社会人の二年目は忙しかった。
翌年入ってきたのは派遣社員ばかりになってしまったので、残業という残業を二~三年目の正社員が背負うことになってしまった。
正直、好きだ嫌いだという恋愛に時間を割いている暇などなく、そんな体力も残っていなかった。
それでも、そのペースにも慣れてくると、上司の方も派遣社員と正社員に与える仕事内容が少しずつ変わってきて時間に余裕が生まれてきた。
気付けば失恋こそしなかったけれど、恋も生まれなかった冬が再びやってくる。
以前程ではなくなっても今も同じ帰り道を行く私たちを、付き合っていると勘違いした新入社員がいた。
私は否定も肯定もしなかったけれど、きっと彼が否定したのだろう。噂になる前に消えていった。
秋から冬は、去年を思い出す。
結構、残酷な楽しい思い出に、突然引っ越そうと思い立った。
そんな時だった。
「朝木くん、少しいいですか」
声をかけられたのは、喫煙コーナーにいた営業部長だった。
「煙草、お止めになった筈では!?」
「離婚成立したら、止める人間がいなくなって復活さ」
私は臭いがつくのを嫌うので、喫煙コーナーに入らないことを知っている部長は持っていた煙草をもみ消すと、屋上へ行こうと誘ってくる。
この寒い時期に物好きな、と思うものの、大事な話はいつも屋上だったことを思うと今回も人に聞かれては不味い話なのだろう。
しかし屋上へ出ると、やはり首をすくめたけれど。
「風邪ひきます。早めに用件を」
「結婚しよ」
何を言われたのか、一瞬理解不能になった。
たぶん思い切り、部長の顔を睨みつけただろう。
「どうした。知ってただろ、俺の気持ちくらい…」
それは確かに…。
でも実際に、どうにかなるものではないと思っていた。彼は妻帯者で、私は不倫が嫌いだったから。
「障害はなくなったと思うけど。ちゃんと考えてくれ」
それだけ言って、言いたいだけ言って、私を残して部長は扉に向かって行く。そして最后に返事は急がないから、と。死ぬまでに答えてくれとだけ言って扉の向こうに消えた。
その背中を見送りながら、改めて私が好きなのは違うのだと思い知らされた。
渡邊さん…
恋人になれない人を、もう追うことをやめろ、と誰かに言われているのかな。
屋上で話してくれた部長に少しだけ感謝する。
暫く涙が止まりそうにない――。
その日は珍しく渡邊氏と二人だけの残業となった。
昼間のことがあるから本当は回避したくても、派遣社員さんには残業を頼めない。
一年前、よくこうして二人で残業していた。忘れようと思ったその日に、何て皮肉なことだろうと少し神様を呪ってしまう。
「終わりそう?」
というその声は、何も変わらない。それも棘のように胸に突き刺さる。
「まだ残っていますので、渡邊さんは先に帰って下さい」
「じゃ、待ってる」
以前とは違う。手伝ってもいい仕事ばかりではない。
だから彼は待つと言う。
「大丈夫です。本当に帰って下さい」
すると分かったと鞄を手に出て行った。
思わず溜め息をついてしまう。
「ホントに引っ越そう。心臓に悪い」
そして気持ちを切り換え、PCに集中した。
全て終わり表玄関に出ようとして、すでに施錠されている時刻だと気付いた。
「裏口か…」
踵を返すと、そこに彼が立っていた。
「渡邊さん…」
「帰ろう」
私は、彼の一歩前を歩き出した。その少し後ろを彼は付いてくる。
外に出たら、雪が舞っていた。
皮肉なことばっかり…
「渡邊さん。私、部長に結婚申し込まれたんです」
彼の呼吸が止まるのを背後に感じる。
「だから、もういいですよ。送ってくれなくても」
背後の彼の動揺は痛いほど、伝わる。
でも、何故そんなに動揺するんだろう。
「雪、積もりそうにないね」
えっ!?
