第九章 その弐
「清夜(せいや)に就職するように言うんですか」
少し意識が別なところにあったせいで、京音(けいと)の声が一際大きく聞こえた。
祖母の言い方は、珍しく京音の逆鱗に触れたようだ。だからといって豹変する彼ではないが、明らかに言葉が攻撃的になっている。
それもそうか。問題は清夜のことであって、我々のことではない。
しかし何故か祖母は二人を呼んだ。どうやら話は清夜のことだという時点で、京音は面白くないだろう。それは月斗(つきと)も同じだ。
「それだけではないの。大学に行ってもアルバイトは絶対にしなきゃならないわけだし、だったら就職してしまう方が保険もあるし清夜のためになると思うのよ。奨学金といっても、所詮借金でしょ」
何を言っているんだと、思わず祖母を睨みつけてしまった。
随分、自分勝手な言い分だ。こんなことを言っていても、亡くなった将人叔父さんはバイト扱いだったんだろ。バイトでも保険に入ることができることもあるらしいが、叔父さんがどうだったかは知らない。ただ清夜にそれを押しつけるなんて間違ってる。
そんな冷めた目で見ていたからだろうか。途中から話は、京音にだけ向けられるようになっていった。その内容が清夜を労わるものから現実の話に移っていく中で京音の声が大きくなっていく。
人は年をとると変わっていく。それは誰もが同じ。前に母方の親戚に言われたことがある。
『百万円が遺産としてあったら、裁判になることもある』
と。
お金は人を変えてしまうのかもしれない。苦しくても精一杯生きている人も多いと思うのに――。
すると京音の声が更に大きくなる。
「清夜にしたって勝手に使われた両親の命のお金を返せとも言えないんですよ。親は選べないんだ。
自分の手元に置いた清夜の方が幸せだと思ってたでしょ。
大人がたくさんいるから、こちらの方が行き届いた育て方ができていると。
だから月斗を憎くなりましたか。
月斗の持っているお金で清夜を育てろと言い遺しますか。
でも、それは俺が許しません。月斗は弟です――」
京音の言葉に目頭が熱くなってくる。
その時、清夜が台所の外で聞いていることに気づいた。
こいつは今、孤独だろうな。
京音のように守ってくれる兄はいない。月斗にはその器はない。
抱きしめてくれる母もいない。うちの母は明らかに清夜は違うと言い切ってしまった。
どこで暮らそうと、こいつは独りを感じてしまうのだろう。
人間。
男。
その生き様は、己に恥じることのないようにして顔に現れていく。
まだ二十代の自分にも分かる。京音はいい男だ。そういう貌になる筈だ。
自分は、その姿を見続けたいと思っている。
祖母は京音が自分の思うようにならないと分かると、もういいからと言った。
何がいいんだ。どういいんだ。
清夜をちゃんと育てるのは、こちらの家の責任だろう。
叔母の言葉に優しさはない。祖母も同じだ。
お金がないから就職させろ、なんて言葉が出るなんて辛すぎる。
それでも、これが現実だ。苦労をするのは清夜だと分かっていても、それがあいつの人生だ。
彼の人生に、道しるべとなるような灯がともっていて欲しいと切に願う。
あの時。
自分たちは小さすぎて、何も選ぶことはできなかった。大人の言いなりに二つの家に別れて育った。どこが良いとか悪いとか、比べる必要などない。それでも、ここの人たちは優位をあげようとする。そんなの二つの家で育った清夜が、身をもって知っているだろうに。
本家には仏壇があるというが、月斗の部屋にも蔭膳を置くためのスペースがある。意味合いは少し違うのかもしれないが、できる時だけ炊きたてのご飯や買ってきたお菓子を上げる。
供養とは、どこにいてもできるものだ。そう教えてもらった、あの母に。
これまで自分が受け取ってきた目に見えない財産を、これからは少しずつ清夜にも伝えてやろう。
それで、これまでの時間を少しでも埋めてやれたら、あいつも変わるかもしれないから。
月斗は、これまでの自分の生きてきた時間を改めて振りかえる。
幸せだな、と心底思った。
今。
父と母と、そして誇れる兄がいる。
これからも、この家族の時間は続くのだ――。
