朝御飯の仕度を終え、呼びに戻る。
診療室の少し手前で、彼女の笑い声が聞こえてきた。
よかった。
「できたよ」
ノックをし、返事を聞く前に扉を開ける。
「おお。じゃ行こうか。真野ちゃんもおいで。孝夫の作る味噌汁は結構いけるぞ」
席を立つ祖父に道を空け、彼女を促した。
「まのさんって言うんだ」
「はい。失礼しました。私…真野です」
「詳しいことは食べながら聞く。冷めちゃうからさ、行こう」
そう言ったところで、祖父の早く来いという催促の声が聞こえてきた――。
彼女は、やはり訳ありの女だった。
そこは隠居した医者と言いつつも、大学病院にもいた経験のある祖父の話術だ。
名前だけでなく、彼女自身の身上書が作れるくらいの内容を聞き出していた。
話は複雑だ。
まず彼女は孤児で、三歳の時に養父母に引き取られたのだという。
ところが一年前、養母が病死すると、養父の様子に変化が見られるようになった。
最近になって急に見合い話を決められ、せめて大学が終わるまで待ってほしいと言ってみたものの、辞めてしまえばいいと言われたという。
岐阜では今も、名家と呼ばれる家が残っている。
真野の家は、そんな名家と呼ばれる家系だという。
跡取り問題を避ける為、男子の養子を貰うつもりが養母が真野を気に入ったことで、将来婿養子をとればいいからと養女になったのだそうだ。
しかし、その養母が亡くなってしまうと、少しずつ状況が変化し始めた。
親戚筋の年寄り達が毎日やってきては、赤の他人に何故財産を譲るのだと養父を責め始めた。
そういう親戚との縁を切りたいがために養子を迎えた筈だ。真野は少なくとも養母から、そう聞いていたらしい。
ただ孤独になってしまった養父には、赤の他人の真野よりも親戚の方がよくなったのだろうかと思い、それはそれで仕方がないと彼女は諦めた。
その縁談を聞きつけて真野を攫ったのは、近所にある雑貨屋の昔でいう御用聞きの若い男だった。
当初こそ、貧乏してでも一緒にいると言い張っていたらしい。
が、岐阜から逃げ出し三日間、高山のラブホテルにいただけで嫌気がさしたのだろう。
『ドライブに行こう』
という言葉で真野を誘い、そのまま富山までの道を走った。
そして山の中で調子が悪いからと車を止め、そこに真野を置き去りにした。
家から攫った時も、バッグ一つ持つことなく連れ出された真野は、どうすることも出来ずただ歩いていたのだという。
街灯もない、真っ暗闇の、その上雪まで降っていた峠の道を。
孝夫が走り抜けた、あの瞬間まで。
そして力尽き、倒れた。あのまま放っておいたら、凍死したかもしれない。
そう思うと、改めてぞっとする。
「真野とは、引き取られる前の名前だそうだ」
前の名前!?
そして祖父が彼女に語りかける。
「どうだろ。そろそろ捜索願いが出ていてもおかしくないと思うが、どうやら養父にはその気がないらしい。実は孝夫の親、つまり倅は刑事でな。ちょっと探りを入れてもらったが、家出人捜索願いも誘拐手配もしていないようだ。もしかしたら攫った男は誰かに雇われたんじゃないか」
祖父のその言葉にも、彼女の表情は何も変わらなかった。
まるで予感していたかのように…。
「孝夫に拾われて、ここに連れてこられた。そして真野さんという一人の女性として生まれ変わったら、どうだろう」
その言葉に彼女は初めて動揺を見せる。
「何、時々あることさ。ショックなことがあると記憶をなくすなんてことはな。真野という名前は小さな頃の名前だ。それが嫌だというなら新しい名前をつけたらいい。もう屋敷に君の居場所はないと思うんだがな」
祖父は、そう言って彼女から視線を外し、窓の外を見た。
「そうですね。何もかもやり直しができるなら、そうしたい。でも私には育ててもらった恩があるんです」
彼女の瞳に涙が浮かぶ。
その時、電話が鳴った。
祖父とのやり取りで、親父からのものだと判る。
暫く話していて、祖父が彼女に電話を代わった。
三十分近く話していたろうか。彼女が改めて祖父に電話を代わり、そして椅子に座る。
「大丈夫か」
そう声をかけるのが精一杯だった。
それでも彼女は、その言葉に微笑んでくれる。
分かった、と祖父が受話器を置く。
「手続きは何とかしよう。私が後見人を務めるから、ここにいたらいい」
「ちょっと待ってくれよ。俺にもちゃんと説明して…欲しいんだけど」
真野が、少し気弱になった孝夫を見て笑い出す。
「えっと…、俺も笑ってもいいとこ!?」
「お父様が仰ってました。とうとう人の子を拾ってきたかって。予感はしてたから驚かないって。だから安心して居候しなさいって」
