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MOLE / 生きてる証拠の備忘録

継続は力なり、というので、
出来る限りは毎日書くつもりです、多分。

罪滅ぼし

2018-01-12 23:30:36 | 日記
話す言葉さえ、意味が分からなくなった。

喘ぎと吐息を聞きながら、色々と思い返す。

悲しみよりも、後悔、が大きい。

こうして病院に泊まっているのは、

自己満足の罪滅ぼしなのかも知れない。

母について( 家族へ )

2018-01-11 23:30:16 | 日記
1月11日深夜4時。とにかく目が冴えて眠れない。

誰かに伝える為ではなく、記憶から消さない為、
そしてこれから先に息子達が見る為に記録。

保存していた原文まま。
とりあえず公開しよう。

長すぎるな。でもいいや。
息子や妻なら読むだろうし。

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自宅で就寝。病院にいる母親の事を考えたら、
色々考えすぎて眠れない。

今は考えても仕方がないから、寝て体力回復を
しなければならないと分かっていても、
走馬灯のようにぐるぐると考えてしまう。

正直なところ、既に覚悟はできている。
母子家庭で一人息子の自分が、母親と永遠に
別れるという覚悟はできている。

母親は2月で70歳になるけれど、前々から、
ボケてまで生きたくない、とか、
お前らの世話にはなりたくない、とか、
死ぬ時は勝手に山奥で死ぬ、とか、
死に関する考えを吐露してくれていた。

自分だったらどうかと考えてみたけど、
さすがは親子、似た考えだと思った。
山奥では死にたくないけれど、
誰かの世話になったり、わけがわからない
状態で生きていくのは「地獄」でしかない。

だからある意味では、太く生きた母の人生の
終焉が母の想い通りだったならと、
そういう気持ちでいることは確かだ。

80歳で逝くのも、70歳で逝くのも、
意味は変わらない。その10年が満足いく
10年だったら、と、タラレバを言っても
仕方がないから、無理にでも納得せざるを
得ないような気がする。

ただ、今病室にいる母が、何を考えているか、
それを思ったら、胸が痛くて涙が出る。

余命宣告はしていない。1/5に主治医から
余命は一週間単位と言われたけれど、
それを母に伝える勇気はなかった。
母は教えて欲しいと言ったけれど、
どうしても口にする事は出来なかった。

でも多分もう母も自分の余命を察知している。
目も見えにくいと言っていたし、
起き上がることもできないし、
膀胱に管をいれて尿も垂れ流し。
ほとんど何も口にしない上に、
咳き込んで、寝ているだけなのに息切れ。

意識だけはしっかりあって、
全くボケていないことが、母の強さだと思う。

あくまでも自分自身を保ったまま、
逝こうとしている。

今母は何を考えているのか。
死を目前に控えた人間は何を思うんだろう。

もう好きな食べ物も食べられない。
もう好きな映画も見ることはできない。
もう仕事をすることもできない。
もう行きたい場所にも行くことはできない。

いつどうやって逝くのかも分からない恐怖の
中で、一人きりで戦っているのか、
諦めて手を挙げているけれど、トドメを
刺してもらえないような感覚なのか。

それとも、諦めずに一瞬でも長く生きようと
しているのか。

考えても考えても、分からない。
だから眠れない。

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痛いだの辛いだの弱音を吐かない母が、
2017年3月に胸が痛いと言って病院へ行き、
肺癌が見つかったと連絡を受けた時は、
信じられないという思いだった。

会社のフロア、終業後に残務処理をしていて、
帰ろうかなと思っていた時の連絡だった。
資料置き場の輪転機の前で話した。

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そこからは母を病院に連れて行って、
初めて主治医の先生と会って話した。

肺癌があって、脊髄に近いから、治療できない。

こいつ何言っとんねん。というのが、
最初の印象だったのを覚えている。

詳しく状態を聞いて、それから母だけを
診察室から出して、余命を聞く。

「1年か、もっても2年」

はっきりと、嘘だ、って思った。
だって全然元気に歩いてるし、喋るし、
ボケてないし、食欲もあるし、仕事もする。

たった1年かそこらで、死ぬわけがない。
そう思った。

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その日から、およそ10ヶ月が経って、
今の母親を見て、それが本当だったと分かる。
医者はすごい。ちゃんと、当たる。

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この10ヶ月は本当色々あった。

最初は妻にも言わなかった。
言ったら「真実」になりそうな気がした。
それに心配を掛けたくなかったし、
自分の母だから自分で介抱しようと思った。

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仕事に行くと嘘をついて、母を病院に連れて
いったりもした。検査が凄く時間がかかった。

抗がん剤治療を始められたのは、5月ぐらい
だったと思う。ちょうど家を建てている時期。

6月ぐらいに妻にも言ったんだったかな。
内緒にしていて申し訳ない気持ちになった。

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抗がん剤をやって、髪が抜けていき、
最初はボケてきたりもした。

自分のことを子どものように名前で呼んだり、
息子である自分を、自身の兄の名前で呼んだ。
抗がん剤の影響であったけれど、その時は、
もう長くはないんじゃないかと思った。

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それでも母の生き甲斐は「仕事をすること」
60過ぎてから、家政婦の仕事をしていた。
月に30万円も稼ぐこともあった。

若い頃は難波でスナックを経営したり、
お好み焼き屋をやったり、居酒屋をやったり、
丼屋をやったり、マッサージを覚えて
出張マッサージ店をやってみたり、
店を畳んでからは、関西中の雀荘に手紙を
送って、住み込みで働ける場所を探した。

結果、三重県の社長さんに呼んでもらって、
そこから数年間、雀荘の経営を任された。
行動力と人間力がずば抜けた人だった。

68歳とかで、月に30万円稼ぐって、
そんな女の人なかなかいないんじゃないか。

尊敬、しかない。

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癌になって、昨年9月。
仕事がしたい、死んでも良いから。
と言い出して聞かなかった。