あまりに脈絡のない言葉に、思わず振り返って彼を見た。
「駅まで行って、そこで聞く君の“さよなら”の声が好きだった。ずっと、このまま続くなんて思っていたわけじゃないけど同じ気持ちでいて欲しいと思ってた」
そう言いながら近寄ってきて、私の髪に触れる。
降る雪は、髪の上で次々と融けてゆく…。
「時を…少しだけ時を止めて。時を戻して。少なくとも部長のプロポーズ聞く前に」
彼の真剣な眼差しに、私は言葉が出てこなくて黙って頷くしかできなかった。
「僕と結婚して下さい。もう、さよならを聞くのは嫌だから」
そして、ふわりと抱き締められた。
その抱擁は、初めての筈なのに懐かしいと感じられるほど優しく私を包み込んでくれる。
「ありがとう。今夜、言ってくれて」
何!? という彼は少しだけ顔を覗きこんでくる。
「明日になれば私は貴方を諦めて、部長へ返事をして引っ越そうと思ってました」
「無理だと思うことも、たまにはやってみろって教訓になったな」
そして初めて触れた彼の唇は、長く私を待っていたせいだろう。とてもひんやりと感じたけれど、心のなかは熱い想いでいっぱいだった。
駅までの同じ帰り道は、私が彼のマンションに引っ越すことでずっと一緒の帰り道に変わった――。
【了】
著作:紫草
翌年入ってきたのは派遣社員ばかりになってしまったので、残業という残業を二~三年目の正社員が背負うことになってしまった。
正直、好きだ嫌いだという恋愛に時間を割いている暇などなく、そんな体力も残っていなかった。
それでも、そのペースにも慣れてくると、上司の方も派遣社員と正社員に与える仕事内容が少しずつ変わってきて時間に余裕が生まれてきた。
気付けば失恋こそしなかったけれど、恋も生まれなかった冬が再びやってくる。
以前程ではなくなっても今も同じ帰り道を行く私たちを、付き合っていると勘違いした新入社員がいた。
私は否定も肯定もしなかったけれど、きっと彼が否定したのだろう。噂になる前に消えていった。
秋から冬は、去年を思い出す。
結構、残酷な楽しい思い出に、突然引っ越そうと思い立った。
そんな時だった。
「朝木くん、少しいいですか」
声をかけられたのは、喫煙コーナーにいた営業部長だった。
「煙草、お止めになった筈では!?」
「離婚成立したら、止める人間がいなくなって復活さ」
私は臭いがつくのを嫌うので、喫煙コーナーに入らないことを知っている部長は持っていた煙草をもみ消すと、屋上へ行こうと誘ってくる。
この寒い時期に物好きな、と思うものの、大事な話はいつも屋上だったことを思うと今回も人に聞かれては不味い話なのだろう。
しかし屋上へ出ると、やはり首をすくめたけれど。
「風邪ひきます。早めに用件を」
「結婚しよ」
何を言われたのか、一瞬理解不能になった。
たぶん思い切り、部長の顔を睨みつけただろう。
「どうした。知ってただろ、俺の気持ちくらい…」
それは確かに…。
でも実際に、どうにかなるものではないと思っていた。彼は妻帯者で、私は不倫が嫌いだったから。
「障害はなくなったと思うけど。ちゃんと考えてくれ」
それだけ言って、言いたいだけ言って、私を残して部長は扉に向かって行く。そして最后に返事は急がないから、と。死ぬまでに答えてくれとだけ言って扉の向こうに消えた。
その背中を見送りながら、改めて私が好きなのは違うのだと思い知らされた。
渡邊さん…
恋人になれない人を、もう追うことをやめろ、と誰かに言われているのかな。
屋上で話してくれた部長に少しだけ感謝する。
暫く涙が止まりそうにない――。
その日は珍しく渡邊氏と二人だけの残業となった。
昼間のことがあるから本当は回避したくても、派遣社員さんには残業を頼めない。
一年前、よくこうして二人で残業していた。忘れようと思ったその日に、何て皮肉なことだろうと少し神様を呪ってしまう。
「終わりそう?」
というその声は、何も変わらない。それも棘のように胸に突き刺さる。
「まだ残っていますので、渡邊さんは先に帰って下さい」
「じゃ、待ってる」
以前とは違う。手伝ってもいい仕事ばかりではない。
だから彼は待つと言う。
「大丈夫です。本当に帰って下さい」
すると分かったと鞄を手に出て行った。
思わず溜め息をついてしまう。
「ホントに引っ越そう。心臓に悪い」
そして気持ちを切り換え、PCに集中した。
全て終わり表玄関に出ようとして、すでに施錠されている時刻だと気付いた。
「裏口か…」
踵を返すと、そこに彼が立っていた。
「渡邊さん…」
「帰ろう」
私は、彼の一歩前を歩き出した。その少し後ろを彼は付いてくる。
外に出たら、雪が舞っていた。
皮肉なことばっかり…
「渡邊さん。私、部長に結婚申し込まれたんです」
彼の呼吸が止まるのを背後に感じる。
「だから、もういいですよ。送ってくれなくても」
背後の彼の動揺は痛いほど、伝わる。
でも、何故そんなに動揺するんだろう。
「雪、積もりそうにないね」
えっ!?
あまりに脈絡のない言葉に、思わず振り返って彼を見た。
「駅まで行って、そこで聞く君の“さよなら”の声が好きだった。ずっと、このまま続くなんて思っていたわけじゃないけど同じ気持ちでいて欲しいと思ってた」
そう言いながら近寄ってきて、私の髪に触れる。
降る雪は、髪の上で次々と融けてゆく…。
「時を…少しだけ時を止めて。時を戻して。少なくとも部長のプロポーズ聞く前に」
彼の真剣な眼差しに、私は言葉が出てこなくて黙って頷くしかできなかった。
「僕と結婚して下さい。もう、さよならを聞くのは嫌だから」
そして、ふわりと抱き締められた。
その抱擁は、初めての筈なのに懐かしいと感じられるほど優しく私を包み込んでくれる。
「ありがとう。今夜、言ってくれて」
何!? という彼は少しだけ顔を覗きこんでくる。
「明日になれば私は貴方を諦めて、部長へ返事をして引っ越そうと思ってました」
「無理だと思うことも、たまにはやってみろって教訓になったな」
そして初めて触れた彼の唇は、長く私を待っていたせいだろう。とてもひんやりと感じたけれど、心のなかは熱い想いでいっぱいだった。
駅までの同じ帰り道は、私が彼のマンションに引っ越すことでずっと一緒の帰り道に変わった――。
【了】
著作:紫草