きっと親父は真野の養父のことを調べたのだろう。
その上で、祖父を後見人にすると決めた。
そんな難しい話を、今聞くことはない。
「大学行ってるって言ったよね。じいさん、それはどうなるの」
「ここから岐阜に通うのは無理かもな。同じ学校に拘るのでなけれは受け直したらいい。富山にも大学はある」
「簡単に言うね。現役の受験生に逆戻りしろって?」
祖父が肩をすくめ、下宿して通ってもいいがと苦笑いを浮かべると、図らずも彼女が、それを拒否することになる。
「折角のお申し出ですが、大学には行きません。その代わり資格の取れる通信教育なり学校なりに通って自立する道を探します。その前に、まずは当座の生活費を稼がないといけないですが」
その彼女の顔を見て、それもいいだろうと祖父は言った。
「見てごらん。雪が舞っているのに、雲の隙間から綺麗な太陽が輝いて筋を引いている」
その言葉を受け真野と二人、庭へと出た。
「ほんとに。綺麗…」
空を見上げ、彼女が呟いた。
「雪景色は、あたりを真っ白に変えてくれる。新しい旅立ちには最高の朝だ」
背後から祖父の言葉が聞こえてくる。
「よかったら、俺の動物病院でアルバイトしないか。また誰かに攫われたら捜しようがないからさ」
結構、勇気を出して言ってみた。
彼女の返事を聞く前に、祖父の方が意味ありげな笑いを浮かべ、部屋の奥へと引っ込んだ。
一方、彼女はというと、あっさりOKだと言う。
下心…
まっ、今じゃなくてもいいか。
「車取ってくる。このままここにいると、じいさんの診療所手伝わされちまう」
この先、何が起こるかは誰にも分からない。
今、分かっていることは彼女が新しい人生を歩き始めるということと、自分が彼女に一目惚れしたらしいということだけだ。
雪が舞い、そして積もる。
やがて春が来て、雪は融ける。
その下から何が生まれるのかは、お天道様だけが知っている――。
【了】
著作:紫草
診療室の少し手前で、彼女の笑い声が聞こえてきた。
よかった。
「できたよ」
ノックをし、返事を聞く前に扉を開ける。
「おお。じゃ行こうか。真野ちゃんもおいで。孝夫の作る味噌汁は結構いけるぞ」
席を立つ祖父に道を空け、彼女を促した。
「まのさんって言うんだ」
「はい。失礼しました。私…真野です」
「詳しいことは食べながら聞く。冷めちゃうからさ、行こう」
そう言ったところで、祖父の早く来いという催促の声が聞こえてきた――。
彼女は、やはり訳ありの女だった。
そこは隠居した医者と言いつつも、大学病院にもいた経験のある祖父の話術だ。
名前だけでなく、彼女自身の身上書が作れるくらいの内容を聞き出していた。
話は複雑だ。
まず彼女は孤児で、三歳の時に養父母に引き取られたのだという。
ところが一年前、養母が病死すると、養父の様子に変化が見られるようになった。
最近になって急に見合い話を決められ、せめて大学が終わるまで待ってほしいと言ってみたものの、辞めてしまえばいいと言われたという。
岐阜では今も、名家と呼ばれる家が残っている。
真野の家は、そんな名家と呼ばれる家系だという。
跡取り問題を避ける為、男子の養子を貰うつもりが養母が真野を気に入ったことで、将来婿養子をとればいいからと養女になったのだそうだ。
しかし、その養母が亡くなってしまうと、少しずつ状況が変化し始めた。
親戚筋の年寄り達が毎日やってきては、赤の他人に何故財産を譲るのだと養父を責め始めた。
そういう親戚との縁を切りたいがために養子を迎えた筈だ。真野は少なくとも養母から、そう聞いていたらしい。
ただ孤独になってしまった養父には、赤の他人の真野よりも親戚の方がよくなったのだろうかと思い、それはそれで仕方がないと彼女は諦めた。
その縁談を聞きつけて真野を攫ったのは、近所にある雑貨屋の昔でいう御用聞きの若い男だった。
当初こそ、貧乏してでも一緒にいると言い張っていたらしい。
が、岐阜から逃げ出し三日間、高山のラブホテルにいただけで嫌気がさしたのだろう。
『ドライブに行こう』
という言葉で真野を誘い、そのまま富山までの道を走った。
そして山の中で調子が悪いからと車を止め、そこに真野を置き去りにした。
家から攫った時も、バッグ一つ持つことなく連れ出された真野は、どうすることも出来ずただ歩いていたのだという。
街灯もない、真っ暗闇の、その上雪まで降っていた峠の道を。
孝夫が走り抜けた、あの瞬間まで。
そして力尽き、倒れた。あのまま放っておいたら、凍死したかもしれない。
そう思うと、改めてぞっとする。
「真野とは、引き取られる前の名前だそうだ」
前の名前!?
