MOLE / 生きてる証拠の備忘録

継続は力なり、というので、
出来る限りは毎日書くつもりです、多分。

母について( 家族へ )

2018-01-11 23:30:16 | 日記
1月11日深夜4時。とにかく目が冴えて眠れない。

誰かに伝える為ではなく、記憶から消さない為、
そしてこれから先に息子達が見る為に記録。

保存していた原文まま。
とりあえず公開しよう。

長すぎるな。でもいいや。
息子や妻なら読むだろうし。

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自宅で就寝。病院にいる母親の事を考えたら、
色々考えすぎて眠れない。

今は考えても仕方がないから、寝て体力回復を
しなければならないと分かっていても、
走馬灯のようにぐるぐると考えてしまう。

正直なところ、既に覚悟はできている。
母子家庭で一人息子の自分が、母親と永遠に
別れるという覚悟はできている。

母親は2月で70歳になるけれど、前々から、
ボケてまで生きたくない、とか、
お前らの世話にはなりたくない、とか、
死ぬ時は勝手に山奥で死ぬ、とか、
死に関する考えを吐露してくれていた。

自分だったらどうかと考えてみたけど、
さすがは親子、似た考えだと思った。
山奥では死にたくないけれど、
誰かの世話になったり、わけがわからない
状態で生きていくのは「地獄」でしかない。

だからある意味では、太く生きた母の人生の
終焉が母の想い通りだったならと、
そういう気持ちでいることは確かだ。

80歳で逝くのも、70歳で逝くのも、
意味は変わらない。その10年が満足いく
10年だったら、と、タラレバを言っても
仕方がないから、無理にでも納得せざるを
得ないような気がする。

ただ、今病室にいる母が、何を考えているか、
それを思ったら、胸が痛くて涙が出る。

余命宣告はしていない。1/5に主治医から
余命は一週間単位と言われたけれど、
それを母に伝える勇気はなかった。
母は教えて欲しいと言ったけれど、
どうしても口にする事は出来なかった。

でも多分もう母も自分の余命を察知している。
目も見えにくいと言っていたし、
起き上がることもできないし、
膀胱に管をいれて尿も垂れ流し。
ほとんど何も口にしない上に、
咳き込んで、寝ているだけなのに息切れ。

意識だけはしっかりあって、
全くボケていないことが、母の強さだと思う。

あくまでも自分自身を保ったまま、
逝こうとしている。

今母は何を考えているのか。
死を目前に控えた人間は何を思うんだろう。

もう好きな食べ物も食べられない。
もう好きな映画も見ることはできない。
もう仕事をすることもできない。
もう行きたい場所にも行くことはできない。

いつどうやって逝くのかも分からない恐怖の
中で、一人きりで戦っているのか、
諦めて手を挙げているけれど、トドメを
刺してもらえないような感覚なのか。

それとも、諦めずに一瞬でも長く生きようと
しているのか。

考えても考えても、分からない。
だから眠れない。

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痛いだの辛いだの弱音を吐かない母が、
2017年3月に胸が痛いと言って病院へ行き、
肺癌が見つかったと連絡を受けた時は、
信じられないという思いだった。

会社のフロア、終業後に残務処理をしていて、
帰ろうかなと思っていた時の連絡だった。
資料置き場の輪転機の前で話した。

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そこからは母を病院に連れて行って、
初めて主治医の先生と会って話した。

肺癌があって、脊髄に近いから、治療できない。

こいつ何言っとんねん。というのが、
最初の印象だったのを覚えている。

詳しく状態を聞いて、それから母だけを
診察室から出して、余命を聞く。

「1年か、もっても2年」

はっきりと、嘘だ、って思った。
だって全然元気に歩いてるし、喋るし、
ボケてないし、食欲もあるし、仕事もする。

たった1年かそこらで、死ぬわけがない。
そう思った。

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その日から、およそ10ヶ月が経って、
今の母親を見て、それが本当だったと分かる。
医者はすごい。ちゃんと、当たる。

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この10ヶ月は本当色々あった。

最初は妻にも言わなかった。
言ったら「真実」になりそうな気がした。
それに心配を掛けたくなかったし、
自分の母だから自分で介抱しようと思った。

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仕事に行くと嘘をついて、母を病院に連れて
いったりもした。検査が凄く時間がかかった。

抗がん剤治療を始められたのは、5月ぐらい
だったと思う。ちょうど家を建てている時期。

6月ぐらいに妻にも言ったんだったかな。
内緒にしていて申し訳ない気持ちになった。

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抗がん剤をやって、髪が抜けていき、
最初はボケてきたりもした。