「清夜(せいや)に就職するように言うんですか」
少し意識が別なところにあったせいで、京音(けいと)の声が一際大きく聞こえた。
祖母の言い方は、珍しく京音の逆鱗に触れたようだ。だからといって豹変する彼ではないが、明らかに言葉が攻撃的になっている。
それもそうか。問題は清夜のことであって、我々のことではない。
しかし何故か祖母は二人を呼んだ。どうやら話は清夜のことだという時点で、京音は面白くないだろう。それは月斗(つきと)も同じだ。
「それだけではないの。大学に行ってもアルバイトは絶対にしなきゃならないわけだし、だったら就職してしまう方が保険もあるし清夜のためになると思うのよ。奨学金といっても、所詮借金でしょ」
何を言っているんだと、思わず祖母を睨みつけてしまった。
随分、自分勝手な言い分だ。こんなことを言っていても、亡くなった将人叔父さんはバイト扱いだったんだろ。バイトでも保険に入ることができることもあるらしいが、叔父さんがどうだったかは知らない。ただ清夜にそれを押しつけるなんて間違ってる。
そんな冷めた目で見ていたからだろうか。途中から話は、京音にだけ向けられるようになっていった。その内容が清夜を労わるものから現実の話に移っていく中で京音の声が大きくなっていく。
人は年をとると変わっていく。それは誰もが同じ。前に母方の親戚に言われたことがある。
『百万円が遺産としてあったら、裁判になることもある』
と。
お金は人を変えてしまうのかもしれない。苦しくても精一杯生きている人も多いと思うのに――。
すると京音の声が更に大きくなる。
「清夜にしたって勝手に使われた両親の命のお金を返せとも言えないんですよ。親は選べないんだ。
自分の手元に置いた清夜の方が幸せだと思ってたでしょ。
大人がたくさんいるから、こちらの方が行き届いた育て方ができていると。
だから月斗を憎くなりましたか。
月斗の持っているお金で清夜を育てろと言い遺しますか。
でも、それは俺が許しません。月斗は弟です――」
京音の言葉に目頭が熱くなってくる。
その時、清夜が台所の外で聞いていることに気づいた。
こいつは今、孤独だろうな。
京音のように守ってくれる兄はいない。月斗にはその器はない。
抱きしめてくれる母もいない。うちの母は明らかに清夜は違うと言い切ってしまった。
どこで暮らそうと、こいつは独りを感じてしまうのだろう。
人間。
男。
その生き様は、己に恥じることのないようにして顔に現れていく。
まだ二十代の自分にも分かる。京音はいい男だ。そういう貌になる筈だ。
自分は、その姿を見続けたいと思っている。
祖母は京音が自分の思うようにならないと分かると、もういいからと言った。
何がいいんだ。どういいんだ。
清夜をちゃんと育てるのは、こちらの家の責任だろう。
叔母の言葉に優しさはない。祖母も同じだ。
お金がないから就職させろ、なんて言葉が出るなんて辛すぎる。
それでも、これが現実だ。苦労をするのは清夜だと分かっていても、それがあいつの人生だ。
彼の人生に、道しるべとなるような灯がともっていて欲しいと切に願う。
あの時。
自分たちは小さすぎて、何も選ぶことはできなかった。大人の言いなりに二つの家に別れて育った。どこが良いとか悪いとか、比べる必要などない。それでも、ここの人たちは優位をあげようとする。そんなの二つの家で育った清夜が、身をもって知っているだろうに。
本家には仏壇があるというが、月斗の部屋にも蔭膳を置くためのスペースがある。意味合いは少し違うのかもしれないが、できる時だけ炊きたてのご飯や買ってきたお菓子を上げる。
供養とは、どこにいてもできるものだ。そう教えてもらった、あの母に。
これまで自分が受け取ってきた目に見えない財産を、これからは少しずつ清夜にも伝えてやろう。
それで、これまでの時間を少しでも埋めてやれたら、あいつも変わるかもしれないから。
月斗は、これまでの自分の生きてきた時間を改めて振りかえる。
幸せだな、と心底思った。
今。
父と母と、そして誇れる兄がいる。
これからも、この家族の時間は続くのだ――。
【了】 著作:紫 草