そして祖父が彼女に語りかける。
「どうだろ。そろそろ捜索願いが出ていてもおかしくないと思うが、どうやら養父にはその気がないらしい。実は孝夫の親、つまり倅は刑事でな。ちょっと探りを入れてもらったが、家出人捜索願いも誘拐手配もしていないようだ。もしかしたら攫った男は誰かに雇われたんじゃないか」
祖父のその言葉にも、彼女の表情は何も変わらなかった。
まるで予感していたかのように…。
「孝夫に拾われて、ここに連れてこられた。そして真野さんという一人の女性として生まれ変わったら、どうだろう」
その言葉に彼女は初めて動揺を見せる。
「何、時々あることさ。ショックなことがあると記憶をなくすなんてことはな。真野という名前は小さな頃の名前だ。それが嫌だというなら新しい名前をつけたらいい。もう屋敷に君の居場所はないと思うんだがな」
祖父は、そう言って彼女から視線を外し、窓の外を見た。
「そうですね。何もかもやり直しができるなら、そうしたい。でも私には育ててもらった恩があるんです」
彼女の瞳に涙が浮かぶ。
その時、電話が鳴った。
祖父とのやり取りで、親父からのものだと判る。
暫く話していて、祖父が彼女に電話を代わった。
三十分近く話していたろうか。彼女が改めて祖父に電話を代わり、そして椅子に座る。
「大丈夫か」
そう声をかけるのが精一杯だった。
それでも彼女は、その言葉に微笑んでくれる。
分かった、と祖父が受話器を置く。
「手続きは何とかしよう。私が後見人を務めるから、ここにいたらいい」
「ちょっと待ってくれよ。俺にもちゃんと説明して…欲しいんだけど」
真野が、少し気弱になった孝夫を見て笑い出す。
「えっと…、俺も笑ってもいいとこ!?」
「お父様が仰ってました。とうとう人の子を拾ってきたかって。予感はしてたから驚かないって。だから安心して居候しなさいって」
きっと親父は真野の養父のことを調べたのだろう。
その上で、祖父を後見人にすると決めた。
そんな難しい話を、今聞くことはない。
「大学行ってるって言ったよね。じいさん、それはどうなるの」
「ここから岐阜に通うのは無理かもな。同じ学校に拘るのでなけれは受け直したらいい。富山にも大学はある」
「簡単に言うね。現役の受験生に逆戻りしろって?」
祖父が肩をすくめ、下宿して通ってもいいがと苦笑いを浮かべると、図らずも彼女が、それを拒否することになる。
「折角のお申し出ですが、大学には行きません。その代わり資格の取れる通信教育なり学校なりに通って自立する道を探します。その前に、まずは当座の生活費を稼がないといけないですが」
その彼女の顔を見て、それもいいだろうと祖父は言った。
「見てごらん。雪が舞っているのに、雲の隙間から綺麗な太陽が輝いて筋を引いている」
その言葉を受け真野と二人、庭へと出た。
「ほんとに。綺麗…」
空を見上げ、彼女が呟いた。
「雪景色は、あたりを真っ白に変えてくれる。新しい旅立ちには最高の朝だ」
背後から祖父の言葉が聞こえてくる。
「よかったら、俺の動物病院でアルバイトしないか。また誰かに攫われたら捜しようがないからさ」
結構、勇気を出して言ってみた。
彼女の返事を聞く前に、祖父の方が意味ありげな笑いを浮かべ、部屋の奥へと引っ込んだ。
一方、彼女はというと、あっさりOKだと言う。
下心…
まっ、今じゃなくてもいいか。
「車取ってくる。このままここにいると、じいさんの診療所手伝わされちまう」
この先、何が起こるかは誰にも分からない。
今、分かっていることは彼女が新しい人生を歩き始めるということと、自分が彼女に一目惚れしたらしいということだけだ。
雪が舞い、そして積もる。
やがて春が来て、雪は融ける。
その下から何が生まれるのかは、お天道様だけが知っている――。
【了】
著作:紫草