「こころの清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。」
マタイ5・7
このみことばを聞いて、真面目な魂は自分の心の深みまでも探られる思いがします。
というのは自分の心ほど汚れたものはないことを知っているからです。
清い心は、罪や汚れた思いをもたない心のことと考えます。
しかし、じっさいにそのような清い心はこの世に存在しません。そうすれば、
「神を見る」魂はこの世にひとりも存在しないことになります。
「自分に罪がないと言うなら自らをあざむいており、真理はわたしたちの内にありません。」(Ⅰヨハネ1・8)
と言われているとおりです。
それでは清い心とは、信仰と愛に満たされた心のことでしょうか。
パウロは、晩年になって「わたしは、その罪人たちの中で最たる者です」(Ⅰテモテ1・15)
と言っています。また、ヨハネも「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」
(Ⅰヨハネ1・10)と言っています。
それでは「清い心」とはいったいなんでしょうか。
旧約のヘブライ語であれ、新約のギリシャ語であれ、原文で「清い」という意味を調べると、
それば「罪のない」「完璧な」という意味ではなく、「まじりけのない」すなわち、
心に隠し事や偽りや偏りがないという意味であることが判ります。
多くの場所では「誠実な」という意味に訳されています。
詩篇では一か所で「心の真実」と訳しています。
「清い心」とは「罪人の心」です。
ですから汚れた思い、罪の思いに満ちています。冷たく、無関心の心です。
しかし、それを隠したり、弁解したり、汚れたままにしておかずに、
神の前にそのまま打ち明けるので、罪人の心は清くなります。
イエスは「幸いである、その人たちは神を見る」と言われます。
十字架の上に神を見、神の小羊に信頼します。神のみ霊が働いて、それを可能にしてくださるのです。
さらにすばらしいことには、毎日のできごとの中に神を見、毎日の仕事の中に神を見ます。
毎日の生活の戦いの中にも、喜びの中にも神を見ます。神のみ旨と、神の御計画を見るのです。
O ハレスビー 「みことばの糧」より
その人たちは神を見る。」
マタイ5・7
このみことばを聞いて、真面目な魂は自分の心の深みまでも探られる思いがします。
というのは自分の心ほど汚れたものはないことを知っているからです。
清い心は、罪や汚れた思いをもたない心のことと考えます。
しかし、じっさいにそのような清い心はこの世に存在しません。そうすれば、
「神を見る」魂はこの世にひとりも存在しないことになります。
「自分に罪がないと言うなら自らをあざむいており、真理はわたしたちの内にありません。」(Ⅰヨハネ1・8)
と言われているとおりです。
それでは清い心とは、信仰と愛に満たされた心のことでしょうか。
パウロは、晩年になって「わたしは、その罪人たちの中で最たる者です」(Ⅰテモテ1・15)
と言っています。また、ヨハネも「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることである」
(Ⅰヨハネ1・10)と言っています。
それでは「清い心」とはいったいなんでしょうか。
旧約のヘブライ語であれ、新約のギリシャ語であれ、原文で「清い」という意味を調べると、
それば「罪のない」「完璧な」という意味ではなく、「まじりけのない」すなわち、
心に隠し事や偽りや偏りがないという意味であることが判ります。
多くの場所では「誠実な」という意味に訳されています。
詩篇では一か所で「心の真実」と訳しています。
「清い心」とは「罪人の心」です。
ですから汚れた思い、罪の思いに満ちています。冷たく、無関心の心です。
しかし、それを隠したり、弁解したり、汚れたままにしておかずに、
神の前にそのまま打ち明けるので、罪人の心は清くなります。
イエスは「幸いである、その人たちは神を見る」と言われます。
十字架の上に神を見、神の小羊に信頼します。神のみ霊が働いて、それを可能にしてくださるのです。
さらにすばらしいことには、毎日のできごとの中に神を見、毎日の仕事の中に神を見ます。
毎日の生活の戦いの中にも、喜びの中にも神を見ます。神のみ旨と、神の御計画を見るのです。
O ハレスビー 「みことばの糧」より
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