に出た。
「瑞穂、帰ってくるだろう」
「駄目よ。瑞輝のことをやらなくちゃ」
もう高校生だぞ。何を言ってるんだ。そう思ったが、言葉にはならない。
「お義父さんとお義母さんに頼んだらいいじゃないか。帰ってきてくれよ」
「嫌よ。通夜が決まったら教えて」
電話は切れた。
その後、妻と息子は本当に通夜まで顔を出さなかった。広島から駆けつけてくれた亡き妹の夫と、姪の美夜珠(みやず)と甥の武(たける)、その三人が本当に役に立ってくれた。
美夜珠は大学3年、武は息子瑞輝の二つ下だ。義弟は家を空けることが多い商社マンだったが、家政婦を雇うこともなくやってきたと話していた。
どうしてこんなに違うのだろうか。妹はおっとりとした、どちらかといえば要領の悪い子供だったのに。
あれこれと葬儀社の担当から言われても、美夜珠は迷うことなく動いている。近所への連絡も親戚への連絡も全部美夜珠がやってくれたようなものだ。
瑞穂は通夜の時間までに行くと電話があっただけだ。ならば、瑞輝だけでも先に来させてくれと言うと、受験勉強は休めないからと断られた――。
四九日の法事まで全て葬儀社の力を借りなければならなかった。寺の宗派も分からず、最初から頼り切りだった。そして法要と呼ぶものさえ、人に聞かなければならない。母は何もかも一人でやっていたんだと初めて気付いた。
嫁姑は上手くいっていると思い込んでいた。いがみ合うこともなかったし、干渉し合わないことが同居するコツだとさえ思っていたのだ。でも違った。母は自分の胸に全て納めてくれていたんだ。
それから一年。
さすがに一周忌まで葬儀社に頼む奴はいないだろう。だからといって初盆前に瑞穂と寺側とで諍いを起こしてしまい、その後は行き難くなってしまった。
結局、義弟と美夜珠、そして武にだけ声をかけた。妻と息子は夏休みに入って以降、実家に行ったまま帰ってきていなかったから。義弟は仕事で無理だということだったが、美夜珠と武が来てくれることになった。
そこで図らずも、武と二人きりで話す機会を持てた。
「武君。お母さんを亡くした時、君はいくつだったかな」
車の中で余り深く考えることなく尋ねた。
小学一年の時だと答えた彼は、最初は死の意味を理解できていなかったと語る。家の中が静かすぎて、母親のいない寂しさとかいらいらとかを家族にぶつけていたらしい。
「四年の時、友だちと無茶をして危うく警察沙汰になりそうになったんです。二人の女の子に怪我させちゃって」
彼は暫し言葉を切った。
「ねえちゃんは高校受験の前日だった。なのに怪我をさせてしまった子の家を回ってくれた。ただ頭を下げるんだ。母親代わりの自分が悪いって言って、女の子の親たちに謝ってくれた」
その後、海外にいた父親も仕事を放り出して帰国してくれて、初めて自分が大切にされていると思えたのだと言う。
「伯父さん。瑞輝君は一人っ子で伯母さんもいてばあちゃんもいて羨ましいと思ってました。でも違ったみたいだ」
思わず、ブレーキを踏んでいた。路肩に止めた車の中で話は続く。
「俺、ねえちゃんにぶたれたんですよ。女の子に怪我させた時と同じように殴れって言われて。できるわけないって言ったらバチーンって」
翌朝、美夜珠は湿布薬の臭いをさせながら片腕は殆んど使えない状態で受験に行ったらしい。持てたのは受験票と筆箱だけだったと。
隣に住む友達が一緒に行ってくれたので、とりあえずは安心していたというが合格の二文字を見るまでは気が気じゃなかったと話す。
「今。その話を過去の教訓として話せる君が羨ましいよ。瑞輝は甘ったれで、大学も希望していたところは全部駄目でね。とりあえず浪人はしたくないからと二次試験を受けて漸く決まった」
武の方が二年も下なのに、彼は一周忌だと伝えたら即座に行くと言ってくれた。
どこで育て方を間違ったのだろう。
否、もしかしたら自分自身ができ損ないの人間なのかもしれない。ふとそんな気がした。だからこそ、母は何も言わずに逝ってしまったのだろうか。