家政婦の仕事に戻ると言って、
まだ体調もマシだったから、
最後の望みを聞いてあげたいと思って、
渋々了承して、送り出した。

少し喧嘩もしたから、そこから1ヶ月ぐらい、
連絡が取れなくなって、後悔をした。

いったい自分は何をしてんねん、と。
死ぬかもしれない母親と喧嘩してどうする。

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10/15に久々に母から連絡。
というか、救急隊員から連絡。

母が骨折したから来てくれとのこと。
仕事を抜けて急いで行くと、憔悴しきった
母がいて、左足首を骨折していた。

駅のホームでしゃがみこんで、
立ち上がろうとしたらコケたらしい。

全治3週間だというから、入院させた。
この時点でかなり癌も悪くなっていた。

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11/15に最後に会ってくれ、なんていう
メールが母から来て、何を拗ねてるねんと、
連絡をしたら、河内長野の病院で腎臓を
検査してもらっているなんて言ってた。

何やそれ....ちょっと知らない間に。

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12/6に主治医から、腎臓がかなり悪いから、
抗がん剤治療はできないと診断された。

腎臓が悪くなると、かなりマズイ状況になる
ことを初めて知った。

ここからずっと入院。

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12/30に一日だけ外泊許可を得た。
どうしても帰りたいという母の粘り勝ち。

車への乗り降りもままならないけれど、
この時点では自分の足で歩けていたし、
回転寿司にも行けたし、階段も昇降できた。

実家ではなく我が家に連れてきて、
和室で寝させて、ゴハンも食べて、
全然、ではないけれど、まだ大丈夫そうだった。

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ここからが早かった。

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年明けの1/5に主治医に余命は一週間単位、
と言われて、すぐに上司に連絡をした。

1/6から仕事始め。だったけれど、
もう母には時間がないから、仕事をしている
場合じゃないし、仕事に集中もできない。

そう考えた。凄く悩んだけれど、
後悔をするわけにはいかないと思った。

それでも少しは責任のある立場だから、
部下への資料だけはと思って、
1/5の夜は必死に資料を作った。

1/6だけは出勤したけれど、翌日からは
完全に休みをいただいた。

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1/7、1/8、は病室内の簡易トイレに
ベッドから移って自分で用を足せた。

ヤクルトと水は飲めたし、妻の作った
土手煮も食べられた。

余命について尋ねられたけど言わなかった。
元気になるって、と無責任なことを言った。

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1/9は、簡易トイレにも行けなくなった。
ベッドから起き上がることも出来なくなった。

だから大人用のオムツ。それから、管を通して
寝たまま用を足せるようにしてくれた。

1/9は、母と2人でかなり辛かった。
少し目を閉じていたら、怖かった。

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1/10は親戚が来てくれた。
4人で来てくれて、母もこれまでよりも
かなり元気になった。

来てくれたことが嬉しかった。
でも、やっぱり母は辛そうだった。

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1/11深夜5時。
眠れないから、布団の中でここまで書いた。

少し寝よう。

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1/12深夜1時。
妻に睡眠薬を盛られた。ココア飲もうよなんて、
おかしいなとは思ったんだ。

おかげでよく眠れそう。ありがとう。

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1/11の母親は今までで一番しんどそうだった。
天国行くの怖いか?って聞いたら、
怖くない、楽しみ。って言っていた。

これまでの感謝の気持ちを伝えた。
それからたくさん謝った。
黙って聞いてくれて、
一言だけ、「ええよ」と言った。

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妻のかぼちゃの煮付けを少し食べて、
飲むヨーグルトを小さいの2本飲んだ。

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体力を回復させないとまずい。

衰弱

2018-01-09 23:30:54 | 日記
信じられないという気持ちが強い。

つい1年前まで、車を運転したり、歩いたり、
食事をしたり、口論をしたりしていた人間が、
たった1年足らずで、こんなにも衰弱する。

今この瞬間のことは絶対に忘れたくない。
涙は枯れ果てることはないんだと思った。

星野仙一 逝去

2018-01-08 23:30:45 | 日記
かなりショッキングで、むちゃくちゃ泣いた。

星野仙一逝去、先日このニュースが
日本列島を駆け巡った。

もうすぐ71歳になる年齢で、癌で他界。
他人事とは思えない。

星野監督といえば、個人的にはタイガースの
監督時代が一番記憶に残っている。

2003年、監督就任2年目。
金本をFAで口説き落として、リーグ優勝。
この年の野球が今でも一番好き。

2003年9月15日の敬老の日。
阪神対広島、勝てば優勝の試合。

9回裏満塁で赤星。星野監督は赤星の肩を抱き
アドバイス。結果、サヨナラで優勝決定。
こんなに痺れた試合はなかった。

10年後。

2013年の日本シリーズでは楽天星野監督が
宿敵巨人を破り、劇的な日本一。

最後の田中将大の起用、監督として初の日本一。
楽天も創立以来初の日本一、相手は巨人。
10年前にセレモニーで見送った原監督が敵将。


なんというか、
星野監督ってすごい人なんやな。


怒る時も真剣。褒める時も真剣。
苦難は乗り越えられる人にしか降って来ない。

名言もたくさんある。


色んな人のインタビューを聞いていて、
星野監督の人望がいかに素晴らしいかが
分かった。こんな人になっていきたい。


人はいつか必ず死ぬ。

最期に満足して逝けたか、後悔はなかったか。
それが生きてきた証になるんやな。


最近、死について考えさせられる。
後悔しないように生きなければいけない。


星野監督、御冥福をお祈りいたします。
たくさんの感動をありがとうございました。