自分のことを子どものように名前で呼んだり、
息子である自分を、自身の兄の名前で呼んだ。
抗がん剤の影響であったけれど、その時は、
もう長くはないんじゃないかと思った。

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それでも母の生き甲斐は「仕事をすること」
60過ぎてから、家政婦の仕事をしていた。
月に30万円も稼ぐこともあった。

若い頃は難波でスナックを経営したり、
お好み焼き屋をやったり、居酒屋をやったり、
丼屋をやったり、マッサージを覚えて
出張マッサージ店をやってみたり、
店を畳んでからは、関西中の雀荘に手紙を
送って、住み込みで働ける場所を探した。

結果、三重県の社長さんに呼んでもらって、
そこから数年間、雀荘の経営を任された。
行動力と人間力がずば抜けた人だった。

68歳とかで、月に30万円稼ぐって、
そんな女の人なかなかいないんじゃないか。

尊敬、しかない。

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癌になって、昨年9月。
仕事がしたい、死んでも良いから。
と言い出して聞かなかった。

家政婦の仕事に戻ると言って、
まだ体調もマシだったから、
最後の望みを聞いてあげたいと思って、
渋々了承して、送り出した。

少し喧嘩もしたから、そこから1ヶ月ぐらい、
連絡が取れなくなって、後悔をした。

いったい自分は何をしてんねん、と。
死ぬかもしれない母親と喧嘩してどうする。

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10/15に久々に母から連絡。
というか、救急隊員から連絡。

母が骨折したから来てくれとのこと。
仕事を抜けて急いで行くと、憔悴しきった
母がいて、左足首を骨折していた。

駅のホームでしゃがみこんで、
立ち上がろうとしたらコケたらしい。

全治3週間だというから、入院させた。
この時点でかなり癌も悪くなっていた。

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11/15に最後に会ってくれ、なんていう
メールが母から来て、何を拗ねてるねんと、
連絡をしたら、河内長野の病院で腎臓を
検査してもらっているなんて言ってた。

何やそれ....ちょっと知らない間に。

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12/6に主治医から、腎臓がかなり悪いから、
抗がん剤治療はできないと診断された。

腎臓が悪くなると、かなりマズイ状況になる
ことを初めて知った。

ここからずっと入院。

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12/30に一日だけ外泊許可を得た。
どうしても帰りたいという母の粘り勝ち。

車への乗り降りもままならないけれど、
この時点では自分の足で歩けていたし、
回転寿司にも行けたし、階段も昇降できた。

実家ではなく我が家に連れてきて、
和室で寝させて、ゴハンも食べて、
全然、ではないけれど、まだ大丈夫そうだった。

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ここからが早かった。

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年明けの1/5に主治医に余命は一週間単位、
と言われて、すぐに上司に連絡をした。

1/6から仕事始め。だったけれど、
もう母には時間がないから、仕事をしている
場合じゃないし、仕事に集中もできない。

そう考えた。凄く悩んだけれど、
後悔をするわけにはいかないと思った。

それでも少しは責任のある立場だから、
部下への資料だけはと思って、
1/5の夜は必死に資料を作った。

1/6だけは出勤したけれど、翌日からは
完全に休みをいただいた。

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1/7、1/8、は病室内の簡易トイレに
ベッドから移って自分で用を足せた。

ヤクルトと水は飲めたし、妻の作った
土手煮も食べられた。

余命について尋ねられたけど言わなかった。
元気になるって、と無責任なことを言った。

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1/9は、簡易トイレにも行けなくなった。
ベッドから起き上がることも出来なくなった。

だから大人用のオムツ。それから、管を通して
寝たまま用を足せるようにしてくれた。

1/9は、母と2人でかなり辛かった。
少し目を閉じていたら、怖かった。

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1/10は親戚が来てくれた。
4人で来てくれて、母もこれまでよりも
かなり元気になった。

来てくれたことが嬉しかった。
でも、やっぱり母は辛そうだった。

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1/11深夜5時。
眠れないから、布団の中でここまで書いた。

少し寝よう。

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1/12深夜1時。
妻に睡眠薬を盛られた。ココア飲もうよなんて、
おかしいなとは思ったんだ。

おかげでよく眠れそう。ありがとう。

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1/11の母親は今までで一番しんどそうだった。
天国行くの怖いか?って聞いたら、
怖くない、楽しみ。って言っていた。

これまでの感謝の気持ちを伝えた。
それからたくさん謝った。
黙って聞いてくれて、
一言だけ、「ええよ」と言った。

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妻のかぼちゃの煮付けを少し食べて、
飲むヨーグルトを小さいの2本飲んだ。

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体力を回復させないとまずい。