「荷物、全部送ってどうするかはあっちで考えます。和室、今日中に空けますね」
彼のその言葉に、息子として何てひどいことを頼んでしまったのかと思い知った。
「いや、それは悪いよ。欲しいものだけ送ってくれたらいいから」
「ねえちゃんがきっと受け継ぎます。女は女同士でいいんじゃないですか」
とても高校二年とは思えない言葉だった。確かに、美夜珠に渡る方が母も喜ぶだろう。
「何も分からないまま死んでしまった。情けないよ。でも来年の三回忌は、ちゃんとお寺さんに頼むから受験で大変だろうけれど、よかったらまた来て欲しい」
すると一日くらいの休みで落ちるようなら、俺の実力はそんなものなんでしょうと笑う。今度は父さんも一緒に来られるといいなとも。
「武君のような息子が欲しかったよ」
本当にそう思う。
だからこそ、もう少し瑞輝と話をしよう。
来年は二十歳になる。子供だ、未成年だと甘やかしていては、自分のような駄目人間になるのが目に見えている。
今更かもしれない。でも、母の死から一年。漸く自分自身の目が覚めたのだから、まだ間に合うと信じたい――。
注意・この物語はフィクションです。登場する人物・事柄は全て架空のものです。
閑話休題 『甦生の夏』
母が逝った時、家族全員在宅していたのに誰も気づくことがなかった――。
二世帯住宅とはいえ、一階の小さな和室に敷いた布団の中で母は冷たくなっていた。
正直、もし郵便物が届いていなければ和室の襖を開けることはなかったかもしれない。たまたま休みで、たまたま母宛の市役所の書類で、たまたま早目に確認した方がいいだろうと思わなければ、もしかしたら数日はそのままだったかもしれない。
少し前から体調がよくないと聞いてはいた。でも息子に甘えているだけだという妻の言葉に、そんなものかと思ってしまった。妻からの息子の受験での不満や近所づきあいの愚痴に辟易し参っていた。だからといって母の死にも気づかないなんて、あっていい筈がない。
自宅での突然の死だったため、警察がやってきて現場検証と事情聴取をされることになった。妻と高三の息子は受験勉強の妨げになるからと早々に実家に帰ってしまった。
そこで警官から聞かれる。
「ここ数日、何も食べていないようですが、どんな様子でしたか」
と。
食べてない?
「同居といっても、食事は別でしたので分からないです」
台所を見に行くと、暫く使った様子がなかった。冷蔵庫の中も殆んど空で、警官の少し驚いたような呆れたような顔を見た。
「半年ほど入退院を繰り返しておりまして、少し前に退院してきたばかりだったんです」
警官は何も言わない。ただ喋らされるだけだ。そして、布団の中で死んでいたこともあり、多臓器不全ということで死亡診断書を書いてもらった。
次は通夜、葬儀という話になるのだが何も分からない。妻の実家に連絡をすると、葬儀社が全部やってくれるからと言われた。
代わって欲しいと頼んで漸く妻は電話口に出た。
「瑞穂、帰ってくるだろう」
「駄目よ。瑞輝のことをやらなくちゃ」
もう高校生だぞ。何を言ってるんだ。そう思ったが、言葉にはならない。
「お義父さんとお義母さんに頼んだらいいじゃないか。帰ってきてくれよ」
「嫌よ。通夜が決まったら教えて」
電話は切れた。
その後、妻と息子は本当に通夜まで顔を出さなかった。広島から駆けつけてくれた亡き妹の夫と、姪の美夜珠(みやず)と甥の武(たける)、その三人が本当に役に立ってくれた。
美夜珠は大学3年、武は息子瑞輝の二つ下だ。義弟は家を空けることが多い商社マンだったが、家政婦を雇うこともなくやってきたと話していた。
どうしてこんなに違うのだろうか。妹はおっとりとした、どちらかといえば要領の悪い子供だったのに。
あれこれと葬儀社の担当から言われても、美夜珠は迷うことなく動いている。近所への連絡も親戚への連絡も全部美夜珠がやってくれたようなものだ。
瑞穂は通夜の時間までに行くと電話があっただけだ。ならば、瑞輝だけでも先に来させてくれと言うと、受験勉強は休めないからと断られた――。
