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無意識の愛・・・オズワルド・チェンバーズ

2016-02-09 02:33:02 | 聖書日課
2016年2月9日(火)

オズワルド・チェンバーズ
「いと高き方のもとに」365日の黙想から


無意識の愛


愛は意識するものではなく、
思わぬ仕方であふれ出るものである。
パウロの愛に対する考え方の基本には、
計算高い確かさの要素など少しもない。
私たちは「人のした悪を思わないことにしよう。
すべてを信じることにしよう」と言えない。
意識しないということが愛の特質である。

それゆえ、
私たちはイエスの言われたことを模範にしたとしても、
自分の力で従ってゆくのではない。
御霊が私たちを自由に扱われる時、
気がつかない間にイエスの模範に従って、
生かされているのである。
同時に神の愛の本質が明らかにされるのである。

愛の泉は神のうちにあり、
私たちのうちにはない。
生まれながらの心に神の愛を求めるのは、
もともと愚かなことである。
聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれる時にのみ、
愛は私たちのうちに宿るからである。

また、
主をどれくらい愛しているかを示そうとしても、
私たちは愛していないという確かな証拠があるだけである。
主に対する私たちの愛の証拠は自然に生じる全く自発的な愛でなければならない。

私たちの信仰生活を振り返ってみて、
説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことある。
それはただ、神の不変の愛が、
その何ものにも束縛されない本質に従って現わされたものである。
愛の泉は聖書のうちにあり、
神はそのいのちをさまざまな時に、
さまざまな方法で私たちのうちに現わされるのである。



愛は ――寛容であり、親切である ――愛は。

〔愛は〕妬まず、[愛は]自慢せず、高ぶらず、

ふさわしくない振る舞いをせず、自分自身のものを求めず、苛立たず、悪しきことを企まず、

不義を喜ばず、しかし真理を共に喜ぶ。

〔愛は〕すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。


新約聖書 Ⅰコリント13:4-7

ー岩波翻訳委員会訳1995ー





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