四九日の法事まで全て葬儀社の力を借りなければならなかった。寺の宗派も分からず、最初から頼り切りだった。そして法要と呼ぶものさえ、人に聞かなければならない。母は何もかも一人でやっていたんだと初めて気付いた。
嫁姑は上手くいっていると思い込んでいた。いがみ合うこともなかったし、干渉し合わないことが同居するコツだとさえ思っていたのだ。でも違った。母は自分の胸に全て納めてくれていたんだ。
それから一年。
さすがに一周忌まで葬儀社に頼む奴はいないだろう。だからといって初盆前に瑞穂と寺側とで諍いを起こしてしまい、その後は行き難くなってしまった。
結局、義弟と美夜珠、そして武にだけ声をかけた。妻と息子は夏休みに入って以降、実家に行ったまま帰ってきていなかったから。義弟は仕事で無理だということだったが、美夜珠と武が来てくれることになった。
そこで図らずも、武と二人きりで話す機会を持てた。
「武君。お母さんを亡くした時、君はいくつだったかな」
車の中で余り深く考えることなく尋ねた。
小学一年の時だと答えた彼は、最初は死の意味を理解できていなかったと語る。家の中が静かすぎて、母親のいない寂しさとかいらいらとかを家族にぶつけていたらしい。
「四年の時、友だちと無茶をして危うく警察沙汰になりそうになったんです。二人の女の子に怪我させちゃって」
彼は暫し言葉を切った。
「ねえちゃんは高校受験の前日だった。なのに怪我をさせてしまった子の家を回ってくれた。ただ頭を下げるんだ。母親代わりの自分が悪いって言って、女の子の親たちに謝ってくれた」
その後、海外にいた父親も仕事を放り出して帰国してくれて、初めて自分が大切にされていると思えたのだと言う。
「伯父さん。瑞輝君は一人っ子で伯母さんもいてばあちゃんもいて羨ましいと思ってました。でも違ったみたいだ」
思わず、ブレーキを踏んでいた。路肩に止めた車の中で話は続く。
「俺、ねえちゃんにぶたれたんですよ。女の子に怪我させた時と同じように殴れって言われて。できるわけないって言ったらバチーンって」
翌朝、美夜珠は湿布薬の臭いをさせながら片腕は殆んど使えない状態で受験に行ったらしい。持てたのは受験票と筆箱だけだったと。
隣に住む友達が一緒に行ってくれたので、とりあえずは安心していたというが合格の二文字を見るまでは気が気じゃなかったと話す。
「今。その話を過去の教訓として話せる君が羨ましいよ。瑞輝は甘ったれで、大学も希望していたところは全部駄目でね。とりあえず浪人はしたくないからと二次試験を受けて漸く決まった」
武の方が二年も下なのに、彼は一周忌だと伝えたら即座に行くと言ってくれた。
どこで育て方を間違ったのだろう。
否、もしかしたら自分自身ができ損ないの人間なのかもしれない。ふとそんな気がした。だからこそ、母は何も言わずに逝ってしまったのだろうか。
「荷物、全部送ってどうするかはあっちで考えます。和室、今日中に空けますね」
彼のその言葉に、息子として何てひどいことを頼んでしまったのかと思い知った。
「いや、それは悪いよ。欲しいものだけ送ってくれたらいいから」
「ねえちゃんがきっと受け継ぎます。女は女同士でいいんじゃないですか」
とても高校二年とは思えない言葉だった。確かに、美夜珠に渡る方が母も喜ぶだろう。
「何も分からないまま死んでしまった。情けないよ。でも来年の三回忌は、ちゃんとお寺さんに頼むから受験で大変だろうけれど、よかったらまた来て欲しい」
すると一日くらいの休みで落ちるようなら、俺の実力はそんなものなんでしょうと笑う。今度は父さんも一緒に来られるといいなとも。
「武君のような息子が欲しかったよ」
本当にそう思う。
だからこそ、もう少し瑞輝と話をしよう。
来年は二十歳になる。子供だ、未成年だと甘やかしていては、自分のような駄目人間になるのが目に見えている。
今更かもしれない。でも、母の死から一年。漸く自分自身の目が覚めたのだから、まだ間に合うと信じたい――。
【了】 著 作:紫 草